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宗教における象徴の意義


 元旦を前にして思うところがあり、宗教における聖別ということを宗教における象徴という視点から、少しばかり考えてみた。宗教における象徴の問題は、宗教学における重要なテーマの一つであろう。
 それに関して、先日、あるキリスト教の勉強会で、非常に気のなる発言を聞いた。それは「教会の会堂も、また聖餐のパンとブドウ酒がなくても、どこでも礼拝はできるし、神様を信じる信仰があり神様を礼拝する思いがあれば、それで十分であって、場所と何かは関係ないのではないか」という趣旨の発言である。またその場におられた多くの方はそれに同調し、賛同しておられるようであった。
 私は、その様子を見ながら、少し不安を感じた。もちろん、神様を信じる心に基づく信仰とか、神様を礼拝する心が大切なことは、キリスト教にとって、とりわけプロテスタントを標榜する教会においては否定しようのないものである。だから、心の重要性を強調することは、それはそれでよいことである。
 しかし、そこにのみ、すなわち心に焦点をあて、そこに自分たちの信仰を立脚させている限り、それは結局、信じている人間が主体であり、その人が思う信仰、考える信仰がその人にとってのキリスト教を作り上げているのであって、それは極めて実存的な信仰であり、少しうがった言い方をすれば、その人が信仰の中心にいると言わざるを得ない。それは、少し厳しい言い方になるが、その人の思いや考えがキリスト教を支配してしまっているのである。
 しかし、キリスト教の中心は父なる神様でありイエス・キリスト様である。それは、私たちの内側にあると同時に、私たちの外側に超越者として「あってある」お方でもあるのだ。そのような超越者たる神は、人間の思惟やその思惟で語れることができない存在である。それは、私たちの知性の埒外にある存在であるということである。だからこそそこに、言葉では言い表せないがゆえに象徴としての出来事、あるいは事物、そして行為が求められてくる。象徴は言葉では「言い表せないもの」を表す精一杯の手段である。それは、象徴的な事柄、事物、そして行為によって、そこに言葉では「言いあらわせない」神が立ち現れてくるのである。
 私たちの思惟や意識(認識)の内側に決して取り込まれることなく、私たちの外側にある神、そして御子イエス・キリストという存在を私たちが意識(認識)するために、私たちが手を触れることのできない場所と時間と物素が聖別されるのである。だからこそ、聖書は、ときを聖別し、場所を聖別し、事物や食べ物を聖別して筒生きてきた神の民の物語をものがたるのであろう。そして、現代に生きる私たちキリスト者のまた、主日礼拝という聖別された時間において、また教会堂という聖別された場所において、、聖餐の物素を通して、私たちは、そこに立ち現れる私たちを超越した神の臨在に触れ、その神から語りかけられているのだということを知り、私たちは、神の命に与っていることを知るのである。
 もちろん、聖別された日も、聖別された教会堂も、また聖別された物素も、私たち人間の目から見れば、象徴的な「もの」であり「現象」なのかもしれない。しかし、その象徴的な「もの」や「現象」を通して、神は確かにそこに立ち現れるのだ。だから、私たちは主日という聖別された時を、教会堂という聖別された場所を、そして聖別された聖餐の物素を決して軽んじめてはならないのです。
 これらのものは、単なる象徴としてそこに存在しているのではない。なぜなら、それらの象徴的事物を通して、そこに神が立ち現れているからなのである。
 元旦という日を、特別な日であるとして時を聖別してきた日本人の霊性は、まさに聖書全体に流れる象徴的事物を通して立ち現れる神の現臨を感じ取る霊性に通じていると言えよう。そしてその霊性とは、私たちが神をどう感じるかということではなく、神の前に立ち、神様の目に映っている自分の姿を見つめることができる霊的感性なのである。

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