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アブラハム・ヘシェルの思想概観

2023年立教大学院・現代キリスト教思想演習
アブラハム・ヘシェルの思想
テキスト:アブラハム・ヘシェル『人は独りではない』
主題:ヘシェルの思想の概説
濱和弘

はじめに

 本論考は、立教大学大学院における2023年秋・冬学期の現代キリスト教思想演習のテキストであるアブラハム・ヘシェルの『人は独りではない』を講読にあたり、アブラハム・ジョシュア・ヘシェル[1](Abraham Joshua Heschel:以下、本文中においてはヘシェルと略す)の思想を概観することを目的として取りまとめられたものである。ヘシェルの思想は、日本においては徐々に評価され浸透しつつあるが、広く知れ渡っているというものではない。当然、ヘシェルに興味のない人やユダヤ思想を専門としない者、またヘシェルの思想やユダヤ教思想に関心のない人にとっては、ヘシェルの思想は未だ一度も触れたこともないものであろう。そのような人にも理解できるように、本論考はできるだけヘシェルの思想を単純化し、その概観のみを記述している。その手順は以下の通りである。ます1.ヘシェルの生涯の概略においてヘシェルの生涯をたどることで、その思想を醸成した土壌を見る。2.ヘシェルの思想の概観でヘシェルの思想の内容とその特徴について捉える。3.ヘシェルの思想の分析において、ヘシェルの思想の構造と思想的背景を分析的にとらえる。4.ヘシェルとブーバーにおいては、ヘシェルとブーバーの思想の比較を試みる。
 なお、1.ヘシェルの生涯は、主に森泉弘次著の評伝『幸せが猟犬のように追いかけてくる A.J.ヘッシェルの生涯と思想』[2]を主テキストとして叙述する。

 

1.      ヘシェルの生涯

 ヘシェルは1907年1月11日にポーランドの首都ワルシャワのユダヤ人地区で、イディシュ語[3]を母語とする父ラビ・モシュ・モルディカイと母リヴカ・レイツェルとの間の次男(兄と4人の姉がいる)として生まれた。父モルディカイはヘシェルが9歳の時、第一次世界大戦時のユダヤ人兵士の家族のケアで疲労し、最終的にチフスに感染し亡くなる。以後、ヘシェルの教育は、伯父ラビ・アルタ・イスラエル。詩網が負うこととなる。
 ヘシェルの家系は、ハシディズム[4]のラビ(ユダヤ教の宗教的指導者)の家系であり、幼い時からハシディズムの宗教教育[5]を受け育つ。少年期よりその才覚をあらわし、ワルシャワのユダヤ人社会においてラビとしての将来を嘱望されていた。16歳の時に、ハシディズム派のラビとして叙階される。翌年、ヘシェルは、ハシディズムユダヤ教の最高学院であるメスィビタ・イエシヴァに入学。ここでポーランド語や歴史学、数学、文学などのいわゆるリベラルアーツにも触れる。18歳のとき、ベルリン大学で学ぶことを志し、その資格を得るためにリトアニアにあるギムナジウム(中等学校)に入学。2年間のギムナジウムでの学びを終えベルリン大学に入学、哲学と神学を学ぶ。同時にあえてユダヤ高等科学学院にも入学する[6]。ヘシェルはベルリン大学で、1932年に学位論文『預言者的意識』を書き上げ、1935年に博士号を授与される[7]。1937年、マルティン・ブーバー(以下ブーバー)ーが自らの後継者としてフランクフルト市のユダヤ人成人教育センターの所長として推薦され就任する。
 この間、ドイツはヒットラーが率いるナチ党が台頭し、1934年にヒトラーは総督となりドイツの全権を握り、1935年から施行された一連の反ユダヤ法[8]に基づき、1938年からユダヤ人の弾圧が始まる\。ヘシェル自身、1938年にフランクフルとの自宅でゲシュタポによって逮捕され、ポーランド国境まで強制移送され拘留収容所に入れられるが、ワルシャワ家の期間を果たす。その後、ワルシャワの家族の亡命の道筋を開くため、1958年にかねてから招聘を受けていたオハイオのシンシナティにあるビブル・ユニオン・カレッジに行くことを決めたが、アメリカのビザが下りなかったため、1939年に、一時的にロンドンに渡り、ロンドン経由して1940年にアメリカへの亡命を果たす[9]。しかし、彼が亡命の道筋を開こうとした家族は、ナチの政権下での迫害の犠牲になってしまう。
 1945年、ヘシェルはアメリカ国政を所得しする。また合理主義的傾向の改革派系ユダヤ教の学校ヒブル・ユニオン・カレッジからニューヨーク市にある保守系ユダヤ教のアメリカ・ユダヤ教神学校に移り教鞭をとる。1946年、ヘシェルはピアニストのシルヴィア・ストロースと結婚、一女(後に女性ラビとなるスザンナ)が与えられる。結婚後、ヘシェルは、主要著書となる『人は独ではない』(1951年)、『人間の神探求』(1954年)、『人間を探し求める神』(1955年)、『イスラエル預言者』(1962年)を刊行する。
 ヘシェルは人種差別や戦争といった社会問題にも関心を寄せ、1963年には、マルティン・ルーサー・キングの公民権運動に参加し、1964年には、ユダヤ人をキリスト殺しの罪人とするカトリック教会とユダヤ教の仲介をする。1966年にはジョン・ベネット共にベトナム戦争に反対する組織を立ち上げるなどをする。その後1972年12月23日に亡くなる

 

2.ヘシェルの思想の概観

 ヘシェルは『人は独ではない』において、副題をA Philosophy of Religionとしている。また、『人間を探し求める神』にはA Philosophy of Judaism.という副題が添えられている。これらの副題は、ヘシェルが宗教哲学を場として、思惟を深めていったことがわかる。
 同時に、ヘシェルの主著である『イスラエル預言者』は、極めて神学的内容(神論・啓示論)を取り扱ったものである。この宗教哲学的思惟と神学的思惟との間に立つのが、ヘシェルの思想的立ち位置であり特徴である。それゆえに、ヘシェルの思想においては「言い表せないもの」の感覚や「驚き」の感情がKey wordとなる。
 「言い表せないもの」の感覚は、人間の言葉で表現できないもの、すなわち認識できない存在を直観する感覚であって、その感覚は神秘に属する感覚である。それに対して、宗教哲学というものは、宗教そのもの、あるいは宗教現象を観察し、宗教そのものの存在の意義やあるべき姿を考察する。つまり、宗教を哲学するのである。このような考察は、人間の思惟の営みによってなされる。つまり、宗教とは何かを客観的に把握し認識でき、合理的に説明できるものとして捕らえられているのである。当然、「言い表せないもの」も合理的説明がなされる。ここには、「言い表せないもの」の感覚をめぐって、合理主義、すなわち人間の知性による認識と人間の感性における神秘の直観的把握、それは主観と客観の構造に還元できるものだが、そのような二項対立構造が見られる。
 一方神学においては、形而上的何の存在、すなわち「言い表せないもの」の感覚を前提とし、その存在それ自体が、アプリオリに我々の心に概念と概念として置かれていることを前提とする。シュライエルマッハーが宗教を「絶対依存の感情」と定義したとき、シュライエルマッハーには依存すべき何かがアプリオリ的存在に存在するものとしてその存在が既に前提としてあり、ルドルフ・オットーがヌミノーゼという感情をもとに宗教を考える時も、そこには畏敬の念を抱かせる何ものかの存在がある。その存在からの働きかけが、我われに依存の感情や畏敬の感情を起させるのである。それが、ヘシェルの場合は「言い表せないもの」であり、「言い表せない」ものからの働きかけが「啓示」の働きであり、「驚き」の感情は啓示への人間の応答なのであって、そこには「観察/認識」―「働きかけ/啓示」の二項対立がある。この二項対立の構造の中間点に立つのである。
 この「観察/認識」―「働きかけ/啓示」の中間に立つヘッシェルにとって、この「驚き」は漠然とした感情にとどまらない。それが啓示として認識に至り、人の生を神の前に聖なる生き方へと導くものとなる。それゆえ、ヘシェル最後の弟子である手島祐郎は、ヘシェルが宗教を「人の究極的疑問の対する解答」こそ宗教であると定義したと述べている[10]。それはつまり、人はいかに生きるべきか、人が生きる意味は何であるかという問いに対して、解答を与えるのが啓示であり、その問いと解答が、旧約聖書の中に現れているということであろう。そのことは、ヘシェルが『人は独ではない』において、

聖書は第一義的には人間の神観ではなく神の人間観である。聖書は人間の神学ではなく神の人間学である。すなわち神の本性よりはむしろ人間と神が人間に求めておられることを扱っている。神が預言者たちに啓示したのは、永遠の神秘ではない。神ご自身の人間についての知識と愛である。絶対的なものを知ることはではなく、神が人間に求めておられることを確かめること、神の本質と交わるよりもは、神の意思に交わることー中略―人は神を見ることができない。人間が神によって見られるのみ。神は発見の対象ではない。啓示の主体である[11]。

と述べている中に顕著に表れている。ヘシェルは「人はいかに生きるべきか、人が生きる意味は何であるかという問い」と問いを、宗教的な事柄として捉え、それを宗教哲学的課題として取り上げ、その課題を啓示という神学的主題と結びつけることで答えるのである。このような、宗教哲学と神学との間に等距離的に立つヘシェルの思想を、手島勲矢は二つの中心点を持つ楕円モデルであると述べる[12]。そしてヘッシェルにとって宗教哲学とは宗教を哲学することではなく、その思想の中に、宗教と哲学という二つの中心があると指摘する[13]。確かにヘシェルは、「合理主義と神秘」、「認識と啓示」、「知性と信仰」、「哲学と宗教」といった二つの中心点を展開させながら、その二つの描き出す楕円上で自らの思想を展開している。
 こうしてみると、先の引用からわかるようにヘシェルの思想においては、神は人間において知りうることのできない「言い表せない」存在であるとしつつ、『イスラエル預言者』では、その知り得ず「言い表せない」存在であるところの神について語っている。そこで語られる神は、神人同型説的な神ではなく神人共感説に基づく神であり、失われた現状に対して、激しい熱情(パトス)をもって望まれる神である。その神の熱情(パトス)はイスラエルの歴史の中に、神の怒りとして現れるが、それは、神を失い、神の目からも失われた人間の不義や不正に対して、憤り、怒りとなり、その怒り通して人間を憐れみ、正しい在り方へと回復させるための神の熱情(パトス)なのである。
 この神の熱情(パトス)は、神の共感である。それは、人間の苦難への共感であり、苦難に対して怒る人間の感情への共感でもある。逆説的に言えば、社会的不正や悪に対する神の怒りの熱情(パトス)に人間の熱情が共感していることでもある。だからこそ、ヘシェルは、キング牧師と共に公民権運動に身を投じ、ベトナム戦争への反対運動に身を投じたのだということが出来よう。

 

3.ヘシェルの思想の分析

ヘシェルの思想は、いうなれば合理と非合理の相矛盾する二つの焦点の間に立ち、その二つの焦点を橋渡しし、結び付けるものである。その焦点の一つの非合理性が、ユダヤ教ハシディズム[14]によって醸成されたことは間違いない。ハシディズムの根底には神秘主義的性格がある。そもそも神秘主義の特徴は、合一にある。神と人という相対し、相反する関係のものが一つに結び合わされることを目指すものが神秘主義であるからして、二つの焦点を結び合わすという指向の枠組みは、生まれ育ったハシディズムの中に見いだすことができる。また、ハシディズムの神観は万有内在神論であり、そこには超越者たる神が、この世界に超越しつつ内在するという矛盾への相克がある。

ヘシェルにおいて、このハシディズムが持つ神秘主義的な性格が現れ出たものが、神の共感であり、神の熱情(パトス)であると言えよう。この神の共感、あるいは神の熱情(パトス)が現れ出る場が怒りや憤りや憐れみという感情であり、そこには不正や悪といった出来事がある。不正や悪といったものは倫理の問題である。だからこそ、この悪や不正を意識させつトーラーが重要なのであり、トーラーの遵守が神の熱情(パトス)へと向かう人の道なのであり、神との合一の道である。それゆえにトーラー自身が神の啓示として神秘的存在なのである。
 日本にヘシェルを紹介することに大きな貢献を果たした森泉弘次は、彼自身が著したヘシェルの評伝『幸せが猟犬のように追いかけてくる』において、ヘシェルを代弁するかのようにして、次のように述べる。

現代の宗教家や神学者は、倫理か神秘主義の一方を重視して他方を顧みない人が多い。しかし、それは宗教あるいは信仰の本質について無知な人のすることである。シナイ山におけるモーセへの啓示は人間理性を超えた神秘的出来事であるが、トーラーの内容は唯一なる神への忠誠と自分自身のように他者を愛する愛である。「倫理的神秘主義者」あるいは「神秘主義的倫理家」こそ真のユダヤ教徒の在り方であり・・・・[15]。

これは、あくまでも森泉がヘシェルの思いを思い計って述べた森泉の言葉であるが、その意はヘシェルの思いから、さほど離れていないであろう。それは、前出のヘシェル最後の弟子である手島祐郎が「ヘシェルは説く、『神は人を捜し求めている、人も神をもとめよ』と[16]」という言葉にも垣間見ることができる。「神は人を捜し求めている」、その探し求めている声が啓示であり、それが律法となって顕れ、預言者の声となって顕れている。だから、人もまた律法を遵守し儀礼をおこなうことで「神をもとめよ」というのである。
 もっとも、このようなハシディズムの側面からのみでヘシェルの思想を分析的にとらえるとするならば、それは宗教という非合理性の世界が哲学という合理性の世界をからめとってしまうことであり、二つの焦点の間に立つということにはならない。それは、ヘシェルの信仰を語ることであっても、思想全体を語ってはいない。
 では、ヘシェルの哲学的な側面はどこにあるのだろうか。論者の見立てでは、カントとフッサールの現象学[17]をもとに理解すると、ヘシェルの哲学的側面を知ることができるであろうと思う。実際ヘシェルがベルリン大学時代に籍を置いていた哲学科を席巻していたのは新カント学派[18]であり、ヘッシェルはこのベルリン大学でダビィド・コイゲンのもとで学んでいる際に、新カント学派マールブルグ派[19]のゲルマン・コーエンの主張にふれているからである。もっとも、森泉によるとその啓蒙主義的傾向[20]に対しては必ずしも同意していなかったようである。しかし、新カント学派に触れており、新カント学派が席巻しているベルリン大学の哲学科に身を置いている以上、ヘシェルにカントの栄光があるということは十分に考えられることである。
 確かに、新カント学派は「カントに変えれ」の言葉をもってカントを継承しつつも、知性において認識可能な「もの」や出来事といった領域に視点がおかれ、「もの」や出来事を考察し、知性内の認識に落とし込む。そこでは、倫理や道徳も文化的現象の中に落とし込んで考察されるのであって、方法論としては自然科学的な方法論が用いられる。そのためメタな意味での善や正義といったものが問われることはない。
 確かにカントは、『純粋理性批判』において知性で認識可能なものと、しかし認識不可の先験的なものを分離し区別た。啓蒙主義は、カントの知性で認識可能なもののみに光をあてたが、カントは先験的なものを全く無視したわけではない。たとえばそれは『実践理性批判』に見られる。例えばこの『実践理性批判』おける定言法は、「○○ならば」という条件を問わない従うべき行動への意志である。それは人間の経験という知性を超えた純粋実践理性に属するものであって、そこではメタなものが意識されてる。だからこそカントは宗教それ自体が倫理・道徳として捕らえられる。
 このような構造は、ヘシェルの啓示としてのトーラーとそれに応答する人間の行為という構造と相通じる[21]。同時に、正義と公正が行われない人の怒りと憤りの感情、それは苦難の中にある者への憐みの感情でもあるのだが、その感情が神の怒りや憤り、そして憐み[22]という神の熱情(パトス)と共感するとき、人間は認識できないものを直観的に把握するという宗教的認識と、カント哲学における経験と思惟の営みによる知性的認識とが、倫理と道徳という実践理性を媒介にして二つ中心となって描き出す楕円上の世界を描くことを可能としている。
 科学的認識は観察可能な世界の中に認識の基礎を置く。そのような認識論は極めて唯物的である。「もの」が認識を規定し、意識を産み出す。そのような唯物論的認識で神を認識するとすれば、必然的にその神観は神人同形論にならざるを得ない。人格を持ち、働きかける神は、人間の姿を通して認識されるのである。そのような神認識は、人から神の方向性を持つ、しかし、ヘシェルにとって、神は啓示される神であって、啓示は神から人へという構造をとる。見えざる神、知られざる神、それゆえに言い表せない神が自らを現す時、そこに現れ出る人格神としての神は、おのずと神人共観説にならざるを得ない。トーラーという倫理と道徳の規範が与えられ、その倫理と道徳に背を向けて生きるときに、そこに怒りや憤りが生まれる。また、同時にそのような怒りや憤りが、人を正しき良くさせようとする意志に向かわせる。人間に怖れをもたらす裁きの感情ですら、人を正しいもの向かわせようとする憐れみと愛へと転化される。それゆえに、そこに人格神としての神の姿が立ち現れるとするならば、それはおのずと神人共感説にならざるを得ないのである。
 このように、怒りや憤り、憐みや怖れ、またヘシェルが言う崇高さが、事物や出来事を通して、しかし事物それ自体ではなく、感情として心に直接切り込んで直観されるということは、その背後に、怒りや憤り、憐みや怖れといった感情の実体である「それ自体」の存在が現れ出て認識されているのである。それは一見、ハイデッガーの存在者と存在の関係に相通じるものであるが、その根底にあるのは、人間の意識の中に刻まれた神への志向性であると言えよう。それは、いわばフッサールの現象学的な態度である。それゆえに、ヘシェルの語る啓示という宗教的言説とカントやフッサールの語る哲学的言説は、合理と非合理という相矛盾するものでありつつ、それが互いに排除せず、この二つの間に中間に立つヘシェルにおいては、宗教哲学として認識可能な合理的世界と認識不可な非合理的世界を一つの世界として叙述可能なものとなっていると言えよう[23]。つまり、世界のあらゆる事物を通して神は人間に自らを啓示するのであり、それは、「世界は神の隠喩である」というヘシェルの言葉がそれを言い表している[24]。

 

.ヘシェルとブーバーの比較

 さて、最後にヘシェルとブーバーの思想の異同について,若干ではあるが、触れたいと思う。。本来ならば、これにローゼンツヴァイクも加えるべきであろうが、論者はローゼンツヴァイクについてはほとんど知らず、ローゼンツヴァイクとヘシェルの比較は、今後の課題として置いておくとして、この三人の人物は、言うまでもなくユダヤ教思想家の中で傑出した人物である。
 ブーバーは、フランクフルトで、ローゼンツヴァイクが創始した自由ユダヤ教学院とユダヤ人成人教育センターの所長を辞する際に、ヘシェルを後任に推薦し招いている。ヘシェルもまた、ブーバーには恩義を感じ感謝もしている。だからといってブーバーとヘシェルの思想が必ずしも近いわけではない。むしろ、互いにその違いを感じていた。実際、ブーバーはヘシェルが学位論文『預言者的意識』をユダヤ系の出版社ショッケン社から出版を試みた際に、ブーバーの出版社に対する出版反対の働きかけによって出版できなかったのである。そこにはブーバーとヘシェルの間にある思想的な、そして学問的な違いが横たわっている。ブーバーは、ヘシェルの才能を認めつつも思想的・学問的にはうけいれられないぶぶんがあったのである。
 ブーバーは、いわゆるハスカラ(西洋近代化したユダヤ教の啓蒙主義的改革運動)であって、戒律や儀礼に捕らわれない近代的ユダヤ人である。それゆえにブーバーはトーラーや宗教儀礼を厳守することはしない。しかし、それでもなおそのハスカラの視点から、ハシディズムを捕らえ、評価し、ブーバーの哲学的叙述に反映していく。それは、律法に規定されるされないにかかわらず、すべての行為において、その生き方が問われるのである。その意味でブーバーはユダヤ教ハシディズムを哲学していると言えよう。そのブーバーの哲学は「我と汝」の関係を根源的関係として捕らえる人格主義である。つまり、相対峙するものを「それ」として対象化するのではなく、「汝と我」という関係において、汝において我があり、我において汝があというる不可分なものだとして認識論的に主観―客観の構造を人格的対話の構造に置き換えて乗り越えていくのである。また、「それ」化される者の背後に「永遠の汝」たる神の存在を見、その「永遠の汝と我」との関係、世界を把握していく。この時、神は人間の思惟のえんちょうせんじょうにあり、哲学の先に「垣間見」の「存在」としてその姿を現す。
 それに対して、ヘシェルの思想はハシディズムから始まり、ハシディズムで醸成された信仰と知的営みとして学んだ哲学とを二つの中心点とし、「すでに知性によって把握されている世界を、宗教者としてどう生きるかのか」を問うている。このとき、神は人に対する超越者であり、神と人との関係は断絶している。その神と人を結び合わせ合一させるのは、共感という感情である。その共感の感情を、トーラーに基づく倫理・道徳的な行動と礼拝や祈りという宗教儀礼の実践を通して養うのである。もちろん、ヘシェルにおいてもブーバーと同様に、人はすべての行為においてその生き方が問われる。それは、ユダヤ教徒であろうとなかろうと同じである。だからこそ、ヘシェルは『人は独りではない』においては副題を宗教哲学[25]として一般化し、ユダヤ教を超えた普遍的な思想として提示するのである。そして、『人間を探し求める神』においては、トーラーとユダヤ教宗教儀礼の実践において神を求める人間の生き方・在り方を示すがゆえにユダヤ教宗教哲学というのであろう。
 こうしてみると、『人は独ではない』の出版が1951年であり、『人間を探し求める神』が1955年の出版であるということは、ヘシェルがまず宗教哲学という全体像を捕らえ、そこからユダヤ教哲学を宗教哲学全体に対して位置づけていると言えよう。そこには、ヘシェルの思想における全体と個の二重構造がある。そのうえで、ヘシェルの博士論文である『預言者』をさらに発展しさせたユダヤ教神学書である『イスラエル預言者』を1962年に出版する。こうして、ヘシェルにおける哲学と宗教という二つの中心が見事な緊張関係もって提示されていると言えるであろう。
 ヘシェルの思想は、熱情(パトス)共感と言った感情に向かう、しかしブーバーの目には、このように感情に着目し、それを重んじるヘシェルの思想は、あまりにもロマン主義的に映り、それゆえに、ハスカラであるブーバーにとっては、ヘシェルの才能は認めつつも、ロマン主義的叙述によって言いららわされるその思想全体を受け入れることができなかったと思われる。

 おわりに

ヘシェルがアメリカで『人は独ではない』を出版したとき、ラインホールド・二ーバーはヘラルド・トリビューン紙に同書の書評を著した。その中で「本書は近い将来、ユダヤ人社会ばかりでなくアメリカ国民の宗教生活そのものを導く力強い権威ある声となるであろうと推測しても誤りではなかろう」と言い、ヘシェルの思想に最大級の評価と賛辞を与えた。
 二―バーは「ユダヤ人社会ばかりでなくアメリカ国民」という。つまり、ヘシェルの思想に人類船体に及ぼす普遍的な要素があるというのである。既にみてきたように、ヘシェルは啓示の問題を取り扱う。しかもそれが、自然を通して「言い表せないもの」の感覚の中で、洞察(直観)し、「驚き」の感情を通して、その「言い表せないもの」の存在を認識できるという。同時に、啓示は、この「言い表せないもの」が何であるかを指し示すのではなく、人間の生き方を導くものであるというのである。
 このような、ヘシェルの啓示理解は、ヘシェル自身の意図[26]を超えて、宗教間対話を可能にするものであり、宗教多元主義やカール・ラーナの「無名のキリスト者」のような救済論を支える哲学的(認識論的)土台となる。その意味で二ーバーの評価と賛辞は、極めて的を射ていると言えよう。



[1] Abraham Joshua Heschelの読みについては、森泉弘次はエイブラハム・ジョシュア・ヘッシェルとし、手島祐郎はアブラハム・ジョシュア・ヘシェルとするが、本発表ではヘシェル最後の弟子である手島祐郎に敬意を払い、後者の読みを用いる。
[2] 森泉弘次『幸せが猟犬のように追いかけてくる A.J。ヘッシェルの生涯と思想』教文館、2001年
[3] イディシュ語は、、高地ドイツ語を母体とし、ヘブル語が混入したドイツ語の方言とされるもの。イディシュというのはユダヤの意
[4] ハシディズムは、18世紀にイスラエル・バール・シェム・トーブ(1698 or 1700‐1760)によって提唱され東欧を中心にユダヤ教における神秘主義的敬虔主義運動。カバラの思想を柱として、宗教的生活の実践を強調する。
[5] ユダヤ教の伝統的宗教教育であるトーラーの暗唱、タルムード(トーラーの注解)、ミドラシュ(旧約聖書の解釈がまとめられたもの)の学習。
[6] 「あえて」としたのは、このユダヤ高等科学学院はヘシェルの宗教的土壌のハシディズムに対して否定的な合理主義傾向を持つ学校であるからである。
[7] 論文提出から学位の授与まで3年かかっているのは、学位授与の条件に論文の出版すること必要要件とされており、そのために要した時間である。
[8] ドイツ国籍を有する者を、市民権を有するドイツ帝国市民とドイツ市民権を持たないドイツ人を区別する「帝国市民法」とアーリア系ドイツ人とユダヤ人との結婚や性交渉を禁じる「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」の二つ。この二つを称してニュルンベルグ法という。なお、ヒトラーが提議したアーリア人(アーリア人種)は、ゲルマン人を真のアーリア人として認識したものであって、厳密な意味でのアーリア人(北インド・イランに住む民族の祖)とは異なる。ヒトラーがゲルマン人を真のアーリア人として認識したのは「アーリア」という言葉が「高貴な」「優れた」という意味があることに関連するのかもしれない。
[9] ヘッシェルが、家族の消息を知ったのは渡米後2年たってからである。
[10]アブラハム・ヘッシェル、『人間を探し求める神』、手島祐郎訳、キリスト教聖書塾、1983年、7頁を参照のこと
[11] アブラハム・ヘッシェル、『人間を探し求める神』、森泉弘次訳、教文館、1998年、135頁
[12] 小田淑子・手島勲矢・森哲郎「シンポジュウム 宗教哲学の多様性」『宗教哲学研究28号』、宗教哲学会、昭和堂、2011年、90頁
[13] 同上
[14] 18紀の東欧ユダヤ教に起こったユダヤ教敬虔主義、ユダヤ教神秘主義であるカバラー(伝統・伝承の意)に基づき、神から伝えられた知恵を口伝として伝え受け継いできたとする。そのカバラーの内容は、ヘブライ文字文字22字は神の神秘を現すものであるとし、神は天地創造の際に、自分自身を一点に収縮し、その一点(アイン・ソフ)から神の聖性が流出し、この世界を10の段階に創造されたとする。それゆえに天地創造は創造ではなく流失として捕らえられる(それゆえには汎神論もしくは万有内在神的)。そしてその10の段階を結ぶ枝32の通路があり、その通路がそれぞれブライ文字に対応しているとする。それゆえにカバラーにおいては、ヘブライ文字は神秘的意味を持ち、じぇぶらい文字によってあらわされる神の名(また天使に名)には神秘的力があるとする。この10の段階(それを球として表現)と32の通路を図示したものをセフィロート(命の木)である。カバラーには思索的内容と実践的内容の二点があり、実践的内容は、いわゆる宗教儀礼(祭儀)であり、宗教的秘跡である。
[15] 前出、森泉弘次『幸せが猟犬のように追いかけてくる』、151―152頁
[16] 前出、アブラハム・ヘッシェル、『人間を探し求める神』、手島祐郎訳、9頁
[17] フッサールの影響については、前出の森泉弘次『幸せが猟犬のように追いかけてくる』、53頁にも言及されている。
[18] カントの『純粋理性批判』において示されたことは、認識の主体である悟性(知性)の働きによる認識は、いわゆる自然科学的な認識の範囲内であるという、いわば科学的認識の限界であり、自然あるいは事物(形而下)に対する認識の限界であって、「ものそれ自体」という形而上的認識と形而下的な認識を区別するということであったが、その自然、あるいは事物に対するか科学的認識が偏重される自然主義や唯物論的指向が広まっていく傾向、すなわち啓蒙主義的傾向に対する反動として起こって来た19世紀公刊から20世紀初等に起こった哲学復興を目指す学派。
[19] カント学派マールブルグ派は、コーヘンを中心にしたグループであるが、事物を認識するということは、知性が事物にある一定の共通性(科学的法則あるいは再現可能性)によって範疇化(カテゴリー化)し、主観的に構成することであるというカントの主張を受けて、倫理や道徳といったものも、人間の主観的意思の総体(すなわち間主観的な意志)によって構成されたものとする。
[20] マールブルグ派、カントによって科学的認識外とされたものもまた、間主観的な総体的意識という一定の法則性をもつ自然的認識のもとに還元されてしまうことになり、結果的に啓蒙主義的傾向に還元される。しかし、それによって哲学的思考が自然科学の土台とすること可能としたと、同時に、芸術や歴史と言ったあらゆる個別性を持つ(すなわち再現可能性をもたない)人間の営みをも、自然的認識によって叙述する方法論的道を開いた。
[21] 前出、アブラハム・ヘッシェル、『人間を探し求める神』、森泉弘次訳、33-34頁を参照のこと。
[22] 憤り、憐みと言った感情は、一種の我を忘れた忘我である
[23] 前掲書、60頁を参照のこと。そこにおいてヘシェルは「宗教哲学が増す最初に論じなければならないは信仰でも儀礼でも宗教経験でもない。これらすべての現象の源泉、人間が置かれている状況である」と述べている。そのうえで、人間が超越的存在の何をどのように経験しているかではなく、なぜそれを経験し受信しているかということである。宗教哲学が第一に問うのは、わたしの生とあなたの生において宗教を不可欠なものたらしめるものはなにか、という問いである」と述べる。をつまり、ヘシェルにとっての宗教哲学は。認識可能な人間の世界状況を把握し、その世界の中であるべき生を思い描くことであり、それはあるべき世界を描き出すということであると言えよう。つまり、自然科学的調和もまた、あるべき調和という意識の志向性の表れであり、その志向性は人間の意識の中に刻まれた神の像によるものであると言えよう。
[24] 前掲書、26-30頁を参照のこと
[25] 森泉訳における副題は、ユダヤ教宗教哲学の試論となっているが、この副題はヘシェルの意図を汲み取れていない。あくまでも原文の副題はA Philosophy of Religionである。
[26] ヘシェル自身の思索と著作活動の第一義的意図は、ユダヤ人の対する敬虔の喚起させるところにある。


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