ミランヨンデラ

読んだ本の書評、読んで感じたことなどを書いています。

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最近の記事

『まどろみの檻』 皆川博子

湿気をはらんだ風が吹く、曇りとも晴れともつかないような日の読書に、皆川博子を選んでみた。 今回は短編集『悦楽園』に収録されたこちらの作品を紹介したい。 ***** 冒頭から、ぞわりとする異様な光景。耳を片方断ち切られ、血を流しながら走り去る猫という、何か気味の悪い恐ろしい出来事を想像させるその記述の後で、ぽんと出される下の一文のインパクト。これぞ皆川ワールドだ。 主人公の秋本は、中高一貫の私立男子校の体育教師。 体育の授業中に、金網の塀の向こうからこちらを見る買い物籠を

    • 『珈琲と煙草』 フェルディナント・フォン・シーラッハ

      『コーヒー&シガレッツ』というクールな映画があるが、映画とは全く関係なくたまたまほぼ同名のこちらの書籍も、最高にクールな逸品だ。 エッセイ、小説、小論がぎゅっと詰まっていて、どれ一つとして退屈なものがない。内容は違うが本のタイプとしては、ミヒャエル・エンデの『エンデのメモ箱』とも似ている。 とても面白い、何度も読みたい、大事に手元に置いておきたい一冊だ。 少年時代の思い出と厭世的な10代の頃を書いた最初の作品から、著者の繊細な感性と文章力の虜になる。 スウェーデンの作家、イ

      • 『希望のかたわれ』 メヒティルト・ボルマン

        オランダ国境に近いドイツの村。 農夫のレスマンが朝の作業をしていると、道を歩いてくる一人の少女の姿が目に入る。零下10度の寒空というのに、肩がむき出しの薄いドレス一枚だ。 何者かに追われているらしい少女をレスマンは家に助け入れる。 場面は変わり、ウクライナへ。 ここは、チェルノブイリ原発事故により汚染された立入禁止区域。 誰も住まないその土地に打ち捨てられた一軒の家に、ヴァレンティナという女性が一人で暮らしているらしい。 机の上にノートと鉛筆を用意し、ヴァレンティナは、娘の

        • 『家を失う人々』 マシュー・デスモンド

          本書は、社会学教授マシュー・デスモンドが、米ウィスコンシン州最大の都市ミルウォーキーの、貧困層の住むトレーラーパークと黒人住人の多く住むスラムに、合わせて一年余り住んで行ったフィールドワークを記録したものである。 登場するのは全て実際に著者が現場に住みながら知り合った人々であり、書かれている出来事や会話は、実際に著者が目の前で見て、聞いたことだという。 膨大な取材をまとめ上げた本書が見せる現代アメリカの貧困の生々しい姿は、消化しきれない重さで胸にのしかかる。 *****

        『まどろみの檻』 皆川博子

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        • 小説
          91本
        • 私の本棚
          31本
        • エッセイ
          17本
        • 教養・ノンフィクション
          17本

        記事

          『生は彼方に』 ミラン・クンデラ

          この小説はミラン・クンデラがまだチェコにいた1960年代末に書かれた。しかし、自由化運動に加わっていた著者は自国では弾圧の対象になったため、小説はフランスの出版社から、フランス語版で出版されることになる。 その後フランスに亡命した著者が、著作のフランス語訳の全面的な見直し作業を行い、そうした見直しを経て1991年に「新訳」(および「決定版」)として出版されたもの(の日本語訳)が本書である。 本書は著者が自身渦中で経験したチェコの混乱期を描いた小説であり、また、小説(小説技法

          『生は彼方に』 ミラン・クンデラ

          『花びらとその他の不穏な物語』 グアダルーペ・ネッテル

          惚れた腫れたの酸いも甘いもとりあえずは経験済みで、過去には疼いた傷も今は懐かしく思い出せる。そんな大人が楽しめるのは、直球ストレートの恋愛小説よりも、クセのある珍味のアラカルトのようなこんな短編集かもしれない。 向かいの集合住宅に住む男を、カーテンを閉じた窓の奥から観察し続ける女。 自分と妻とは違う種類の「植物」だと気づいてしまう男。 見知らぬ女性の痕跡を探し求めてレストランの女性トイレを覗き回る青年。 主人公達は、少し“病んだ”人ばかり。そんな彼らが孤独な心に抱え育てる、

          『花びらとその他の不穏な物語』 グアダルーペ・ネッテル

          『サンダカン八番娼館』 山崎朋子

          1972年初版の本書は、70代80代の老女となった元からゆきさん達の生の声を取材したドキュメンタリー作品である。 貧困ゆえに苦しく耐えがたい人生を送った女性達の声なき声を聞くことが、女性史研究者としての仕事であるという著者の強い想いが、プロローグで語られる。 貧困地から南洋に送られて行った彼女達に、階級と性という二重の虐げが集中して表されている、つまり、日本における女性の苦しみの原点がある、と著者は論じる。 (天草が貧困地となった自然的また歴史的要因、そして、貧困と性との繋

          『サンダカン八番娼館』 山崎朋子

          『悪の誘惑』 ジェイムズ・ホッグ

          2世紀も前のヨーロッパのゴシック小説など退屈だろうと思うなかれ。嘘のように引き込まれる作品だ。 読み始めたら止まらない面白さとは、本書の序文でもアンドレ・ジッドが熱を込めて述べているが、同時代人のジッドにあらずとも、読み出したら止まらなくなってしまう。 本作は三部構成になっており、1824年の発表当時からおよそ百年前に起きた出来事について書くという体裁になっている。 まず第一部では、ある兄弟の身に起こった奇怪で不幸な事件が物語られる。 17世紀末のスコットランド。 ある地

          『悪の誘惑』 ジェイムズ・ホッグ

          『ピュウ』 キャサリン・レイシー

          こんなに心に訴えかける本はなかなかない。とにかく読んでほしい一冊だ。 この物語の視点であり語り手は、ピュウと呼ばれる人物であり、これは、ピュウがある町に現れてからの一週間の物語である。 どこから来たのか分からない。人種も年齢も、性別も定かでない。何を聞いても一切言葉を発しない。そんな不思議な少年/少女が、ある町にある日突然姿を現し、住民たちは彼/彼女をピュウと呼ぶようになる。 ピュウ(pew)とは、教会の信者席のこと。座り心地のそれほど良さそうではない、長い木の板を横に

          『ピュウ』 キャサリン・レイシー

          『この闇と光』 服部まゆみ

          エマ・ドナヒューの『部屋』。 角田光代の『八日目の蝉」。 どちらも、映画化ドラマ化されたものも合わせて素晴らしい作品だ(私は『八日目の蝉』はNHKで放映されたドラマ版が好きだ)。さらわれて戻ってきた子供という題材は、作家を刺激するのだろう。 だが本書で著者が創り出した物語は、その分野の中でもなかなかにユニークなものなのではないだろうか。 難しいことは考えず、巧みに紡がれた物語に翻弄される楽しみがここにある。 ***** レイアは盲目の姫君だ。 目は見えないが、父王に優しく

          『この闇と光』 服部まゆみ

          『アトランティスのこころ』 スティーヴン・キング

          1960年から現代までのアメリカを、いくつかの人生に乗せて描いた長編大作。読書の高揚感をかき立てる、上下巻組の大型本だ。 物語の幕開けは1960年、コネティカット州郊外の住宅地。11歳の少年ボビーは、母親と二人でつましく暮らしている。 ボビーには毎日つるんで遊ぶ気の合う友人がいて、恋人になりそうな女の子もいる。目下の関心事は、どうしても欲しい自転車を購入するために、お金を貯めること。 そしてもうすぐ夏休み。 それは夏空そのもののように晴れ渡った日々になるはずだった。 ボビ

          『アトランティスのこころ』 スティーヴン・キング

          『緋の城』 木崎さと子

          とても怖い、そして言いようもなくセクシーな小説だ。 この物語には「女性」というものが万華鏡のように映し出されている。 母性と少女性。現実をさばくたくましさと妄想に浸る危うさ。頑なに理性的かと思えば本能的な心のブレにはしなやかに従う。 「わたし」は、そんな女性という性が持つ特質を体現しているかのようなヒロインだ。 そのさらけ出された女性性の暗い部分が怖く、そしてさらけ出されているというそのことに官能を感じる。 ・アパルトマン 物語は、「わたし」が夫と息子と共に、パリのアパル

          『緋の城』 木崎さと子

          『ロシア語だけの青春』 黒田龍之助

          代々木駅東口。駅を出て道を渡った先には、雑居ビルが立ち並ぶ。その店舗と店舗の間に、狭くて古い階段が。 道案内で始まるプロローグを読みながら、自然とその歩幅に呼吸が合っていく。 狭い階段を上って行き着くのは、小さな語学専門学校。著者が高校時代から通い、後に講師も務めていたミール・ロシア語研究所だ。 本書はこのロシア語学校の物語、そして著者の「ロシア語のことしか考えていなかった青春の日々」が、瑞々しくそして熱く語られた、魅力たっぷりの一冊である。 書き出しの自然な歩行の速度そ

          『ロシア語だけの青春』 黒田龍之助

          『階段を下りる女』 ベルンハルト・シュリンク

          美しい女性の登場するラブストーリーと思いきや、消化不良になりそうな難易度の高い内容だった。ストーリー自体はシンプルなのだが。 語り手の「ぼく」は、フランクフルトで駆け出しの弁護士だった頃、忘れられない恋をした。 発端は奇妙な依頼だった。 依頼主はシュヴィントという画家。彼はグントラッハという金持ちの注文で、グントラッハの妻イレーネをモデルにした絵を描いたのだが、その後イレーネと恋仲になり駆け落ちした。 そのことに腹を立てたグントラッハが、イレーネの絵を故意に傷つけている、と

          『階段を下りる女』 ベルンハルト・シュリンク

          『きのうの神さま』 西川美和

          医者というキーワードで書かれた5編から成る、傑作揃いの短編集だ。 ***** 「1983年のほたる」の主人公は、田舎の小さな村に住む小学6年の少女。 彼女は自ら希望して、村からバスに乗って市内の塾に通っている。 塾の帰りのバスは、いつも同じ運転手が担当している。お互いの存在は認識し合っていると感じつつも、顔見知りというような親しい間柄ではない。 そんな運転手がある日の帰りの車内で、少女に話しかけてくる。その語るところによれば、彼の姉が昔、少女の受験しようとしている中高一

          『きのうの神さま』 西川美和

          『散歩の一歩』 黒井千次

          老作家の日常と住む家、住む町にまつわるあれこれが綴られる。 平日の昼の住宅地に注ぐ暖かな陽射しやどこからか聞こえる作業の音の何となくのどかな響きが、行間から立ち上ってくるような穏やかなエッセイ集である。 前に紹介した『ビル・ビリリは歌う』に収められた短編作品の中では、引退初老男性がよく散歩していたが、彼らの散歩には夫婦間の微妙な空気が後を引いたり、過去に鎮火した恋のかすかな煙が漂ったり、奇妙で幻想的な出会いが潜んでいたりした。 しかし今回紹介するこちらの本では、語り手が初老

          『散歩の一歩』 黒井千次