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Evil and Flowers ~新居浜・両親殺害事件①~

平成31年1月9日夜

「誰か2階におるよなぁ・・・」

新居浜市高木町。国道11号線から北に市役所方面へ走った、閑静な住宅街。
その一角にある家の前に、中の様子をうかがう人の姿があった。
その家に住む男性が出勤時刻になっても出勤しておらず、心配した同僚男性が自宅の様子を見に来ていたのだ。

時刻は午後8時40分。近隣の人も出てきていた。
男性らはドアをノックするも、応答はなかった。しかし、その家の中からは明らかに人の気配がしていた。
言い知れぬ不安を覚えた同僚らは、すぐ近くの新居浜警察署に連絡。午後9時過ぎ、警察官が到着して、再びドアをノックするなど接触を試みたが、やはり中から応答はなかった。
警察官らも事件性を確認できないとして引き揚げていったが、同僚男性はどうしても胸騒ぎをおさえられなかった。

9時45分、同僚らがしかたなく引き揚げたその5分後、静かに2階の窓が開いた。

事件発覚

翌1月10日、午前7時。
前夜からずっと連絡を試みていた同僚らは、再びその家を訪れた。カーポートには車もあるにもかかわらず、その家の男性とは全く連絡が取れない状態だった。
家には男性の妻もいるはず。そして、しばらく家を離れていた一人息子も家に戻ったと聞いていた。家の前には、その長男のものと思われる軽四自動車もあった。

「絶対におかしい、家の中でなんかあったんやないか」

同僚らは再び110番通報し、到着した警察官が安否確認のため家に立ち入った。
その際、玄関ドアは施錠されていたため、施錠されていなかった2階の窓から室内に入った。
そこで警察官は、連絡が取れなかったその家の主の男性が、正座した状態から前のめりに突っ伏すような体勢で、おびただしい量の血を流して息絶えているのを発見。
さらに、1階和室付近に仰向けで膝を立てた状態で血まみれで倒れている女性を発見したが、こちらも既に息はなかった。

二人の胸には、深々と包丁が刺さったままだった。

死亡したのは、その家の主・高平勝浩さん(当時55歳)と、妻の洋子さん(当時54歳)。一緒に暮らしていた長男の姿は家の中になかった。
しかし、車があることや、外部から侵入した形跡がないことなどから、長男が何らかの事情を知っているとみて捜索を開始。
昼過ぎ、西条市内のホームセンターDCMダイキの駐車場で、捜査員らが長男を発見し職務質問したところ、犯行を認めたため逮捕となった。

逮捕されたのは、勝浩さん夫妻の一人息子、高平剛志(当時24歳)。
剛志は逮捕当時、高平ではなく伊藤姓(この伊藤姓は新居浜、西条にやたら多い)であった。しかし、実家である高木町の家で両親らと同居しており、なぜ苗字が違うのかは報道もされず、当初は母・洋子さんの連れ子説、婚姻して婿養子にいった説などが飛び交っていた。

剛志はまず父親殺害の容疑で逮捕されたのち、母親・洋子さんの殺害についても認めたため、両親を殺害した罪で起訴された。

裁判

松山地裁第41号法廷。
平成31年10月15日から、裁判員裁判が開かれた。

「松山で裁判員裁判があるから傍聴してみたら?」

懇意にさせていただいている折原臨也氏から、私宛にそんなDMがきたのは裁判開始の10日ほど前のことだった。
事件をまとめていながら、実際に傍聴経験がなかった私はさっそくその事件について調べることにした。地元愛媛でも全くと言っていいほど情報がないこの事件。最近はやりのひきこもり男性がやらかしたのかな、そんなことも思っていた。

ただ、先にも述べた通り剛志の名字が両親と違っていることは気になった。
都会では珍しくないだろうが、田舎でわざわざ嫁の名字にする人はそんなに多くない。それよりもむしろ、親や親せきの関係で養子に入る、そういったケースの方が多いくらいなので、もしかしたら両親どちらかの実家の跡継ぎなのかな、そんなことも考えた。思えばなんとなく、この時から「家の問題」という気がしていた。

ノートと筆記用具を準備し、開廷の40分ほど前に到着。たまたま同時に護送車が裁判所に入ってきた。
ロビーに入り、掲示板で確認した後法廷へ。
裁判長や裁判員らが入廷するより少し前、剛志被告が刑務官に連れられて入廷してきた。腰縄をつけ、当然だが手錠もされている。私が座った席は被告人の待機する籍の近くだったが、表情はあまりうかがえない、というかじろじろ見るのもはばかられた。

午前9時50分、開廷。

ノートを開いて、メモを取る準備をしながら末広裁判長の言葉を聞く。
剛志被告は裁判長に促され、被告人席へ。そして、本籍、現住所、生年月日などを答え、さっそく検察による冒頭陳述が始まった。

事件発生まで

3人の検察官は一人が女性で、全員若かった。対する弁護人は、Twitterで『ヒグマ弁護士』と私が表現した、大柄でヒゲのある先生と、年配のザ・弁護士といった感じの先生のふたり。
冒頭陳述を行う検察官の、よく通る声が響く。

概要として、妻子と別居し実家に戻っていた剛志被告が、両親に不倫を咎められたことで激高し、殺害に及んだという話だった。
姓が違っていたのは婚姻のためで、やはり婿養子に入っていたようだった。裁判が行われた時点では離婚成立していたが、事件当時は離婚が成立していなかったため、同居していた両親と姓が違っていたというわけだ。

・・・って不倫?!
しかも定時制高校に通っていた当時に交際していた元妻との間に、平成24年、剛志被告が未成年の時に子供が出来ていた。結婚については、未成年であることで親の承諾が得られず出来なかった模様。
両親に反対されたことで家を出、元妻の実家で生活するようになった剛志被告は、それから6年間実家に戻らなかった。
その後平成27年、剛志被告が20歳のころに第2子誕生。それを機に婚姻したという。

平成29年、元妻の実家での生活に嫌気がさした剛志被告から離婚を切り出したものの、当然すんなりとはいかずに夫婦げんかが絶えない状況に陥る。
同じころ、職場でAさんという女性と知り合い、連絡を取ったり遊びに行く間柄となるが、この時点では不倫とは言えない関係であった。
しかしその年の冬、ふたりは不倫関係になり、剛志被告も離婚の意思をさらに強いものにしたという。
その後平成30年の6月に剛志被告が元妻の実家を出て、自身の実家へと戻った。もともと結婚には反対だった両親は、6年間にわたって不義理をし続けた息子をそれでも受け入れた。
疎遠だった実家の両親との関係も思っていたよりはうまくいっていたが、それもやがて歯車が狂い始める。

夏が終わる頃には両親、特に母親である洋子さんの過干渉に耐え切れず、剛志被告は車や会社で寝泊まりするようになっていく。
元妻との離婚交渉も一向に進まず、また、不倫相手のAさんからも、けじめがつけられないならば関係を進めていくのは不安があると告げられる。

ある時、どうしても家に戻りたくないという剛志被告を見かねて、Aさんは自宅に来るよう言い、一時的に同居していた。
しかし、Aさん宅にいることが剛志被告の両親の知るところとなり、Aさんからも別れたいというLINEが来たことでパニックになった剛志被告は会社を無断欠勤したうえ行方不明になってしまう。
会社の上司らに説得され、なんとか実家へと戻った剛志被告だったが、その後も母親の過干渉は続いたという。

Aさんとの関係も続いていた。しかしAさんからの強い要望で、絶対に親にはバレないように注意していた。
会うこともままならず、主に朝晩の電話がメインだったという。
両親に交際を続けているのではないかと疑われてはそれをはぐらかす、という日々を送る中、一家は事件当日を迎える。

血に染まった家

検察官は続いて証拠の提示を行う。
まず、事件現場となった高平家の外観、間取りなどを事件当時の状態で示していく。
裁判官、裁判員にはモニターで見取り図などが示されたが、傍聴人には検察官の説明がすべてだ。
比較的聞き取りやすい声でゆっくりと説明してくれるのでありがたい。

高平家は築20年ほどの2階建てではあるが、どこにでもあるごく普通の近代的な住宅である。周囲は同時期に建てられたという似たような家が6軒ほど軒を連ねる、奥止まりの小さな住宅地だ。
高平家は、その一番奥に位置していた。

玄関を入ると北側に風呂やトイレ、奥には和室があり、階段を中央部に配してその南側(玄関を入って右手)にLDKがある。
階段をあがると、剛志被告の部屋などがあり、トイレは2階にもしつらえられていた。

次に、家の周囲に説明が移る。
その際、なにか妙な感覚にとらわれた。検察官は、家の周囲に「アルコールの空き缶などが入ったゴミ袋」が点在している、と語った。
さらに、部屋の中にも缶ビールの空き缶が放置されていた、と。
私自身がほとんど酒を飲まないため、自宅にアルコールの空き缶があるということが馴染まず、そのせいで引っかかったのかな、とその時は流したが、この何とも言えない感覚は後の被告人質問で腑に落ちることとなる。

そして、遺体発見時の現場の状況ならびに遺体の状況についての説明が始まった。

父の勝浩さんは、2階の剛志被告の部屋で発見された。正座の状態から前のめりに倒れた状態で、俯せのその右胸には刃渡り20センチほどの文化包丁が突き刺さったままだった。
勝浩さんが受けた傷は、防御創と思われる2センチほどの切り傷と擦過傷のほかは、この右胸に受けた創のみだった。
しかしその刃先は、右胸から心臓に達するほど差し込まれており、大動脈ならびに上大静脈が切断されたことによって失血死を招いた。
勝浩さんの手はテーブルの下に入り込み、その周辺には血だまりがあったという。

一方、母親の洋子さんが受けた傷は凄惨を極めた。
身長154センチ、体重は40キロ程度の小柄な洋子さんの顔面は複数回の殴打によるものと思われる傷で腫れ上がり、左側頭部には硬膜下血腫も認められた。
上半身を殴打された形跡もあり、さらに背中には6か所の刃物による刺し傷があり、防御創含め、刃物による切り傷は全身に17か所あり、頸部にもタオルで絞められた痕跡があった。
血痕は1階のいたるところにあり、そこには逃げ惑う洋子さんの痕跡が残っていた。
そして、和室で膝を立てて仰向けて息絶えていた洋子さんの左胸にも、深々とステンレスの包丁が突き立てられていたのだ。
検察官によれば、高平家に残された犯行に使用したと思われる包丁は全部で3本。
キッチンシンクに放置されていた血の付いた包丁は、中央部がぐにゃりと曲がっていた。よく、刺してるうちに包丁が折れたとか曲がったとか聞いていたが、実物を見たのは初めてで、ありえないものを見てしまったという得も言われぬ感覚が駆け抜けた。

そしてそこには、誰の目にも明らかな非常に強い殺意が見てとれた。

高平夫妻のそれまで


愛媛県新居浜市は、松山市から東へ車で1時間半ほどの場所にある。
工業地帯が多く、住友グループの会社が多く存在し、近隣の西条市などへのアクセスも良く人口密度は高い。
また、居住する年代も、全国平均に比べると若い世代が多いのも特徴だ。20代から40代までの人口数は全体の平均を上回る。
壮大で華麗な太鼓台が集まる新居浜太鼓祭りには、県外からも帰省して参加する新居浜市民がいるほどだ。新居浜の祭りなどの伝統文化が若い人の流出を抑えているのもあるだろうし、大きな工場などを有するため、働き口が確保されているのも要因の一つかもしれない。

全国、世界にまたがる企業の工場が多いことで、当然、県外からの転勤組や、移住者も少なくない。
高平さん夫婦も、そのケースだったようだ。
勝浩さんは長崎の出身で、7人兄弟の三男である。幼いころから母が病弱だったため、姉が世話をしてくれたという。
成人し、長崎を出た後も良くよく実家へ帰っていた勝浩さんは、病弱な母を思う優しい性格で、温厚の一言に尽きる、と勝浩さんの姉が話す。

裁判でも、勝浩さんの姉だけでなく、洋子さんの弟までもが「懐の広い、いい兄貴だった」と話した。
仕事も3交代制の工場勤務で、会社でのトラブルなどは一切なかった。

一方の洋子さんも、中国地方の出身で、仕事で愛媛に来た際に勝浩さんと出会い、結婚。そのまま愛媛で生活していたせいか、勝浩さんの実家とはあまり行き来がなかったようだ。
平成6年には剛志が生まれ、おそらくこのころ高木町に家を購入。離婚して独り身だった実の母も呼んで、当時は4人暮らしだったという。
平成10年ごろまではパートなどの職に就いていたようだったが、このころから洋子さんに異変が起こる。

先述の勝浩さんの姉によれば、電話で話すこともあったが非常にきつい性格だと感じていたという。浪費家という印象も姉は持っており、付き合いづらい面があった。
ある時電話で姉は洋子さんに罵倒される。
詳細は不明だったが、その頃から距離的なこともあってかほとんど洋子さんとは没交渉になった。
この洋子さんの人柄については、実は洋子さんの弟の証言もある。
もともとまっすぐな性格で気の強い面はあったが、10数年前からその傾向がさらに強くなり、弟は「病気なのではないか」と思うほどだったという。
剛志とも、剛志が14歳の時を最後に会っていなかった。
弟から見た勝浩さんと洋子さん夫婦は、ケンカが多かったようだった。しかしそれを、勝浩さんがうまく収めていたといい、心の広い人だと思っていたとも話す。

親族の葬式の場で、洋子さんは金の無心を繰り広げ、応じない相手には罵声を浴びせたという。
そして、母親の葬儀の後、高平家から香典として受け取った金を、「あれは貸した金だから返せ」と言い始めたのだ。
弟はその際のやり取りがよほど堪えたのか、金を返してその後絶縁状態だった。

どことなく、田舎にはそぐわない薄すぎる親戚関係が窺える。夫妻ともに県外出身者であり、近くに親戚がいないということがある程度影響していたのかもしれないが、小さな分譲地の中でも高平家は浮いていた。
5年ほど前に近くに家を建てたという男性は、自治会で高平家の人を見たことはなかったし、洋子さんと会話したのは事件の数日前が初めてと言った。
さらには、剛志の存在は知らなかったという。

それには理由があった。剛志は、高校生の時からすでに実家を出ていたのだ。

剛志のそれまで

平成6年8月29日、高平家の長男として剛志は生を受けた。
新居浜市内の小、中学校を卒業した後、新居浜西高校定時制へと進む。
高校2年生の時、同じ高校に通う女子生徒と交際を始めるが、その交際相手が妊娠する。産みたいという希望だったのか、未成年である剛志は両親に結婚と出産について許可を求めたとみられる。
当然のことながら剛志の両親は結婚どころか交際自体に反対であり、かつ、洋子さんは交際相手の実家が気に入らないと話していた。
結婚については交際相手の女子生徒の母親も難色を示したことから、未成年の間は結婚はせずに子供を産むという話にまとまった(?)ようだった。

ただ、このことを剛志の両親が納得したわけではなく、剛志が黙って家を出るということでの結果であり、剛志はその後家を出てから6年間、実家に戻るどころか自分から親に連絡を取ることもなかった。

平成25年の春、長女が生まれ剛志は父親になった。
この頃はずっと交際相手の実家で生活し、高校へも交際相手の実家から通っていた。定時制ということで4年間通う必要があり、子供が生まれても剛志は高校生だった。
この頃の写真が、剛志のFacebookに今も載せられている。未婚ではあったが結婚を前提にした関係であり、とても幸せそうな若い夫婦とその娘。
事実、平成27年に次女が生まれたとき成人していた剛志は、その交際相手と結婚した。

剛志は子育てが苦手だったという。可愛がったりはするものの、世話はあまりしなかった。
妻の実家での同居はその後も続いたが、平成29年、剛志は妻に対して離婚を切り出す。理由について、裁判で剛志はこう証言した。

「まぁ・・・やっぱり人を信用し切れてなかったっていう部分はあって。自分、悩み打ち明けてないこと実際あったし・・・。妻の母の方も自分的には好きではなかったから、やっぱダメかな、と思ってました。」

妻も認めている話だが、少々金遣いの荒い面がこの妻にはあったという。剛志が独立するために貯めていたお金(高校生の頃からGSで働いていた)を、妻やその母親が外食費に充てることがあったといい、それを剛志は会社の上司に相談している。

また、夫婦で話し合いをしていても、いつも妻の母親が割って入るために本音での話し合いも出来ず、結局剛志が言いくるめられて終わる、という状態の繰り返しだったとも話した。
日々の不満をどこにもぶつけられないまま過ごしていた剛志は、その年の夏、ある出会いを経験した。
会社の飲み会に参加した剛志は、Aさんという年上の女性と知り合う。
シングルマザーで二人の子供を育てているというその女性と意気投合した剛志は、LINEを交換して連絡を取り合うようになった。
この時点では、お互い気心の知れた友人という立ち位置であり、カラオケに行く程度の間柄で不倫関係ではなかったという。

しかし、若い男女がいつまでもカラオケで終わるはずもなく、平成29年末には不倫関係へと発展してしまう。
この時、剛志は離婚の意思を強くし、けじめをつけるとAさんにも話していた。
一方妻はというと、外泊した夫と連絡がつかなかったことで職場を訪ね、上司に夫婦関係の相談をしていた。
剛志本人、さらには社長まで同席したその話し合いの場で、社長らは剛志の話を聞いていたこともあってか、妻に対して「もう少しお金をしっかり管理し、剛志に自由になる金を渡したらどうか」とアドバイスしたという。
この席でも剛志は離婚したい旨を打ち明けた。ただそれは、社長に一喝されてしまったことで、剛志は黙ってしまう。
結局、離婚話は全く前に進まないまま、平成30年の6月、離婚話から妻と大喧嘩をした剛志は、妻に殴る蹴るの暴行を受け鼓膜が破れる。そして、いつもように妻の母親が現れて「謝りなさい」と剛志をたしなめた。
剛志は妻に対し、90度に頭を下げて謝罪した。
しかしその二日後、妻の実家に居場所をなくしていた剛志は、LINEで「実家に帰る」と妻に告げ、6年間戻らなかった実家へ帰ることになる。

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