キリスト教倫理の視点からみた「死への決定権」の問題について

立教大学院梅澤ゼミ2022年秋冬期キリスト教倫理特講発表
テキスト:香川知晶著『命は誰のものか』
担当箇所:第8章“あなたは治る見込みがないのに、生かし続けられることを望みますか?”  ―カリフォルニア自然死法とクインラン事件―
発表者:濱和弘


初めに

 本論考は、香川知晶氏の『命は誰物もか』(ディスカバー携書、2021年)の第8章と第9章と連関し、医療現場における人間の死の局面における「死ぬ権利」を問題したものであり、立教大学院キリ教学研究科のキリスト教論理研究のクラスで発表した発表原稿である。その内容は、具体的に言うならば「死の決定権」が誰にあるのかという問題であり、延命処置拒否における死へ選択権の問題として現れ出てくる。それは「死ぬ権利」は、「自己決定」として自分自身が自分自身の死を決定することが許容されるか否かという問題と共に、本人以外がこの「死の決定権」に関わることが可能であるか否かという問題があるといえよう。その視点から見るとき、本書は、その表題を見る限り第8章は、自分が自分の死への選択権を行使することができない場合に家族がその決定をすることができるか否かを問い、第9章は自分以外の存在(医師)が積極的に「死への決定」に関わることが可能か否かという建付けになっている。
 この「死ぬ権利」に関する問題を香川智明氏はクインラン事件(日本ではカレン事件と呼ばれる)と射水市民病院事件という二つの裁判例を取り合上げつつ論述していくのであるが、その内容は、先に述べた建付けの枠について、8章では死の決定を家族による延命治療中止の決定に対する是是非非議論へ、また9章では医師の判断による延命治療中止の決定の積極的関与(積極的尊厳死)の是是非非にまで踏み込んでいるように思われる。
 熊倉伸宏は、この「死ぬ権利」についてを「持続的植物状態、末期状態、自殺の3 つの臨床類型に分け 比較検討[1]」するが、この熊倉氏の分類によればクインラン事件は、主として持続的植物状態に分類される問題であり、射水市民病院事件は末期状態における自殺(自殺幇助)に属する問題であると言えよう。
 そこで、本発表では本書の内容を踏まえつつ、この「死ぬ権利」権利の是非に関して、キリスト教倫理という視点から考えてみたいと思う。


1.前提となる問題―「死」とは何か/死ぬという概念についてー

 「死ぬ権利」を問う以上、「死ぬ」ということはいかなるものであるかが問われなければならない。「死ぬ」という言葉は動詞であるから「死ぬ」ということは「死」という状態に「ある」、あるいは「置かれる」ということである。

 一般的には「死」という状態は、死の三兆候(心拍停止、呼吸停止、瞳孔散大・対光反射の消失)によって定義される。この定義が揺らいだのが脳死の問題である。脳死は、脳の機能は不可逆的な機能回復状態にあり、そのままでは死の三兆候に至るが、人工呼吸器を用いることで、本来は死の三兆候に至るはずの患者の心臓を動かし続けている状態であって医療技術の発展がもたらしたものであり、それは脳死というよりも、むしろ医療によって加工された生であるとも言えるものなのである。

 ところで、我々は一般的にこの死の三徴候をもって「死」受容し、「死ぬ」という事態であると認識する。しかし、医学的には人間の全肉体における生命機能の不可逆的停止にいたるプロセスであって、死の三徴候はその不可逆的な過程の中の一瞬を切り取り、それをもって「死」と定め[2]、それを法的に担保したものである。この場合の不可逆とは回復不能ということであり、その意味で不可逆的状態とは回復可能な疾病とは異なる。

 その意味で、私たちが一般的に認識している「死」は、この不可逆的な死の過程におけるそれは社会通念的に受容された一時点であり、かつ法的な死である。それゆえに、たとえば「脳死」という方の定義とは異なる「死」の事態が起こる事態の中で、「脳死」が法的に死と定めるか否かが問われる[3]のである。しかし、人工呼吸器によって人間の全肉体における生命機能の不可逆的停止状態のプロセスを機械の補助によって一時的に中断することが可能になった。そしてそこに「脳死」という事態がおこっているのであるが、「脳死」は、回復な能な可逆性を持たない。それはあくまでも一時的中断であり、医学的に言うならば、脳死は死のプロセスにあることは間違いがない。

 こうしてみると、「死」には医学的に見た生物学的な「プロセスとしての死」と法的に定めた「死」の二つの概念があることがわかる。医療現場における「死ぬ権利」あるいは「死への決定権」の問題は、この二つの概念の中で生じる問題である。


2.問題への予備的考察―キリスト教倫理としての「死」の問題への関与の可能性

 医学的な「死」についてキリスト教会がそれに口出しすることはできない。それは人間の肉体に関するものであり、純粋に自然科学の分野に関することである。だとすれば、キリスト教会における倫理の問題として、「死」の問題に関わる糸口はどこにあるのであろうか。
 「死」は人間の生命機能の不可逆的停止である。それは人間の存在の喪失であるともいえる。だとすれば、その喪失する人間とはそもそも何であるかが問題になってくる。それは人間本性の問題であり、人間が存在する、すなわち「ある」ということの問題である。

 この人間存について、キリスト教会は歴史的に人間を霊肉二元論、もしくは霊・肉・魂の三元論的に捉えてきた[4]。つまり、人間の存在を、肉体という物質的なものと、霊、もしくは霊と魂との結合体、もしくは統合体としてとらえてきたのである。その意味では、医学的な死の問題は肉体の問題であり、法的な死も、肉体における生命機能の不可逆的停止の一断面をもって「死」を定義している限り、それは主に人間の肉体を問題にしていると言える。つまり、人間存在を、肉体という物質的からとらえて「死」を定義しているのである。「死の三徴候」が肉体に現れ出てくる現象の観察に依るものである以上それは当然の帰結である[5]。

 では、キリスト教的人間観における「霊」における死とは何であろうか。それは「ある」の喪失であり、関係の喪失であると言えよう。創世記2章17節で「ただ、善悪を知る木から取って食べてはならない。食べると必ず死ぬことになる」と言われる死は、神との関係の喪失であり、断絶である。
 このような死を関係の喪失であるという視点に立つとき、この関係は、一人称においては私との関係の喪失、すなわち私が「私自身」に関係する私の喪失であり、に人称においては、親しい関係にある「あなた」との関係の喪失であり、三人称においては「彼」という存在、すなわち社会的存在としての関係が損なわれることであり、それは社会内の存在として社会との関わり(権利と義務)の喪失であると言えよう。

 このような関係は、意識においてなされる。つまり我々人間の意識が「この世」においての「ある」ということが喪失されたとき、そこに「この世」という世界での「霊」における死を向欠けると言って良いであろう。その意味で、意識を司る能の機能の喪失は、世界内の存在としての我々人間側における関霊的な死、すなわち関係におけると連関する。そして、キリスト教倫理として、「死」の問題に関わり得るキリスト教独自の視座は、この「関係の死」にあるということができよう。


3.クラインラン事件(カレン事件)

 本書8章は「死ぬ権利」を認めたクラインラン事件を中心に取り扱っているが、クラインラン事件は、持続的植物状態にあるカレン・アン・クラインラン(Karen Ann Quinlan)に対する人工呼吸器の取り外しの是非が問われた問題である。もっとも、持続的植物状態もある人も自発呼吸はできる。したがって、持続的植物状態にある人に人工呼吸器を取りつけられている事態は、事故等の何らかの原因で呼吸停止している状態の人に対する治療を目的として人工呼吸器を装着した結果、持続的植物状態になったと考えられる。当然、人工呼吸器を取り付けなければ、その患者は死んでいたことになる。その治療の過程で人工呼吸器を取り外すことの是非である。

 このクラインラン事件の裁判の内容や経過の詳細については、本書の著者香川知晶の別著『死ぬ権利』(勁草書房、2006年)に述べられているが、それを見る限り、この裁判には三つの問題点があるように思われる。


3―1 個人の自己決定から家族の自己決定へ ― プライバシー権の拡張と「二人称に死」―

第一の問題点は、人工呼吸器を取り外すということ、すなわち延命治療を拒否が、カレン自身の自己決定によるものではなく[6]、母親が「娘は回復の見込みのないままレスピレータ(濱注:人工呼吸器)によって生かし続けられることなど望んでいないはずだ[7]」という母親の思い(思い込み)から起こっている点である。

 香川氏が述べているように、「死ぬ権利」が論じられるときに、その法的根拠となるのは自己決定権に基づくプライバシー権とにある。すなわち、身体は個人的なものであり、その身体の生と死に関わる問題も個人の私的領域にあるものとして、他の誰によって干渉されず個人の自律的な主体性の基づき決定できるものとして、「死ぬ権利」が担保される。先の黒田の分類にける末期状態において延命治療をせず自然死を求めるリビングウィルはこのプライバシー権と自己決定権に基づくものである。

しかし、クラインラン事件においては、カレンがプライバシー権は、個人の自己決定権ではなく、代理判断説に置き換えられ、プライバシー権は個人の領域から家族の領域に広げられている[8]。このような事態は、日本における脳死に基づく臓器提供の場でも起こっている。すなわち、かつては個人の意思表示である臓器提供意思表示カードに基づいてなされていた臓器提供が、本人の意思表示がなくても家族の決定によって可能なものに拡大されるようになったのである。そこには、「関係の死」における「あなたの死」という「二人称の死」がある。実際、カレンの母は、カレンが「私たちのところへ戻ってくる見込みはない」とはっきりと語っていた[9]と言う。つまり、クラインライン事件においては、肉体の生を見るならば、また公的には生きているが、二人称の関係においては死んでしまっているのである。


3-2 通常の医療と通常以上の医療
 クラインラン事件の問題点の第二の点は、患者(カレン・アン・クラインラン)は、重度の植物状態ではあったが望みのない生命である脳死状態ではなく、いうなれば望みの薄い生命である。つまり、自発呼吸の回復の可能性は極めて低いが全くないという状況ではない中で、人工呼吸器を外すかどうかが問われたのである。実際、カレンは自発呼吸は回復し、結局、事故以後10年(人工呼吸器呼を外すことが認められ、実際に外してからは9年)生存し、死亡したときの原因も肺炎であった。つまり、脳死のように全く回復の見込みがない状態でもなく、末期状態での延命治療の拒否とはことなり、極めて可能性が薄いとは思われるものではあっても、医学的・生物学的な死は免れ得る可能性を残した状況の中で、人工呼吸器を取り外すことの是非が問われたのである。したがって、クラインラン事件における裁判で争点の一つは、カレンが置かれている状態で人口呼吸器をつけることが通常の医療か通常以上のものなのかという点であり、通常以上の治療の是非を問うものであって、通常以上の治療ではなく自然死を求めるところにあったといえよう。


3-3 死への決定を支える信仰

第三の点は、この裁判において、クランライン家の信仰が人工呼吸器を取り外すことを求める根拠となっている点である。カレンを含みクランライン家の信仰はローマ・カトリックである。このローマ・カトリックの信仰を根拠に、カレンの人工呼吸器を外すことを求めたのである。その信仰とは次の三点である


1.現世での生活は死後の完成を目指して続く生命のひとつの局面にすぎない

2.死は生命を変えるものではあっても、終わらせるものではない

3.現世での生命は通常以上の医療手段を無益に使用して(futile use)つなぎとめる必要のあるものではない[10]。


 クラインラン夫妻はカレンの人工呼吸器を外すことを求める訴訟を起こす前に、神父に相談し[11]、カトリック教会も(異論はあったが)クラインラン夫妻の決断を支持している。したがって、上記の三点はクライン夫妻の独自の信仰理解ではない。カトリック教会は安楽死を認めていない。ただしそれは、積極的安楽死を認めないのであって、回復不能な状態において、通常以上の医療を受けることを拒み[12]、自然死を選択することを拒むものではない。つまり消極的安楽死の可能性は否定していないのである。

 このようなカトリック教会の信仰は、カレンの父ジョセフの「カレンを機械から外し、主の御手に委ねさせてください…もし神が自然な状態でカレンが生きることを望まれるなら、奇跡を起こし、人工的な手段を一切取り外されれば、神が召される時にカレンは死ぬことになるでしょう[13]」という言葉に見事に反映されている。

 クラインラン事件は、このカトリック教会の医療に対する信仰の在り方が、法の下にあっても受容されるか否かが問われる裁判でもあったと言えよう。もっとも、この裁判の結末において、結果としてクラインラン夫妻の主張は受け入れられるのであるが、その受容は、仮にこの状況の中で、カレンの意識が回復し、再び重度植物状態の下で人工呼吸器を装着されるとするならば、それを拒むであろうという「疑いのない」仮定の推測にもとに、カレンの後見人に父ジョセフを選定するというものであった。そこには形式上は、カトリックの信仰が関与しているわけではない。また、プライバシー権も自己決定権は、カレン個人のもので家族まで広げられているものではない。しかし、実質的に、意思を伝えることのできない患者のプライバシー権に自己決定権に、本人ではない後見人という他者の手に委ねられ、それに基づく消極的安楽死が認められることとなったといえる。


4.射水市民病院事件

 クラインラン事件は、人工呼吸器の下での加工された生ではなく自然死選択する「死ぬ権利」が問われた問題であり、カトリック教会という限定された集団ではあるが、キリスト教倫理の視点にたった望みのない命に対する通常以上の医療を拒否する消極的安楽死を認める姿勢が明らかにされた。そこには、人の生命は神のみ手の中にあるという信仰が垣間見られる。また、そこには本来、自然死として迎える死期を、人工呼吸器によって延長するその延長された人工的生を無益な生として拒絶する姿勢があるといえよう。つまり、機械的に延長された生にQOLを認めず、むしろ神に与えられた命をSOL[14]としてそこに尊厳を見いだし、重きを置いているである、

 これに対して、9章で取り上げられている射水市民病院事件は、末期がんの患者に対して、人工呼吸器を外すという延命治療の停止という点においては、クラインラン事件と同類である。ただ射水市民病院事件は、カレン・アン・クラインランの場合と違って、生きる可能性がない、まさに望みのない生命に対する治療停止であって、望の薄い生命に対する治療停止と比べると、むしろ公的には受け入れやすいと思われる事例である。

この射水市民病事件においても、医師は家族との相談のうえで人工呼吸器を外しており、家族の意思が全く反映されていないというわけではない。しかし、そのような背景であったとしても、なお問題となるのは、その相談をした医師に、延命知慮は回復の望みのない患者に対する無駄な治療であるという意識がみられる点である[15]。そして、その意識の下で積極的に人工呼吸器を外すという行為に参与しているように思われる。つまり、医師にとって、人工呼吸器を外す時点で、すでに「彼の死」という三人称の死が成立しているのである。そこには公的な法的「彼の死」とこの医師の公的「彼の死」との間とかぶつかり合うのである。
 だとすれば、それは公的性格を持つものなのであるがゆえに、そこにはもはやプライバシー権も自己決定権も及ばない。このことはこの事件において問われなければならない一つの問題点である。なぜならば、医師の「彼の死」が、医療現場という特殊状況の中かで医師と患者及び感謝の家族という権力構造の中で家族の「あなたの死」に優先し、支配的になる可能性があるからである。


5. 分析

クラインラン事件と射水市民病院事件を比較する際に、発表者が着目したい点は、射水市民病院の医師が、自らの行為を安楽死ではなく、尊厳死であると主張している点である。すなわち、医師が尊厳死だと主著する以上、人工呼吸器を外した動機は、日本尊厳死協会が言う「あまりにも進んだ延命処置は不治、末期あるいは回復不能の持続的植物状態などにおいて、かえって苦痛を強制し尊厳ある生を冒す場面が多くみられる」という思いに同意するものがあったと言えよう。そこには、回復不能で不可逆的な死のプロセスにある者の苦痛を取り除くための尊厳死という意識が垣間見られる。つまり、射水市民病院事件で主張された尊厳死は、方法としては延命治療としての混交呼吸器を外しという消極的安楽死であるが、そこで目指したものはむしろ積極的安楽死である。それは、SOLを目指すものというものよりも、より善き死[16](QOD=quality of death)を迎えるために、積極的に関与する[17]ことを意味する。

したがって、クラインラン事件に見られる消極的安楽死と射水市民病院事件に見られる積極的安楽死事件の間には、クラインラン事件は、人間の生におけるQOLを軸にし、それを損なう現実に対して二人称の死である「あなたの死」に基づく安楽死の許容であり、「あなたの死」が三人称の「彼の死」に受容を求めるものであり、射水市民病院事件は人間の死におけるQODを軸として、それを損なう現実に対して三人称の「彼の死」を前提にした「彼の死」に基づく安楽死の許容であり、「彼の死」二人称の「あなたの死」を支配する構造の違いがある。


6. まとめ

 発表者は、ここまでクラインラン事件と射水市民事件について、主に香川友晶氏の文献をもとに観察し分析してきた。したがって、その分析はあくまでも香川氏の文献上でのものであり、現実の二つの事件を正確に捉えているわけではない。その前提の上にたって、この二つの事件に現れ出た問題をキリスト教倫理の視点からとらえようと試みる本発表においてカギとなるのは、「死」とは何かという問題である。しかも、キリスト教倫理という以上、その「死」は神学的視野にたった「死」でなければならない。
 すでに述べたように、神学的な「死」は、「ある」の喪失である。そして、「ある」の喪失としての死は、一人称の死と二人称の死と三人称の死として現れ出る。キリスト教倫理において、教会が「彼の死」である三人称の死をもって「死」を規定するとき、教会が規定する「死」が規範倫理的に二人称の死である「あなたの死」を支配する。この場合、キリスト教倫理は極めて教義的に機能することになる。
 それに対して、教会が「あなたの死」をもって「死」を承認するとき、その「死」は状況倫理的に三人称の「死」である「彼の死」、すなわち公共の死に受容されることを求める。このときキリスト教倫理は、極めて牧会的に機能する。したがって、キリスト教倫理において安楽死の問題を考える時、それを規範倫理的に捉えるか状況倫理的に捉えるかが問題になると言えよう。


議論のための題材として

1.   キリスト教倫理の視点から安楽死は容認できるとすればその根拠は

2.   キリスト教倫理の視点から安楽死は容認できないとするならばその根拠は

3.   安楽死・中絶を含めて、キリスト教としての態度は公共的な立場(公共性)となるべきか。





 



[1] 熊倉伸宏「「死ぬ権利」と尾形誠宏医師による自殺幇助」『生命倫理 Vol.7(No.1)』日本生命倫理学会、1997年,61頁。

[2] この死がプロセスであるということに関して、尾形誠宏は次のように述べる。「しかし、従来から死の判定には一般に三徴候説がとられてきており、混乱はなかった。三徴候説とは呼吸の停止、瞳孔の散大、心臓の停止である。これは時間の点(心停止)としてとらえられ、何時何分に死亡したと死亡診断書に記載されるのが慣行であり、一種の慣行法にまで高められているといえる。しかし人間の肉体はその時刻に完全に死んでいるわけではない。一部はまだ生きており、徐々に死んでいくのである。脳の障害ではなく、心臓の障害のように、心臓死(心臓の停止)の場合は、死が宣告されても、その後、大脳皮質は3分、脳幹は8分、皮膚や爪で48時間(2日)、骨や動脈では72時間(3日)も生きているという報告がある。すなわち死の判定後も全臓器の死がやってくるのは3日後ということになる。このことを裏づけるように、2~3日後の死者の棺桶を事情があって開けてみたら、爪や髪が伸びていたという話が語り継がれている。以上のことから人間の死は一瞬にして生から死に至る(点)のではなく、各臓器・組織・細胞の連続した部分的死が続いたあとで終了するという過程(線)であることがわかる。」(「脳死と臓器移植」『神戸市立看護短期大学紀要第11号』神戸市立看護短期大学 1992年、118-119頁)

[3] 人工呼吸器によって人間の全肉体における生命機能の不可逆的停止状態のプロセスを機械の補助によって一時的に中断することが可能になり、「脳死」という事態がおこっているのであるが、「脳死」は、回復な能な可逆性を持たない。それはあくまでも一時的中断であり、死のプロセスにあることは間違いがない。

[4] たとえば創世記1・7「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった」。また発表者の研究対象であるエラスムスは人間について「人間は二つあるいは三つの非常に相違した部分から結合された、ある種の驚くべき動物です。つまり一種の神性のごとき魂と、あたかも物いわぬ獣からできています」(「エンキリディオン」『宗教改革著作集2エラスムス』金子晴勇訳、教文館、1989年、36頁)と述べる。

[5] もっとも、この「死の三徴候」における「瞳孔散大・対光反射の消失」は大脳の機能の喪失であり、その意味では、人間の意識の不可逆的喪失であって、それは霊、もしくは霊と魂とかかわる問題あるといえる。

[6] カレンはこん睡状態になる以前に、二度にわたって、通常以上の医学的手段によって無益に延命されたくないと述べていたとされるが、そのことを客観的に証明するものはない。

[7] 香川知晶『死ぬ権利 カレン・クラインラン事件と生命倫理の転回』勁草書房、2006年、36頁

[8] 前掲書、90-104頁を参照。

[9] 前掲書、35頁

[10] 前掲書、88-89頁

[11] 前掲書、35-39頁を参照。そこには母ジュリアが相談した相手であるトラバッソ神父の助言が記されている。その内容は次のようなものである。

「道徳的、神学的観点からすれば、カレンの場合は、助かる望みのない生命(a hopeless lif)を通常以上の手段によって不必要にな長らえさせている典型的事例」である。そうした場合、「カトリックの信仰では、生命を延長するために通常以上の手段を使用する道徳的責務はない」

[12] カリック教会の通常と通常以上の医療については、前掲書、44―45頁にある。孫引きになるが、それを引用する。

神学者のいう生命維持の《通常の》手段とは、患者への利益が適切に期待でき、過度の出費や苦痛をはじめとする不都合なしに入手できる薬剤、治療、手術を指す」(KELLY,129)他方、「生命維持の《通常以上の》手段とは、患者や他の人に対する過度の出費や苦痛をはじめとする不都合なしに入手、使用することができず、使用されても、患者に対する利益の合理的な期待(a reasonable hope of benefit to the patient)が望めないようなあらゆる薬剤、治療、手術を指す」。KELLY:KELLY,Gerald, S. J, 1958, Medico-Moral Problems, The Catholic Hhpspital Association of the United States and Canada.

[13] 前掲書、90頁。ジョセフの言葉はTime2: ANONYMOUS, 1975, “A life in the balance,” Time.106.( 18 Nov.39):52からの孫引き。

[14] SOLはDOLともいわれるが、この場合、神に委ねられた命という感覚からするとSOLの方がふさわしい。

[15] 香川知晶『命は誰のものか 増補改訂版』ディスカバー携書、2021年、213頁を参照。

[16] 松田純はその著書『安楽死・尊厳死の現在―最終医療と自己決定』(中公新書2519、中央公論社、2021年)で「安楽死はラテン語でeuthanasia(英語もつづりは同じ、)ドイツ語はEuthanasie、フランス語euthanasie」の訳語である。古代ギリシャ語に由来し、euは「よく」(副詞)、thanatosは「死」を意味するから、「よき死」を意味する。苦痛のない速やかな死、安らかな死、人生を全うしたうえでの死、名誉の先史などを意味する」と述べている(3頁)

[17] このような死への説教的関与は、香川が前出の『命は誰ものか』208‐209頁で取り上げた山内事件、東海大安楽死事件、川崎協同病院事件に見られる。

参考文献

香川知晶『死ぬ権利 カレン・クラインラン事件と生命倫理の転回』勁草書房、2006年
松田純『安楽死・尊厳死の現在―最終医療と自己決定』中公新書2519、中央公論社、2021年
有馬斉『死ぬ権利はあるか―安楽死、尊厳死、自殺幇助の是非と価値』春風社、2020年
尾形誠宏「脳死と臓器移植」『神戸市立看護短期大学紀要第11号』神戸市立看護短期大学 1992年、
熊倉伸宏「「死ぬ権利」と尾形誠宏医師による自殺幇助」『生命倫理 Vol.7(No.1)』日本生命倫理学会、1997年,

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