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忘れる力の高め方

たとえばもし、「毎日noteを更新するぞ」と思っているとすれば。「次はなにを書こう」「明日はこれをテーマにして書こう」ということがつねに頭のなかに渦巻いていて、なにかネタになりそうなことを思いついたり経験したりすると、そのことを忘れないようにしようとすぐメモに残したくなり、もしすぐにメモができない場合は、脳みそが一生懸命がんばってその記憶をとどめようとする。“下書き”はどんどんたまっていき、頭のなかではつねにネタを取りこぼさないようにと、そのことばかり考えている状態。

たとえばもし、今日やるべきことがあって、それは絶対に今日やらなければならないことだとしたら。やはり同じように、わたしの脳みそはそのことを忘れないようにと必死にがんばり、それに手をつけはじめるまで安心できず、ことあるごとにわたしにそれを思い出させようとするのだろう。

もし、それをぜんぶやめて「ぜんぶ忘れてもいいよ」と言われたら?わたしはとても楽な気持ちになるし、気持ちもカラダも軽くなるのだろう。

と同時に、「忘れてもいいの??」と半信半疑の状態になって、それでも書けるのか、それでもやるべきことをちゃんとやれるのかが信じられず、やはりなんとかして忘れないようにする方法を模索するのだろう。

「忘れてはいけない」「忘れないようにしなきゃ」という感覚。それはなにげないことのようでいて、実はかなりの消費力として脳みそを疲弊させる原因になっているのではないか。

以前「毎日noteを更新するぞ」と意気込んでいたとき(noteをはじめて3年間、そういうことがもう何度もあったのだけど、同じ数だけ挫折している。そして実は今回もまた、懲りずにそれを目論んでいる。)、この“書くネタを忘れないようにしている状態”“つねにネタのことを考えている状態”がとてもしんどかった。

同じように、日常でさまざまなマルチタスクをこなしながら生きている今、特に出産をして育児という要素が日常に入り込んでからは、「やりたいこと」「やるべきこと」がこれまでの倍以上になり、「忘れないようにしなきゃ」という感覚が、まるで強迫観念のようにつねに頭のなかに渦巻いていた。

もしも、いつもカラッポな状態の自分でいられたなら。そんな状態でも、やるべきことがちゃんとやれて、さっきまでなにも考えてなかったのに、noteを開いた瞬間に言葉があふれてきて、わたしはただその言葉を文字として書き留めるだけでいいのであれば、そんなに楽なことはないし、そんなに豊な生き方はないだろうな、と思う。

きのうは珍しく息子が幼稚園を休むと言い出し、予定していた仕事をキャンセルして、日がな一日息子と家にいた。雨は降っているし、ストーブはつかないし、やることは山のようにあるしで、わたしの頭は若干煮詰まり、カラダが凝り固まりはじめていることをかんじていた。

ふと雨がやんだタイミングで息子が外に行きたいというので、一緒に庭に出て外の空気を吸う。空はまだ厚い雲に覆われていて、あたり一面霧がかかり、間からかすかにあたりの紅葉の風景が見える。足元には昨日今日でギュッと色濃くなって落ちた枯れ葉が敷き詰められている。


傍らで水鉄砲であそぶ息子を横目に、その風景を見ながらただぼーっとしているうちに、自分でも無意識のうちにカラダがふわふわと楽になって、じょじょに気持ちがゆるみ、カラダぜんぶがほどけてじわじわとあたたかくなっていくことを感じた。

さっきまで「あれもしなきゃ」「これもしなきゃ」「今日はあれをするって決めたんだから、忘れないようにしなきゃ」と思っていた自分はどこかへ行き、ただそこにたたずんでいることが幸福で、満ちたりた気持ちに包まれていた。

「かあちゃーん!うんちーーー!」という息子コールにより、脳内トリップはものの数分で終わって速攻で現実に引き戻されたものの、その後もその幸福感がカラダを包み、息子のお尻をふきながらも、なんだかゆるくあたたかい気持ちで過ごしていた。

やらなきゃと思っていたことはすんなりと進み、あぁ、今日はいい一日だったな、と安堵している自分が不思議で。

そうして眠りにつき、早朝に起きて今ココでnoteを書いている。メモ書きのような言葉だけは少し残していたけれど、バッチリ文章を考えていたわけではなく、キーワードを2~3語羅列してあっただけでここまで書くことができているのも不思議なのだけど。

幸福な時間感覚って、きっとこういうことなのだろうな。これがこの先も続けられるかどうかはわからないけれど。この楽なカラダで、軽い心で、どんどん忘れる力を高めていけたらいいな。





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