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バレエ感想㊸「マノン」パリオペラ座バレエ団(2/18リュドミラ・パリエロ/マルク・モロー)


2/18マチネはリュドミラ・パリエロと、マルク・モローによって演じられました。
リュドミラもマルクも本当に普通にいそうな控えめな2人という感じで、1幕の出会った瞬間に感涙しました。素敵な女性に思わず目を奪われてしまうマルクと、ちょっと気になるかもという感じのリュドミラ。なんとも青々しくて美しくて、見る人に若き頃の初恋を思い出させます。

さて、皆様の感想を見ているとリュドミラの美しさに心を奪われたファンは沢山いるみたいで、私自身もリュドミラの美しさと控えめな様子に惚れ惚れしました。ですが私はリュドミラだけでなく、マルク・モローの役作りに心惹かれました。今回3キャストのマノンを見ましたが、神学生という役をここまで落とし込んでいるのはマルクしかいないのではないかと思ったのです。
今回はマルク・モロー演じるデ・グリューは神学的にどのような要素を反映したキャラクターだったのか、私なりの分析を書いてみたいと思います。

マルク・モローのデ・グリュー像について、神学的に考察してみた

マルク演じるデ・グリューは神学生という設定であり、カトリックの世界では神学生は恋愛対象や性的対象として女性に興味を持つことは許されません。18世紀のフランスならおそらくカトリックでしょう。マルク・モロー演じる真面目な感じはリアルに私が接してきた真剣な神学生や聖職者を彷彿とさせます。
リュドミラ演じるマノンを見た瞬間、思わず目を奪われてしまい、でも惹かれてはいけない人に惹かれてしまったからのように目を向けないようにしますが、心のざわめきを抑えられない、そのような動きを感じさせます。マルク演じるデ・グリューの女性への興味を持ってはいけないという自制心と、気になる人を求める本能のせめぎ合いがなんともリアルで、その苦しみが伝わってきたように思います。

マルクがリュドミラを見る視線はなんだか崇高なものを見ているようで、マノンの美しさを聖母マリアの純真さに置き換え、マノンに惹かれる自分を聖母マリアへの敬虔な信仰と同一視しているように感じました。
カトリックは聖母マリア信仰がかなり大きく、マルクはまさにかなり敬虔な聖母マリア信仰を持っているタイプのように思えるのです。きっとマノンを聖母マリアのように崇高な存在と同一視してるのでしょう。自分にとっての聖母マリアと同等である美しいマノンは永遠にデ・グリューの憧れの対象となったのだと感じました。

マルク・モロー演じる神学生デ・グリューがマノンに対して向ける視線は情欲や独占欲というよりも、崇高なものを求める敬虔な聖職者のように感じました。そして女性に聖母マリアのような崇高さを求める高潔さがカトリックの信仰を反映している気がしました。女性はマリアのように崇高で高潔であるべきと願っている様子でした。
マルク演じるデ・グリューはその真面目で高潔な様子からも、誰かに心から惚れたらその人に聖母マリアへの一途な信仰を投影し、その人を聖母マリアのように神聖なものとして扱いそうと思いました。彼にとってその女性は聖母マリアの如く神聖なのですから、絶対に浮気はしないでしょう。ですがその女性に浮気をされたら自分の信仰を打ち砕かれたの如く激昂しそうです。
おそらくマノンはデ・グリューにとって聖母マリアのような存在でしょう。聖母に一途な信仰を誓い自分は救われると願うデ・グリューは、マノンが去ったことを最初は受け入れられないと思います。自分の元を去ったマノンをデ・グリューはきっと責めたはずです。ですがそもそもデ・グリューが貧乏でお金がないからこそマノンが去ったわけで、現実を見ずに自分の信仰や宗教観を勝手に女性に投影するのはやめて欲しいですね。

聖母マリアのように崇高な存在であるマノンは自分だけのものであり、自分以外の男が彼女に手を出すなんて耐えられないし、考えられなかったのではないかと思います。
別の人の愛人になったマノンは、もはや彼にとって救いを求めるべき聖母マリアではなく、罪を犯したマグダラのマリアのように罪深い存在であり、自分が彼女を救ってあげなければいけないという使命感にも駆られているように思います。
少し注釈すると、カトリックの世界ではマグダラのマリアはルカ伝に登場する「罪の女」とマグダラのマリアが同一視されており、マグダラのマリアは罪を犯した人間として考えられています。デ・グリューが深いカトリック信仰の持ち主である場合、マノンをマグダラのマリアのように罪の女と捉え、聖職者である自分がマノンを救いへの道に導かなければならないという使命感に駆られた可能性は高いでしょう。

2幕ではデ・グリューは本物の聖職者みたく和やかです。お酒を勧められてじゃあ少しだけと口にして、とにかくにこやかです。こういう神父様や修道士の方、実際にいらっしゃいます。聖職者って基本的に良い人が多くて、人当たりもとても良く、信者さんに良くされると断れないのです。本物の聖職者であれば、寄ってくるどんな人も邪険に扱うことはせず、モローの振る舞いは優しく、本物の聖職者のように丁寧な振る舞いでした。

社交界の女王として他人のものとなっているマノンを見たデ・グリューは苦しくてたまらず、見間違いであってほしいと願ってる感じで、とにかく悲痛な様子です。ここでのマノンはデ・グリューにとってはもはや聖母のように純潔な存在ではなく、罪深きマグダラのマリアです。自分が聖母マリアのように崇め、愛したマノンが他の男に体を売っており、デ・グリューにとってマノンはマグダラのマリアのように罪深い存在なのです。でも愛があるから、罪を犯してしまったマノンは、自分が救ってあげなければいけないという高潔な使命感に駆られているように思いました。マノンへの愛や情欲をここでも信仰心に置き換えているように感じました。神学生という立場上、女性への愛を認められず、自分の情欲を信仰に置き換えて正当化しているように見えます。
こんな変に真面目な女性像を押し付けてくる男が現れたら、私なら迷惑と思いますが、それだけデ・グリューが純真なのでマノンも打たれたのでしょう。

娼館から逃げた旅行準備のシーンでも、ブレスレットを見つけたデ・グリューは自分が罪深き場所(娼館)から救ってあげたマノンが、まだその残存的要素であるブレスレットをつけているのを見るのは、罪の象徴を眼前に突きつけられているようで、耐えられない様子であり、どうにかして罪の象徴を取り去ってほしい、そのように変に女性に純真さを求め、強要する身勝手な聖職者像を感じました。

3幕は2人とも疲れ果てているように思います。看守に凌辱されたマノンはナイフを自分に向けますが、自殺は大罪です。マルク演じるデ・グリューはマノンを必死で止めようとしていましたが、愛するマノンに死なれたくないというだけでなく、マノンに自殺というこれ以上の罪を犯させたくないのだと感じました。自分はその前に看守殺して大罪を犯しているじゃん!と心の中で突っ込みましたが、人間は非常に自分勝手です。デ・グリューにとってはきっと自分が犯した殺人は人を救うために正当化し、自分の愛の対象であるマノンのナイフ自殺は大罪を止めなくてはいけない、変に聖職者じみた真面目な使命感を感じました。

沼地のシーンでもマノンへの愛というよりも、神への贖いというのか、死ではなく生きて罪を償って救いを求めるような、すがるような印象を受けました。マノンが腕の中で息絶えたときも、デ・グリューは泣いたりして人間的な一面を見せるというよりも、天を仰ぎ茫然としています。
宗派にもよりますが、色々な文献に触れていると、カトリック教会の信仰は「罪深きは罰せられるべき」というような厳格な詰問さを感じる時もあります。沼地で死ぬことによって、デ・グリューは「神は私たちを罰した。これによって私たちは救われる」と思っていそうです。まるでこれで罪は贖われたと、マノンは死によって永遠の命を得たのだと自分の悲しみを信仰や贖罪に置き換えて正当化しているような、どこまでも高潔であろうとしてる聖職者としての理想を感じました。

好き嫌いは別として、全幕で一貫して高潔な聖職者としての理想を追っているデ・グリュー像がとても印象的でした。

リュドミラ・パリエロの役作りについて考察

デ・グリューと出会った時のリュドミラは何も知らないというよりも、なんか素敵な人が来たという感じの、幼い子が新しいおもちゃに興味を持つ感じの様子でした。寝室のパドドゥでは徐々に恋に落ちて、嬉しくてたまらない感じだったことがとても印象的です。

妙に高潔な聖職者らしかったマルク演じつデ・グリューに対し、リュドミラ演じるマノンは信仰心なぞなく、理想よりも生きるための現実を見ている様子を受けました。
兄レスコーとムッシューと踊るときは、男性に逆らうことが出来ないとわかっており、兄に有無を言わずに従っている感じでした。デ・グリューのことは好きだけど、自分より強い立場である兄という男性には逆らえず、兄の命令に従います。ムッシューに身請けされることを受け入れ、ムッシューに一瞬だけ指を絡めてベッドに向かいます。ムッシューに貪りつくように求められ、戸惑いますがこの瞬間には覚悟を決めていたのでしょう。
富の象徴である高い毛皮のコートを着て去る時は、ベッドにすがりついて自分が心から愛したデ・グリューへの思慕を表現するダンサーが多いですが、リュドミラは後ろ姿を見せて観客に想像させていました。名残惜しそうに振り返るけど、生きるためにはムッシューと行かざるを得ない。立場の強い男性には逆らえない当時の女性像をよく表していると思いました。
マノンは自分の肩に自分の未来だけでなく、兄の未来もかかっていることを見通していたのでしょう。当時の女性に選択権はありません。

娼館でデ・グリューを見つけた後は、驚きつつも現在の生活を手放せないこともわかっており、胸を掻きむしられます。男性陣と踊るパドドゥは足がめちゃくちゃ綺麗だったことが印象に残りました。リュドミラの鮮烈な美しさが、マノンの美しさをさらに説得力を持って語っているような気がしました。

3幕については、リュドミラは死んだ魚の目です。男性たちに散々翻弄され、アメリカ大陸までの長旅で疲れたマノンは、どこに行っても男性に翻弄される運命であり、既に抵抗する気力がありません。リュドミラの美しい足がドラマチックに動きますが、その動きがどんどん小さくなってきて、命の灯が消えそうな様子をよく表していたと思います。

総括:千秋楽と同日だったのが本当に悔やまれる

2/18はソワレが来日公演の千秋楽かつ、大人気エトワールのマチュー・ガニオとミリアム・ウルド=ブラームが出演ということもあり、大方のバレエファンはおそらく同日ソワレに行く予定を立てていたと思います。リュドミラとマルクの回はこの1回だけなのに、他の回に比べてチケットの売上が芳しくなく、なぜNBSさんはこの日程を立ててしまったのか、謎です。この日でなければ完売でしたでしょうに…😭
ちなみに私は今回どうしてもマチュー/ミリアムの千秋楽に行きたかったため、最初はリュドミラ/マルク回は購入していませんでしたが、初日のドロテ/ユーゴ組に心を揺さぶられ、これは見ないと後悔すると思い、慌てて購入。結論から言えば、とてもいいお金の使い方が出来たと思いますし、見に行って本当に良かったです。

初日の感想はこちら。気になる方はぜひ😊


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