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キャニコム、アメリカへ⑧

初回の発注50台というスタートを切った。
2008年2月にThe Rental ShowというARAの展示会で大々的なプロモーションを行った。この「コンクリート砂男」は躍進を続ける形になるが、まだそれは大柱になる前の話だ。

なぜホンダを使わない?

エンジンが当時は富士重工(スバル)のエンジンと三菱エンジンを採用をしていた。全米の汎用エンジンは2大ブランドエンジンとホンダの3社がほぼ採用され、独占していた。なのでスバルと三菱にここまでこだわるのはなぜだ?という話になる。これは今でもよくわかっていない。ロット数の問題ですが、これについての件も米国事業に関わる案件なので後程。(*結論としては三菱は2008年に排ガス規制で輸出不可、2015年にスバルは事業撤退となる)
これはずっと現地で指摘されていたことだ。エンジンブランド信仰が根強い。なぜならサービスネットワークが整っているのだ。米国でのホンダは絶大なる人気のあるブランドエンジンなので拡販するためには必要なカードになるエンジンだった。しかしホンダエンジンは当時は「NO」という答えだった。まずは台数の確保ができないのと、以前の取引でうまくいかなかったこともあったためだ。当時の経営陣がH社の一方的な印象の悪さも重なり、全く載せ替えという選択がなかった。
「困った」。。。私情に近い判断でこれからもやっていけるのだろうか?という不安もよぎった。
それでも米国販売の拡大をしなければならない。
当時知名度の低いキャニコムでは「コンクリート砂男」の拡販を米国でOEMとして供給し、販売をしてもらえる会社を必死に探していた。
当時の社長(現会長:父)が「キャニコム」ブランドで全米の販売をしたいと決めて、米国進出をしたのに真逆な事をやっていた。切実に販売を増やさないと焦りがあった。

時間はかかるが、会社のブランドを信じて自分で売ってみろ。

まだキャニコムと併用で販売できないかを模索していた時に、現地の日本人経営者と出会った。たまに展示会でお見掛けしますが、これは今でも笑い話になる。これは今となって信じて良かった言葉だ。

「短絡的な事を考えるな、今やれる最大限のことをやってみろ。まだまだやれるだろ。販路はお客様との信頼関係。それは製品ではないか。だから製品にもっと向き合って、信じてやってみなさい。」という言葉だった。そして最後に「アメリカだからってね、あごひげやジーパンなどみっともない格好で対応するなんて、必死じゃない証拠だ」という金言も。アメリカだからということで髭を生やしていた。それ以降、身なりを整えることにも注意をした。

ただ、焦っていた。もっと台数を売らないと債務超過を見逃してくれない。どうしたらいいのやら。不安だけが残り、そろそろお互い出張先のホテルの部屋が別々に泊まれるぐらいにはなりたい、LCCに乗るのはもう嫌だよね。日系の飛行機会社で帰ってみたいよねなど話をしていた。徐々に売上は伸びていった。関税も回避できた、これから新しい動きができるのではないかと実感していた。草刈機分野にも販売を増やしていきたい。そしてとうとう2008年の決算では100万ドルを突破した。

しかし同時期に2008年9月15日にリーマンショックが来た。
現地にいながら、さっぱりわからなかった。サブプライムローンって?というレベルだ。レンタル業界は住宅事情にも直結している業界だ。なぜなら、造園、建築などに直結をしている。直ぐに影響が出たが翌年の2009年から早速出た。それを待たずに日本側から連絡が来た。

アメリカ事業の撤退。

まずは自宅待機と連絡があるまで動くなということだった。まずは米国での活動に不正をしているのではないか?という日本側からの懸念の連絡があった。要はドラ息子が勝手にやっている米国事業は日本側の本社のお荷物なので一度撤退をして、体制を整えるという連絡だった。
2008年度の決算で100万ドルを超える見立てもでき、これからという時に、切り詰めて、切り詰めてやってきた努力が無駄になる瞬間だった。すべての社員を一度解雇し、撤退して、本社主導で体勢を立て直すという連絡だった。
すでに累積借金が6億近くあり、リーマンショックで売上は見込めないのではないかという話だった。しかし売上はずっと低空飛行だから何も影響はないと思っていたが、どうも周りでうごめく、ドロドロとしたものが忍び寄っていたのだった。

信用もなく、借金しかない。どうやって首の皮がつながったのかをオブラートに包みながら書くことができればと思います。通算2回目の撤退というカードを切られた米国事業。この後もう1回来ますが、これはまだまだ先の話です。

ドロドロとした話をサラサラにして続きます。

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