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北一輝と家父長制的フェミニズム

 つい先日、「生殖コスト」という語がツイッターのフェミニストの口から出てきてちょっとした話題になった。

 この「話題になった」というのはけっして肯定的な意味ではない。たとえばそれはこのように言及される。

 またこのように。

 要するにこういうことである。フェミニズムは元来、家父長制的な社会から女性の自由を勝ち取るための思想ではなかったのか。女という弱い性は、父、男性の庇護を受けねばならないとする社会からの解放を求める思想ではなかったのか。それが「生殖コスト」を訴え男性の庇護に進んで入ろうとするのである。これで「フェミニズム」を名乗っているのか?
 「生殖コスト」発言は、こういった批判に晒され、「ツイフェミ」の自己矛盾として揶揄されたのであった。

 だが笑ってすませてよいのだろうか。たしかにこの発言者は「家父長制」について的外れな理解をしているようであり、その点を批判するのはよいだろう。だが彼女のフェミニズムは、家父長制的フェミニズムははたして笑ってすませられるものなのだろうか。
 この点について考えるにあたって、北一輝を参照したい。

 北一輝とは戦前の日本において活動した社会運動家である。明治維新の精神を受け継いで「国民の天皇」を中心とした日本改造を求め、そして二・二六事件の理論的指導者とみなされ刑死した人物である。
 彼が求めた新たな社会の姿は『日本改造法案大綱』に書きまとめられた。北一輝のWikipedia記事ではその書の主張したこととして「男女平等社会、男女共同政治参画社会」と列挙している。だが、これは少なくともその後者については明確に誤りであると言ってよいだろう。なぜなら北一輝は二十五歳以上のすべての男子に平等に選挙権・被選挙権を与える一方で、「女子は参政権を有せず。」とはっきりと言い切っているからである。だが前者の「男女平等社会」についてはもしかしたらそんなことも唱えているかもしれない。

 たとえば彼は「婦人の労働は男子と共に自由にして平等なり。」と言う。そして男女平等に国民教育を受けねばならないとする。また女性の不倫に姦通罪が適用されるように男性の不倫にもまた姦通罪が適用されなければおかしい、と主張する。そして「婦人人権の擁護」として次のように述べる。

婦人人権の擁護。其の夫又は其子が自己の労働を重視して婦人の分科的労働を侮蔑する言動は之れを婦人人権の蹂躙と認む。婦人は之れを告訴して其の権利を保護せらるる法律を得べし。

 これには諸手をあげて賛成する方も多いだろう。家事・子育てに対する男女の意識の落差、これに起因する悲喜劇はツイッターでよく耳にするものだ。北一輝はこうした悲喜劇に際して疑いなく女性の側に立ってその夫に怒りその子を叱るだろう。この婦人人権の擁護者は、ある種のフェミニストと呼んでもよいのではないか。

 しかし、それならばこのフェミニストはなぜ女性の参政権を否むのか。それは決して単なる「時代的限界」などではない。ここに彼のフェミニズムの内実があるのである。

 先に「婦人の労働は男子と共に自由にして平等なり。」と彼の言葉を引いた。しかしこれは決していわゆる「女性の社会進出」をねらったものではない。むしろその逆なのである。彼は言う。

婦人労働。婦人の労働は男子と共に自由にして平等なり。但し改造後の大方針として国家は終に婦人に労働を負荷せしめざる国是を決定して施設すべし。

 女性が労働者として社会進出する。これは決して喜ばしいことではない。その逆である。将来的にそんな必要がまったく無くなること、これこそが理想なのである。彼は更に詳細に述べる。

現時の農業発達の程度に於ては婦人を炎天に晒して其の美を破り、又は貧困者多き近き将来に於ては婦人を工場に駆使して其の楽を奪うことも止むを得ざる人間生活なり。然しながら大多数婦人の使命は国民の母たることなり。妻として男子を助くる家政労働の外に、母として保母の労働をなし、小学教師に劣らざる教育的労働をなしつつある者は婦人なり。婦人は已に男子の能わざる分科的労働を十二分に負荷して生れたる者。是等の使命的労働を廃せしめて全く天性に合せざる労働を課するは、啻に婦人其者を残賊するのみならず、直に其の夫を残賊し其子女を残賊する者なり。此の改造によりて男子の労働者の利得が優に妻子の生活を保証するに至らば、良妻賢母主義の国民思想によりて婦人労働者は漸次的に労働界を去るべし。

 女性の参政権が否定されたのも、これと同一の論理による。

政治は人生の活動に於ける一小部分なり。国民の母国民の妻たる権利を擁護し得る制度の改造をなさば日本の婦人問題の凡ては解決せらる。婦人を口舌の闘争に慣習せしむるは其天性を残賊すること之を戦場に用ゆるよりも甚し。

 女性を労働に駆りだし、政治に関わらせるなんて、そんなひどいことはできない! そう彼は主張するのだ。これぞ家父長制的フェミニズムである。

***

 さて、冒頭の発言者は意図せず家父長制的フェミニズムに堕してしまったことによって揶揄された。だがそれはあくまでも言葉の上、論理の上だけの話にすぎない。その揶揄を呼び起こした原因は別にある。それは、要するに「女の生きづらさ」を重視する一方で「男の生きづらさ」を黙殺し、さらには追い打ちする点のことである(いわゆる「ツイフェミ」一般の不評に共通することでもある。たとえばあるフェミニストは日本のホームレスの96%が男性なのはむしろ男性の社会における優位さを示すと述べた)。
 男性は女性より稼いでそれをその女性のために用いなくてはならない。それでやっと平等であるといえる。冒頭で示した「男にとって結婚はリスクが大きいなあと感じた」という反応は、この発想に対してのものであろう。この発想がまかり通れば、貧困した弱者男性は「男女平等の本意を達成できない者」として切って捨てられるだろう。このように「男の生きづらさ」を無視し、増し加えることで今日のフェミニズムは不評を積み重ねてきたのだ。

 だがこのことは逆から言うと「男の生きづらさ」に対する救済策を用意さえできれば全ての問題は解消する、ということでもある。つまり、弱者男性を救済する強力な社会主義、「日本改造」さえ用意できれば、家父長制的フェミニズムは全面的に勝利するのである。「此の改造によりて男子の労働者の利得が優に妻子の生活を保証するに至らば、良妻賢母主義の国民思想によりて婦人労働者は漸次的に労働界を去るべし。」と北一輝が言うのはまさにこのことだ。
 「仕事と私、どっちが大事なの!」と女が問う場合「そんなこと言わせて、ごめんな」と言って抱きしめるのが「正解」、という与太話がある。言うなれば北一輝はそれとちょうど同じようにフェミニズムを唱える女性を「そんなこと言わせる社会にして、ごめんな」と言って抱きしめるのだ。「ほら、今から日本を改造するから」、そういって彼は彼の理想的な社会の建設にとりかかる――けして叶うことはなかったけれども。

 しかしもし叶うとしたら、また別の問題が生じるのではないだろうか。家父長制的フェミニズムとは別種のフェミニズムを抱く人はそう考えるだろう。男/女の二分法の世界、「男らしさ」「女らしさ」の呪縛と桎梏からの解放を望むフェミニズム、いわばクイア的フェミニズムを生きる人々にとって、北一輝の描き出す社会は決して住みよい社会であるとは思えないに違いない。
 だが、おそらく、北一輝はそんな人々さえも「そんな生き方をさせる社会にして、ごめんな」といって抱きしめるのではないか。
 というのは、北一輝の書く条文が暗に示しているのはおそらく次のようなことだからだ。
 人間は、あるいは少なくとも日本人は本来的に「男らしく」「女らしく」生きるものであり、そう生きたいと欲している。だが現下の資本主義社会の歪みがそれを許さないので、婦人労働が必要になり婦人参政権が求められるような社会になってしまっている。つまり「男らしさ」「女らしさ」からの解放がそれ自体として求められているのではなくて、「男らしく」「女らしく」生きることが事実上困難になってしまったので、「すっぱい葡萄」的に「男らしさ」「女らしさ」からの叛乱がまきおこっているのだ。従って、社会を改造さえしてしまえばクイア的フェミニズムなどという不自然な生き方は当然必要なくなる。彼/彼女は本来の「男らしい」「女らしい」生に喜んで帰っていくに違いない。

 こうして家父長制的フェミニズムはクイア的フェミニズムを抱擁するのである。(だが本当にそれで彼/彼女のすべてを抱擁しつくすことはできるのだろうか?)

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 本稿では、『日本改造法案大綱』をkindleで青空文庫のを入手し引用している。また読みやすさのために、その旧字は新字に直し、また旧仮名・カタカナ表記を新仮名・ひらがな表記に直した。


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