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先立った人との時間

5月に祖母が亡くなったので、四十九日までは、母に付き添い、毎週お寺でお経を聴くという、初めての経験をしています。

祖母の生前の関係性のために、私は特におばあちゃんが亡くなって悲しいという感情はありません。それでも母は何かしらモヤモヤしたものを抱えてお寺に行っているようなので、付き添っているという時間です。

おばあちゃんの葬式は、浄土真宗西本願寺派です。
南無阿弥陀仏を唱えると、阿弥陀如来さまがどんな人でも浄土の世界に連れて行ってくれるという、本当に優しい世界観です。

和尚さんが毎回、
「先立った人のおかげで、法要を通してこうして皆様と一緒にお念仏を唱えるご縁をいただいた」と、言われるのですが、まさにそうだなと。

今日の説法は、弥勒菩薩は、お釈迦様が死んでから56億7千万の年月をかけて、修行して皆を救うための仏になる、というお話でした。
でも、普通の人たちは、こういう仏様のおかげで、南無阿弥陀仏を唱えていたらすぐに仏になれるんだそうです。
人は何かに赦されたいと思って、生きてきたんだなと思いました。
でも、自分で自分を赦すのが難しいから、仏様という存在を通して赦されるということなのだろうかと。。。

生きるというものを苦しいものにしない知恵の一つだなと思うのです。

逝く前には感謝もできない祖母との関係性が、こうやって祖母によってもたらされた時間で、気づきをもらえるということは、ありがたいことであり、落差のあることだからこそなので、生前の祖母を少しは「しょうがないなぁ」という目で見れるようになりそうな、そんな気持ちになっています。

人事を尽くして天命を待つ
という言葉がありますが、人にはそれぞれの形の人事があって、その人事を尽くしていくんだなぁと。
私にとっての人事は、はっきりした形ではないですが、きっと自分は知っていると思うので、明日も足掻き続けます。

ありがとう、おばあちゃん
まさか、おばあちゃんにありがとうが言える日がくるなんてなぁ。

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