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仮説1:他人に喋っているようで実は他人は関係ない。

僕もなんだかんだで男の子なので、好みの女性のタイプがあります。

なので、ショートが似合いそうな人がロングにしてたり、ロングが似合いそうな人がショートにしているな…みたいなことを勝手に考えています。

それは僕の個人的な意見なので、本人の意思とは全く関係はありません。

昔、街中インタビューかなんかで、奇抜で、男ウケしない恰好をする女性が「男のためにファッションしてるわけじゃない」と答えている映像を見たような、見ていないような、見たような気がします。

確かに、男性が理想とする女性像と女性が理想とする女性像は──男性像の場合でも──異なることが多いので、芸能人の同性からの支持/異性からの支持が偏る現象は、トーク番組のテーマとして目にすることがあります。

ファッションの観点だけで見ても、内発的に自らを着飾る動機と、受け手の反応のギャップについては、このように普遍的な話題として存在するのです。



SNS=承認欲求という共通認識

さて、僕はツイッター(死語)が隆盛を極めた頃から10年ぐらいはそれを使い続けていますが、世間的にツイッター(死語)が注目を集めたひとつの現象として、「バカッター」の炎上があったと思います。

「いいね」や「リツイート(死語)」が相互に行われ、その繰り返しに快感を覚えると、承認欲求が刺激されるため、より多くの反応が欲しくなる。そしてそれがエスカレートした結果として、センセーショナルで過激な言動に発展するという構造です。

なので、SNS時代において、承認欲求が行き過ぎることは悪であり、人に理解してもらいたい、共感して欲しいという感情すらよこしまなものであるとする風潮が一部であると思います。実際僕もいつからか、本音を明かすことを避け、なるべく当たり障りのない言葉を使うようになっていきました。

その考えが自分にも染みついていたので、自分がSNSを使う理由はこの承認欲求という謎の力によって自分がコントロールされているからだと思っていました。最近までは。


SNSを辞めたくなった

「ツイ廃(死語)」という言葉があります。

それの意味するところは、廃人です。彼らは、ツイッター(死語)から離れられず、延々とタイムラインを読みます。一日のうち長い時間を使って自分の意見を発信、もしくは周囲の意見に反応し続けます。

僕も例に漏れませんでした。全体から見たらツイ廃(死語)になる人の割合はかなり少ないのかもしれませんが、フィルターバブル現象によって"ツイ廃の友達の割合"が増えた私にとって、タイムラインは常に友達が賑やかに喋っている素敵な場所になりました。もしくはそう映りました。だから、彼らと同じように、欲求を刺激し続け、夜遅くまでタイムラインを見続けました。

朝起きてこう思いました。「何がそんなに楽しかったのかよく分からない。」

弊害に目を向けると、ツイッター(死語)に夢中になることは非生産的な活動だと感じました。翌朝の自分が「すごい!昨日はあんなにツイッター(死語)ができたぞ!嬉しいなぁ!」と思うことはなかったからです。

だから、何度も”SNSを使わない人"になりたいと思いました。そのために、承認欲求をコントロールすれば、SNSをやらずに済んで、翌朝の自分も喜んでくれるだろうと考えました。


SNSから逃げられないのは何故?

僕は定期的にSNSから離れます。平均して1ヶ月くらいログアウトしたまま姿を現さず、何かの節目や盛り上がるお祭りごとの時に戻ってきてまた中毒状態になります。それが「農閑期」「農繁期」のようだと比喩されたこともあります。

この波が存在していることは、SNSが人を中毒に至らせる力を持っていることと、私が本質的にはこの行動のことを愛していないのに、何故か気持ちよいと感じてしまうことを示唆していました。会いに行ける距離にいる人間関係が乏しいことも、ついSNSを開いてしまうことと関係しているかもしれません。

これまで説明した要素を用いて僕のことを定義しようとするなら、「生得的に存在する承認欲求から逃げられないため、その欲求が僕をSNSに向かわせている」という理解に落ち着きます。

だから、自らの「承認欲求」という気持ちに改めて向き合ってみたのですが、実は、考えれば考えるほど、正直他人に対して何かを伝えたいという気持ちを持ち合わせていないことに気が付いたのです。


そもそも承認ってなに?

僕は基本的に自他の境界がはっきりしていて、悩み事は人に相談しないで自己解決するタイプだし、他人の思想に対しても干渉したいという気持ちがあまりありません。あと、いつからか「持論を喋りたくなるのはみっともない」という思考にも囚われていました。

だから、つぶやく内容は「ウオオオオオオオオオオオオオ」とか、「ア!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」とか、「早くラメーンキメて楽になりたい」とか、タイムラインの盛り上がりに応じた(もしくは関係のない)中身のない定型文だらけで、特に内容のある文章を投稿していません。

これが承認欲求だとして、これがエスカレートするとその先にどのような変化が起きるのでしょうか?より自己を開示し過激な意見を言うようになるでしょうか?いや、つぶやきは日々、ナンセンスな方向に向かって洗練されていきました。「承認して欲しい自己」に実体が伴っていないのです。むしろ、承認欲求がないから自分の意見を言う必要がないし、こんなにも内容がないのではないか?などとも考えました。自分の存在が、承認欲求がエスカレートして叩かれる図式に当てはまりません。

そもそも、承認ってなんですか?


他人に向けて喋っているようで他人は関係ない

人は誰かに何かを伝えたいのではなく、自分をデザインするためにインターネットに投稿するのではないか?というのが今回の仮説です。

インスタグラムってありますよね。あれは自分のプロフィールページに行くと、自分が今まで"映える"と思った写真が一覧で出てきます。それは人生を切り取った美しいアルバムのようで、惚れ惚れします。いわゆる「インスタ映え」って、人に見せたいってだけじゃなくて、それに自己満足したいから求めている部分はありませんか?

かなり長い前置きの冒頭で述べました。内発的に自らを着飾る動機と、受け手の反応にはギャップが存在すると。受け手の反応を基準にファッションを選択することもあります。無難なネイビーブルーをいつも選んでしまう、という慣用句もあります(たぶんありません)。

「人に理解されなくても、自分はこの服装を着たい。」これと似た心理がSNSにも適用されるのではないか、という視点が僕には抜けていました。

自己に対するセルフイメージを定義するために、それを対外的に表現するということです。

僕のセルフイメージについて考えました。僕は人の意見に口出しすることを好みません。あと、比較的年下と関わることが多いので、正論や難しい話をして萎縮されるよりは、当たり障りない、なんか楽しげでアホらしいことを連呼して(それも好きだし)、むしろ人に舐められている方がことが上手く進むと思っています。

だから、「これが自分だ」ということを確認するために、そのことを定期的に発露したくなる。そして、吐き出された文章を見て自分を確認する。

その次に、そこに返ってくる反応から、このセルフイメージが社会にどう受け取られるかを知る。他者に向けて、またはその反発として自分を定義したい気持ちを持つのです。周囲の目に映る自分を見て、自分を確認し、軌道修正をします。

「誰かに何か言いたい」「誰かに分かって欲しい」が先行して投稿しているのではなく、「自分はこういう人間なんだ」という認識が発生した時に投稿する。そういう自分がいたことに気付いて、その解釈で考えると腑に落ちました。「すぐ人に見せたくなるのは誰かに褒めてほしいから?」と自分を疑っていましたが、そういう訳ではなかったのです。

新しい靴を買ったり、新しいアプリを入れたり、新しい悩みの種が巻き起こったり。人生の大小を問わないイベントが発生した時、自分の認識をアップデートするために投稿する。投稿された文章を見て自分を確認する。そして副次的効果として他者の反応を知ります。

似たようなことで、「既に結論が決まっているのに人に相談する」がありますよね。友達が恋愛でも転職でも、何かしらで相談に乗って欲しいと尋ねてきたとき。より単純な例なら、どっちのワンピースが良いか聞いてくる女子。こちらとしては困っている様子を見て親身にアドバイスを弾き出すのですが、結局、こちら側の意見によって結論が変わることはなかったりします。

そしてこの理論を他者に適用すると、「他人に言っているようで実は全然人に対して言ってない人」の存在に気が付くようになりました。共通の話題についてつぶやいてはいるけど、タイムラインの議論に参加している訳ではない。空リプのようでただの独り言。そもそも人に読まれると思ってない人。それは、自分の思考を構築するための手段だったのです。

自己デザイン欲求

僕は「人に承認されたいからSNSを辞められない」「何でもかんでも人に話したがる自己顕示欲の高い人」ではなく、「自分をデザインするためにSNSを活用できる」というポジティブな視点を持つことができました。

ただし、僕がこのように考えていることは、あらゆることが示唆しているものを勝手に解釈しただけにすぎません。

ぼくがかんがえた「自己をデザインする欲求」には、既に名前がついているかもしれません。だから、この仮説はひとまず持論として上梓します(出版すんな)。

答え合わせの後で、自分が何を考えていたかを振り返るために、インターネットに投稿します。

これもまた、自己をデザインする欲求なのです。