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しきから聞いた話 169 涙花草

「涙花草」(なはなくさ)


 涙花草、というものがある。

 草、というからには、植物だろうと思われるが、実際何なのかは知らない。実物を見たのは、これまでで2度。秋明菊にそっくりだった。
 秋明菊は、キクと名につくが菊ではない。涙花草も、草とつくが植物ではないかもしれない。
 水のきれいな沢のあたりにあるというが、見たのは鉢に植えられていた。切って水に差してもよいのだと聞いた。

 心が壊れそうなくらい悲しい出来事があったとき、この草を近くに置くとよいという。この草は、生き物の悲しみを受けて育つ。沢のあたりにあるときは、葉が4、5枚だけの小さな株で、その大きさのまま何年でも過ごすが、悲しむものの傍に置かれると、急激に成長する。
 そして、秋明菊にそっくりな花が咲いたとき、悲しみが消えるのだという。

 そんな話を、馴染みの古道具屋でしたのは、1週間ほど前のことだった。
 女主人が古い民家から、かなりたくさんの古物を引き取ってきて、その整理やら手入れに手伝いを頼んだ者が、むかし涙花草を見せてもらった村の出身だった。だから何ということもないが、話をしたら、女主人は興味を持ったようだった。

「そりゃあれだね、薬みたいなもんだね。ずいぶん珍しいものなのかい」

 片眉を上げて、こちらを見る。
 ひと儲け、たくらんでいるのか。

 珍しいと思うよ。ひとの手では殖やせないと聞いたし、花が咲くと、すぐに消えてしまうらしい。

「消える? どういうことだろうねぇ」

 さあね。消えるところを見たことはない。

 女主人はふぅんと言ったきり、それ以上は尋ねてこなかった。なので、この話はそれで終わったものだと、それきり思い返すこともなかったのだが、一週間ほどして連絡が来た。

「ちょっと、見に来てくれないかぇ。こないだの話、ほら、涙花草」

 どうしたことかと思ったら、手伝いの者がわざわざ、村へ帰って探してきたのだという。

「あんたならわかっているだろうから言わなかったけど、あの子、穴熊なんだよ。鼻が利くんだろうねぇ。あたしが喜ぶと思って、探して来たって。いい子なんだけどさぁ」

 女主人は、何かあわてているような、困っているような口ぶりだった。こちらとしても、それとは別の気がかりがあったからすぐに訪ねて行くと、店の奥の作業台のところに女主人が座り、目の前にガラスの花瓶があった。

 間違いない。秋明菊にそっくりな草。涙花草だ。

「あぁ、悪いねぇ、呼び出して。ねぇ、見ておくれよ、これ」

 眉間にしわを寄せ、上目遣いでこちらを見る。

 涙花草にはつぼみがついており、そして、全体にしおれかかっていた。

「あぁ、どうしよう。朝はもう少しシャンとしてたんだけど、もう、つぼみが下を向いちまって。ねぇ、どうしよう」

 女主人の慌てぶりを見て、このひとは流石だなと思った。してはいけないことをしてしまったのだと、勘でわかるのだろう。

 そう。成長を始めた涙花草を、悲しむものの傍から離してはいけないのだ。
 花が咲けば、悲しみが消える。しかし、花を咲かせられなかったら。

「つぼみがついてるってことは、この草は、誰かの悲しい心を引き受けたってことだろ。大丈夫なのかねぇ、こんなんなっちまって。心が壊れるくらいの悲しさを引き受けてるんだろ、こんなとこに持って来ちまって、ねぇ、いいわけないよねぇ」

 おろおろする女主人など、珍しい。
 しかし、それを無責任に面白がっている場合ではない。元はと言えば、ここで涙花草の話をしたことにも、責任はあるだろう。
 さて。
 ところで、穴熊はどこにいる。

「昨晩のうちに、村へ帰らせたよ。この草を取ってきたあたりで、困っているものがいないか、見といでって」

 穴熊が涙花草を持って来たのが、昨日の朝。そして、夕方頃にはもう、しおれ始めたのだという。
 とにかく、穴熊からの連絡を待つしかないか。ほかに手立てを思いつくでもないし、と話していたところに、店の入口の引き戸が開いた。

「もし。こちらに、草があると聞きまして」

 見ると、薄茶色のワンピースを着た、手足の細い女が立っていた。
 どうも、ひとではないようだ。

「あぁ、まぁ、よかった、あんたの草かぃ。ちょいと、こっちへいらっしゃいな」

 女主人が立って、女の手を引いてくる。
 涙花草の花瓶の近くに女を座らせると、驚いたことに、すぐさま変化が現れた。
 しおれかけた葉や茎が、見る間にぴんと伸びてゆく。しなだれていたつぼみも、上を向いてきた。

 女は、その様子を見ながら、ぽろぽろと涙をこぼした。

「子供が、猟師に撃たれて、死にました。初めての子。悲しくて、悲しくて、泣いてばかりいたら、山の神さまがこの草を教えてくれたの」

 花が、ほころび始めた。
 ゆっくりと、ゆっくりと悲しみをほどいて、開いてゆく。
 白。純白の花弁。淡く光る。

 花は、開ききったと思うや、光の粒子のように散じて、消えていった。

「あぁ、消える、本当だねぇ」

 女主人は、女の背中を優しくさすりながら、消えてゆく花をじっと見ていた。

 涙花草がすっかり消えてしまうと、女の口元には、微笑みが浮かんでいた。目にはまだ憂いが残る。しかし、何かが変わった。あるいは、何かが消えたのか。

 女主人が立って、茶を淹れる支度を始めた。

「そういえば、あんたにここを教えたのは、穴熊かい」
「はい。昨晩から走り回って、探してくれたそうです。いま、疲れて、山で寝ていると思いますよ」

 自分が思いつきで草を取った、とは言っていないらしい。
 女主人が、小さく溜め息をついた。

 これは、後できつく𠮟るつもりだろう。
 あまりきつくすると、穴熊のために涙花草がいることになるよ、と、耳打ちしておこうか。

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