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陽キャ哲学とは何か

みなさんこんにちは。元々は『ぱくもとの精神と時の部屋』という名前で、Youtube発信活動をしていた『ぱくもと』です。最近チャンネル名を変更しました。その名も『陽キャ哲学普及協会』です。友人と発信活動について雑談していたところ、チャンネル主の名前(ぱくもと/純白)は毎回自己紹介で発声しているので、チャンネル名に書く必要はないのではないかという意見を貰いました。確かに【チャンネル名=自分のハンドルネーム】である必要性はあまりないので、【チャンネル名=自分の活動内容】に変更することになったのです。正直、チャンネル名にはそこまで拘りがなく、著者のインターネット人格である『ぱくもと/純白』の活動が広範囲に知れ渡れば満足です。

陽キャ哲学ってなによ

陽キャとは陽気なキャラクターの略で、主に人間関係やコミュニケーションに問題のある人間が一般的な対人能力を持つ人間を妬むときに使われるインターネットスラングです。基本的にユーモア以外で自称している人をあまり見かけません。逆に、一般レベルの対人関係スキルのない人を蔑むときに対義語である『陰キャ』が使われますね。最近だと、陰キャをイケていない容姿と結びつけて『チー牛』などとラベリングする向きもあります。

しかし、陽キャというのは社会的にしろ、生物学的にしろ、後天的に個人に根付いたロール(役割)であり、キャラクター(性格)ではないのではないかという疑問を持ちました。生来は人間皆が陽キャだったのではないかという『性陽説』の立場を打ち立て、そこから人間が陽キャラに回帰するにはどうすれば良いのかということを考える哲学体系の総称を『陽キャ哲学』と命名しました。性格改善や個人の幸福追求のような自己啓発的要素を最大限に排し、徹底的にマクロ視点で最大多数を陽キャラに回帰させる方法を追求するというのが、陽キャ哲学の意義であり定義です。ただし後述するように陽キャ哲学では、万人が陽キャラになれることを現段階では否定しています。(ぱくもとも思索中の哲学体系のため、今後変わる可能性があるかもしれません)

人を誘うという行為

まず陽キャ哲学で一番重要な概念が『能動性』です。陽キャラが陽気なキャラクターの略であるという話は上記でもしましたが、そもそも陽気とはなんでしょうか。陽気とは、儒教経典の易学で使われていた言葉を起源に持つ熟語で、「万物が今まさに生まれ出て、活動しようとする気」を表す言葉として定義されました。つまり活動の起点のエネルギーが陽気ということであり、物事の起点になれる能動性を持った人間であることが陽キャラであるための必須条件です。陽キャラというと明るい人をイメージしてしまいがちですが、どんなに明るくても、爽やかでも、能動性を持ち合わせていない人を陽キャらとは呼びません。陽キャラ⊃明るい人/爽やかであっても、陽キャラ=明るい人/爽やかではないのです。

性陽説によると人間の生来の姿は陽キャラのはずです。人間は人生を通して能動性を獲得するのではなく、本質的に能動的だった人格が、環境要因によって捻じ曲げられていくのです。どんなに能動的な人格を持った大人でも、3歳児の行動力には到底及びません。それは社会そのものが、個人の能動性を麻痺させる神経毒として機能しているからに他なりません。近世の哲学者たちは社会が個人を毒さずに、そのまま成長させた姿を自然状態と定義し、その姿は平和的なのか、または闘争的なのかといった議論を繰り返してきました。近世の哲学者たちの政治哲学に対する洞察は、陽キャ哲学を考える上でも参考になります。ルソーは人間社会に発生する不平等は、所有権とそれを守る法律によって発生したと考えました。持つ者の財産を守るための権利が所有権であり、所有権は各人の社会的立場を硬直化させます。これはのちに資本主義と共産主義の対立を予見するような革新的な考え方で、今でも一定の納得感があります。万人が未所有であった状態から所有が生まれたときに、人間が自然状態を脱している。これは自然状態の未所有な人類が完全に能動的な野生人であり、所有という文化を獲得するにつれて受動的に進化していくという言い方もできます。

資本主義社会で生きる以上は、所有という概念とは二人三脚で歩いていく必要があります。所有によって受動性が生まれ、その結果として陰キャラが生まれたと考えると、社会で生きる人間に陰気さ(受動性)があるのは仕方ないのではないでしょうか。これまでの理論が正しいとするならば、社会が個人に与える受動性と、そこからの逃避を試みる人間の闘争こそが陽キャ哲学の示す道だということになります。

では、受動性からの逃避はどのように達成されるのでしょうか。それは他人の能動性を奪うことです。2人しかいない島を想像してみてください。片方が能動的に相手を導こうとします。そうするともう一方は必ず受動的になります。「場面によって交互に役割を入れ替えればいいではないか」という反論がありそうですが、自分の能動的行動を増やせば、相手の能動的行為の機会が減少するのは変わりません。つまり能動とは相手の能動を奪う加害行為であり、他者からの人格的搾取によってしか成立しないことが分かります。

社会によって減らされた能動性は、社会の中で生きる人間たちが残りの能動性すらも食い合っているのです。人にとって一番単純で身近な能動性は人を誘うという行為でしょう。人を誘うという行為は、あなたの能動性を表す行動であると同時に、誘った相手への加害行為でもあるのです。陽キャラであることは人間の役割として社会に固定化されていくので、1度の加害行為で、次の加害行為が容易になり、その次はさらに簡単になっていく。資本が資本を生むという資本主義の基本ルールは、陽キャラが陽キャラ度を増していくという陽キャ哲学の動きに類似しています。

メタバースに丸投げする前に

彼らの唱えるメタバース待望論には概ね同意する。
しかし人間性を簡単に諦めるところにテクノロジストの限界を感じる。

万人が陽キャラになることが出来るわけではない厳しい現実を目の前にして、人々はメタバース待望論を唱えます。それは現実社会でのコミュニケーション弱者、もしくは金銭的弱者などをメタバースに閉じ込めて、ゾーニングを行うというものです。京王線ジョーカー男や安倍晋三射殺犯の山上容疑者など、金銭や地位の獲得を目的としない単純な社会への怨恨による破壊行為が横行する昨今ですが、彼らを一朝一夕で現状から抜け出させるのは難しく、短期的な解決方法がありません。

資本主義でも、評価経済社会でも、結局のところ相対的な弱者が生まれ、弱者は常に強者に対するルサンチマンから革命を胸に秘め続けるでしょう。合法的な能力による下剋上の可能性を限りなく低く見積もっているが故に暴力革命にたどり着くのであり、努力や根性論を説いても効果はないのです。そんなどうしようもない彼ら彼女らは、辛い現実の肩書や容姿から完全に開放させ、メタバース空間で理想の自分として生きさせる方が幸せではないのか。メタバースというテクノロジーが現実味を帯びるに従って、有識者たちはこのような強行策を唱え始めたのです。安倍晋三射殺犯の山上徹也は、母親が統一教会の狂信者であり、法外な布施を教団に対して支払ったことが原因で大学に通えず、社会人になってからも低賃金で働いていたコンプレックスから統一教会への恨みが募っていったそうです。山上容疑者が40歳を迎えてから犯行を行っていることからも分かるように、若さで人生どうにかなるという微かな希望は砕け散り最後の手段として革命を選んだのでしょう。

彼に学歴や年齢のないメタバース空間があり、似たような仲間がいれば今回のような事件は発生しなかっただろうという仮説はまさにその通りだと思います。自分も弱者メタバース幽閉論は、最終手段として積極的に取るべき戦略だと思っており支持派であることを述べておきます。ただし他人への加害を恐れるがゆえに、自身が受動側の陣営で固定されてしまうのは人間の生き方として間違っています。現実世界での加害合戦を全力で行い、その敗者が結果的にメタバースに避難するのは否定しませんが、教育の段階で陽キャ哲学の存在を秘匿し、闘争の機会を与えないというのは人間全体の成長として決して良いこととは言えません。好きなことややりがいを探すといった自分探し的な生き方をすることが認められるようになってきたご時世ですが、それが完全にできている人はあまりにも少ないです。受動とは誰かに能動を搾取されている状態であると述べましたが、あなたが自分への理解の追求をしないことによって、あなたは誰かに能動を搾取されているのです。奴隷にすると宣言して、敵国を征服した古代の王が聖人に見えるほど、現代の能動搾取は狡猾に匿名的に行われているのです。

まとめ

陽キャ哲学は、普及&検討段階なので完全な哲学体系とは言えず、不完全な点や矛盾点が存在します。今後Youtube Liveでの対話や文章での発信活動による言語化を通して、より一層強固なものになっていくと信じます。

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