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『まどろみの檻』 皆川博子

湿気をはらんだ風が吹く、曇りとも晴れともつかないような日の読書に、皆川博子を選んでみた。
今回は短編集『悦楽園』に収録されたこちらの作品を紹介したい。

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突っ走って行ったのは、猫にちがいなかった。猫でも気が狂うということがあるのだろうか。正気の猫なら、あんな走り方はしない。

冒頭から、ぞわりとする異様な光景。耳を片方断ち切られ、血を流しながら走り去る猫という、何か気味の悪い恐ろしい出来事を想像させるその記述の後で、ぽんと出される下の一文のインパクト。これぞ皆川ワールドだ。

女をみかけたのは、その同じ日の午後である。

主人公の秋本は、中高一貫の私立男子校の体育教師。
体育の授業中に、金網の塀の向こうからこちらを見る買い物籠を下げた女を見かけた秋本は、「猫の耳を切ったのはその女だと、あとになって思ったのだった」。

片手を胸元で拳に握りしめたこわばった姿勢のまま道に立ち尽くす女性に、異様なものを感じつつなぜか惹かれる秋本。
凄みを帯びた目でどこか一点を凝視する女は、一体何を見つめているのか。
女に目を向けながらふいに一瞬、午前中に見た猫を思い出したその時、生徒の私語が幻聴のように秋本の耳を打つ──「誰か焼かれてるぜ」。

そのうちに女は立ち去るが、休憩時間に秋本は道に出て、女が立っていた場所に立つ。そして彼女が何を見ていたのかに気付く。

灰色の校舎の壁。二つの棟。その間の細い隙間。その位置からだけ、見えるものがあった。

それは、火葬場だった。
あの女は、情人の火葬される煙を見ていたのかもしれない。
女の張りつめた表情と全身の緊張感を思い出し、そこに壮絶な慟哭があったのだと思う秋本。そしてその瞬間、「あの女がやったのだ、あれを」と、天啓のように感じる。。。

勉学重視の進学校での体育の授業は添え物であり、仕事に張り合いはない。私生活では先日婚約したところだが、その相手も周囲から紹介された相手であり、誰であろうと似たり寄ったりだという冷めた感情しかない。

道にたたずんでいた女とは対照的に通俗的で単純なこの婚約者から、あの日火葬されたのはある建築会社の若い現場主任であったと聞き、秋本は、その建築会社が最近建てていた家屋があったことを思い出す。
そして時を経ずして彼は、建設されていた家の施主の苗字が貼られた葬儀用のハイヤーを偶然見かけ、信号で止まっている車の中に、半ば確信のもとに女の姿を、舅姑と共に座る女を見つけるのだが。。。

女は、ふいに躰をよじった。隣に坐った老人たちの目をさけるように、顔を窓の方にむけた。
女の顔に、笑いがひろがった。唇がゆっくり弧を描き、笑み割れ、舌がのぞいた。

若い建築技師と恋仲になった女が、恋人を殺した夫を毒殺したかもしれないから怖いのではない。その全てが秋本の妄想かもしれない、そもそも猫も女もそれ自体がはじめから妄想なのかもしれないから怖いのだ。
火葬場を見る女が「のどを噴き上げる嗚咽を拳で押さえこみ、涙を心臓にむかって流し込んでいた」と想像し、ハイヤーの中の女に心の中で「あなたの笑いを責めてはいない。笑いつづけてください」と呼びかける男が怖いのだ。

不毛で乾いた日常を一変させた妄想の女の慟哭と笑いに溺れていく男の仄暗い狂気。
本作で一番グロテスクなシーンはもしかすると、秋本が体を預けてくる婚約者のブラウスの襟に薄い汚れを見つけて、「質の悪いラードのようなにおい」を嗅ぐ場面かもしれない。妄想に囚われた人間にとって目の前の現実は、冷ややかに見るべき醜悪な景色でしかないのだ。

序盤では恐ろしいのは女だが、いつの間にか、女に妄執する秋本が恐ろしくなっている。
足元からひんやりとした寒気が上ってくるようなラストも素晴らしい。
日常に突然生まれる狂気を描いて背筋を凍らせる掌編だ。