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[読書の記録] 大澤真幸『恋愛の不可能性について』(2013.03.14読了)

大澤真幸aka林家ぺーさんの著作だが、今見るとタイトルからして黒歴史臭が。だが骨太な本である。

抽象的な議論が続くうえ、様々な思想家の用語や概念がパッチワーク的に散りばめられているので読むのは結構大変である。

大澤によれば、第三者の審級が十分に抽象化した結果、その支配下にいる各個人は、行為の帰結のレベルではなく、行為の選択のレベルにおいて、つまりどんな行為するか?という志向作用そのもののレベルにおいて、規範的な枠に閉じ込められる。

これは、抽象化された規範である第三者の審級に対して個人が常に「私は〜である」という自己正当化を永続的に反復せざるをえないからである。クリプキが述べたように、「私」は指示詞として発話者をさすが、その述定部分「〜である」は個体としての発話者を余すところなく定義することはできない。
しかし、抽象的な規範が個体を捉えているならば、個人はそのような不完全な「私は〜である」という自己正当化を規範に対して永続的に行わざるをえなくなる。このような絶えざる反復の効果によって、あたかも完全には到達できないはずの「自己」が擬制される。

ここで大澤は擬制的なものとしての主体・主観が、行為選択のレベルにおいて第三者の審級を内在化させることになると演繹する。
第三者の審級が抽象化されるということは、それに先行する具体的な第三者の審級を否定し、主観の内に包括するということでもあるのだ。

言い換えれば、具体的な第三者の審級は、先向的投射の範囲内にはない差異=他者に直面するやその確実性を揺るがされてしまうのだが、その他者さえ自らの圏域のなかに包括してしまうような先向的投射が行われえた時には、さらに抽象化した第三者の審級が定立される。

しかしこれは換言すれば、第三者の審級の抽象化は他者抜きには行われえない、ということである。それゆえ第三者の審級が抽象化される過程では、各個人の身体にとって他者が発見される内在性への依存度が増し続けるということでもある。
つまり超越性が十分に超越性を持つためには、それにともなって逆説的に内在性への依存が上昇しなければならない。

抽象的な第三者の審級が自らを位置づける場所として、擬制的な主体性が生み出されたのであるが、それはフッサールが意志と記号の純粋な一致として見出した内面の声にほかならない。
これをデリダは自己への現前と呼び、そのような一致状態においてさえ根源的な差異に付きまとわれていると分析した。つまり、抽象的な第三者の審級によって生み出されたかに見えた一貫した主体性は、同時にまったき差異を孕まざるをえない。

第三者の審級が局限まで抽象的になるということは、その審級が各身体の内面に孕まれた他者に依存せざるをえないことが露呈されていくということでもある。




内在性(主観においてとらえられる他者)に依存せざるをえないということは超越性(第三者の審級)の立場を危うくする。
大澤によれば、超越性が内在性にもろに依存していることが露呈し、そのことから超越性が存立の危機に陥ると、もはや超越性は、主体が直面する他者に依存しているということを隠蔽することができない。

むしろ、内在性が直接超越性を支えることになる。したがって超越的な規範は決して到達できない。

しかし、その超越性が抽象化されればされるほど、規範の内実は無化されていく。。。


難しいのだが、ようは、愛する対象である他者を確定記述の束に回収できないことから生じる愛の記述不可能性(いわゆる、イケメンで商社マンなら誰でもいいのか問題)は依然として存在するとして、さらにその記述不可能性を語る主体の側さえも耐えざる差異化のうちにあるので、「私」と「あなた」の間にあるこの愛というのは余計に何なのか、は不断に問い続けられなければならない。
この根源的な不確定性が、愛にずっとついてまわることになる。

さらに大澤は、ここからルーマンを引っ張ってくる。
「私」と「あなた」の両者が不確実になった状況下で、社会システム論的な考え方を使って、ふたりの間の関係性=コミュニケーションのみを純粋に把捉しようとする試みなのだが、、、

もちろんルーマン読みなら察しがつく通り、コミュニケーションにおいてその時点ごとの価値判断の意味が確定される/与えられるのは、事後のコミュニケーションに接続されることによってでしか可能でないので、結局はこの試みも恋愛の不可能性を裏書きすることになってしまう。

この本のメッセージをまとめると、
恋愛プロセスにおける意思決定の不安を埋め合わせる代理表象はもはや超越的な存在から与えられることはなく、徹底して内在的な自己規定によってしか獲得できない。
ということになろう。

まあ大澤自身は、ここまでははっきり言ってないかもしれない。
こういう示唆を引き出せるのは、大澤が参照するに留めている現象学的還元を徹底して突き詰めることこそが、恋愛を含めたコミュニケーションを構成する重層的な意味のネットワークを顕在化することを可能にする戦略だということを、ゼロ年代の批評を通過したわれわれが既に知っているからだ(cf.宇野常寛)。


こう考えると、哲学や批評のincrementalな深化を感じる。

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