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Youは何しに入部村へ? ~平重盛 消された足跡~

「早良郡志」の「入部村」の村名の項目に以下の一文があります。

重留の名の起こりは平清盛が大宰大弐の頃、重盛がこの地方に来たことにちなみ名づけたものと言い伝えられている。

早良郡志 下 入部村 より 意訳

 えー重盛さんって、あの平重盛さんですよね? 清盛さんの長男にして文武両道に秀でて、人格者で人徳あって平家の数少ない良心で、さすがの清盛さんも頭のあがらなかったあの重盛さんが入部村にきてたと。

 何しにきたんでしょうね。

大宰大弐

 まず平清盛が大宰大弐になった頃を調べてみました。
 保元の乱で功績をあげた清盛は、大宰大弐に昇進します。保元3年8月10日(西暦1158年)に任官し、永暦元年12月30日(西暦1160年)まで勤めています。

 大宰大弐というのは、大宰府の次官(ナンバー2)です。長官は権帥で主に皇族がつきますが、現地には行きません。大宰大弐は現地に赴任するので実際に実権を握れるわけです。
 だけど、清盛は現地に赴任しませんでした。1166年に弟の平頼盛が大宰大弐になり大宰府に赴任します。

 ここで面白いのは、平清盛が大宰大弐になったけど、赴任してないこと、でも大宰大弐は現地に赴任しないこともあるといいつつ、弟は現地に赴任したと大体の文献がセットで記載しています。
 これ清盛のイメージダウン作戦ですかね。

 尚、名代で重盛を遣わせたことについては記載を見つけることがてぎませんでした。清盛の悪役度が薄れてしまうので、消されてしまったのでしょうか。

 しかし、先の重留の名前の由来からこう読み取れるのです。
 平清盛は大宰府に赴任しなかったけど、名代として長男の重盛を使わしたと。

 入部村は菅原道真公が大宰府に向かった旧早良街道(板屋道)の途中です。(道中に先述の老松神社や松ヶ根の井があります。)
 重盛は、当時博多の湊に到着し、道真公と同じ板屋道を通り、無事大宰府に到着したのでしょう。太宰府天満宮には重盛が奉納したという「太刀『豊後国行平』」が存在します。

 当時20から22歳の平重盛、平氏の若き次の頭領の姿を想像すると、萌えますね。

 では何故平清盛は自らが大宰府にいかなかったのでしょうか。

保元・平治の乱

 保元の乱は勝利したものの、都はまだ気を抜けない状況でした。武士の中でも最大に近い兵力を持つ平氏の清盛が九州に行くことはできませんでした。そのため、名代として長男の重盛を遣わしたのでしょう。
 実際平治の乱が起こり、収束したのは、1159年のことでした。

 平清盛は九州を疎かには考えていませんでした。父である平忠盛は日宋貿易を行い莫大な富をあげていました。また、弟の平頼盛が大宰府に赴任した時期に、博多の「袖の湊」を整備し宋船が入れるようにしたのは清盛と伝えられています。(一説に菅原道真公の配流の頃に、袖の湊はあったという話もありますので、元あるものを整備したと考えます。)九州は経済の要でした。そのため、可愛がっていた嫡男の重盛を名代として遣わしたと考えられます。

 後日、平重盛は日本各地に「小松寺」を建てる予定でいたようです。仏教の隆盛は表向き。当時の寺院は海外貿易の通訳を行ったり翻訳をしたりとエリート揃いでした。交易ででたお金の管理、つまり金融業も営んでいました。
 経済の重要性を誰よりも理解していた重盛でしょうから、「小松寺」を各地に建て、仏教の保護とともに金融機関の支店のように運用し、日本経済の活性化も目論んでいたのでしょうね。


2023.03.26 加筆修正

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