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述語が小さすぎる ――「主語が大きすぎる」とは別の仕方へ、西田幾多郎の思索を介して

 以下の論稿は、詩誌「フラジャイル」第16号に投稿し掲載されたものをゆるしを得て転載したものである。「フラジャイル」は旭川を拠点に活動しており、昨年帰省した折に縁ができた。

 以下、拙論本文

述語が小さすぎる             ――「主語が大きすぎる」とは別の仕方へ、西田幾多郎の思索を介して


 主語が大きすぎる、とはよく言われる。だが、述語が小さすぎるとは言われない。「主語が大きすぎる」ことに気づける人も、「述語が小さすぎる」ことにはなかなか気づけない。しかし、これらはどちらも言葉を用いる人間にとって避けられない危険である。そして、後者は普通には気づきにくい分、それだけより危険である。しかし「述語が小さすぎる」とはどういうことか。本稿はそのことを西田幾多郎の哲学を介しながら考えてみたい。
 だが、その前にまず、「主語が大きすぎる」とはどういうことかおさらいしておこう。この批判のフレーズは今日ではよくきかれる。とくにネット上の口論でよく言われることの多い言葉なのだが、そもそもは漫画『さよなら絶望先生』の一コマに由来する。このフレーズにピンときていない人もいるかもしれないので、念のためそのセリフを引用しておこう。

いますよね 主語のデカい人
一人しかいないのに「私たち住民は断固反対する!」とか!
全員に聞いたわけでもないのに「我々都民は我慢の限界」とか!
自分の意見をみんなの意見のように言う 主語のデカい人!

       ――『さよなら絶望先生』144話「ククリなき命を」

 「私」というべきところを「私たち住民」と言う。「私」というべきところを「我々都民」と言う。主語を拡大することでその膨張した主語の権威を借りるとともに、そこに「私」という個人を溶け込ませて隠れさせてしまう。「主語が大きすぎる」とはこのような話法に対する抗議のフレーズであった。こうしたやり口は古くからあるもので、たとえば太宰治は小説『人間失格』のなかで「これ以上は、世間が、ゆるさないからな」という説教に対し(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)と内心抗議する主人公を描いている。現代でも、「社会人ならこうするものだ」、「日本人ならこうするものだ」と大きな主語で勝手なことを言ってくる人はありふれている。
 以上の例は「私」「我々」の側で主語を大きくしたものだが、相手・対象の側で主語を大きくして語る場合も多い。「男は」「女は」「日本人は」「中国人は」という語り出しで、いかに多くの誤謬・偏見が語られたことだろうか。そこでもまた現実の個々人は大きな主語にかき消され、もっともらしい命題の断言に取り替えられてしまう。
 「主語が大きすぎる」とはこのような種類の言葉を用いた卑劣さに対する抗議であった。そして現在ではほとんど決まり文句のように流通している。これは、主語の大きな断言をする人々が今日にいたるまでそれだけ多いということでもある。だが同時に「主語が大きすぎる」と即座に反論できる人々がそれだけ増えたということでもあり、「主語が大きすぎる」のはいけないという意識がそれだけ浸透したということでもあるだろう。しかし、このような意識はどこに行き着くだろうか。「男」「女」「日本人」「中国人」「国民」「都民」「住民」というような大きすぎる主語からどんどんその大きさを狭めていけば、最終的には、「私」や「あなた」、「あの人」という一個人にたどり着く。これはアリストテレスが真の実在として考えた「主語となって述語とならないもの」にほかならない。
 アリストテレスは、善のイデアや美のイデアに真の実在を見た師プラトンに対し、そのようなものではなく現実にある「このもの」こそが実在だと考えた。「花は美しい」の「美しい」という述語の方向にイデアを見、実在を見たプラトンと違って、「花」という主語の方向に実在を見たのである。そして「花」というだけではまだ主語が大きすぎる。花といってもタンポポもあればレンゲソウもある。そしてタンポポといってもセイヨウタンポポもあればニホンタンポポもある。そしてこのように種類をどんどん細かく分けていっても、美しいと言われた「この花」「このもの」には達しない。しかし「このもの」があって初めて「花」と言うこともできれば、「美しい」と言うこともできるのである。「これは花である」、「これは美しい」、この究極の主語を、アリストテレスは「主語となって述語とならないもの」と表現した。そして本当に存在するのはまさにこの「これ」なのであると考えたのである。
 そうすると、「主語が大きすぎる」とはまさにこのアリストテレスの思想を受けつぐ考え方なのである。「主語が大きすぎる」、だから主語を切り詰めて、本当に存在する「これ」「このもの」について語るべきだ。そうすれば、我々は多くの誤謬と偏見から解放される。このことはある程度正しい。だがこの方向には、「主語が大きすぎる」ことの問題とは違う別の問題があるのではないか。全てを「これ」「このもの」に帰着させることは別の問題を生むのではないか。
 「住民」が反対しているのではない、「あなた」が反対しているのだ。「都民」が我慢の限界なのではない、単に「あなた」が我慢の限界なのだ。このような批判はある程度正当だが、しかし問題をどこまでも一個人に局限するものである。それはあくまで「あなた」の問題にすぎない。反対しているなら、我慢しているなら、どうして出ていかないのか、「あなた」一個人の問題にすぎないではないか。いや、単に「あなた」一個人の問題にすぎないだけではなく、「あなた」一個人に問題があるのではないか。
 究極の「これ」「このもの」に帰着するこの批判の方向は、極端な自己責任論に行き着くだけではなく、一個人に紐づいたさまざまな情報を調べることの容易な今日のネット社会では簡単に「個人攻撃」「人格攻撃」にまで発展する。「主語となって述語とならないもの」として究極の個体である「あなた」の過去、行動の履歴、発言が掘り返され、「あなた」が直面した問題はいつのまにかそのような問題を呼び込んだ「あなた」自身の問題として理解される。「世間」に問題があるのではない、「あなた」に問題があるのだ。
 「あなた」はもしかしたら過去に犯罪を犯した「前科者」かもしれないし、差別的な発言をした「差別主義者」かもしれない。そうでなかったとしても、まったく文句のつけようがない過去の持ち主というのは中々いるまい。
 そしてこのような詮索は主語の大きすぎる主張とは違って、原理的には真偽をはっきりつけることができる。「○○人は犯罪者である」という主張は、原理的に間違っていることがわかるが、「○○という一個人は犯罪者である」という主張は、もしその人が罪を犯したことがあるなら間違いなく正しい。「このもの」に帰着する思考の方向は、少なくとも何らかの「正解」に辿り着きうる。そしてまさにこれがために、多くの人の思考がこの方向に吸い込まれ、フェイクニュースが飛び交うことになる。たとえばBlack lives matterの問題が、その発端となったジョージ・フロイドが麻薬使用者だったかどうか、という問題に吸い込まれて議論される場合のように。「Black」は主語が大きすぎる、だがジョージ・フロイドが麻薬を使っていたかどうかには「正解」があるはずだ・・・・・・。
 「主語が大きすぎる」。これは確かに多くの人が陥りやすい過ちであり、そのことを批判するという意識はある程度正しい。だがこの批判の方向は結局のところ、「このもの」という究極の個体に行き着き、その「このもの」についての「正解」を延々と争い合う袋小路に閉じ込められるだけなのではないか。
 私が「主語が大きすぎる」とは正反対の「述語が小さすぎる」という方向に希望を見出すのはこのためである。この方向に歩むことで、我々はこの狭い袋小路から広々とした「場所」へ抜け出すことができるのではないか。そしてこの道行きの導きとなるのが、日本の哲学者西田幾多郎、そして彼の「場所」の思想である。
 
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 西田幾多郎は日本の哲学者である。明治のはじめごろに生れ、一九四五年に死んだ。日本で初めて、単なる哲学の翻訳家・輸入業者以上の、独創的な哲学者となったと言われ、その周囲には後に「京都学派」と呼ばれるそれぞれ個性的な哲学者たちが集まった。その思想には彼の禅の経験が反映されているとよく言われるが、しかし彼はあくまで西洋哲学の流れをふまえ、あくまで論理的に、しかも世界に開かれた思索をなした。
 その西田の思想としてよく知られているのは彼を世に知らしめた最初の著『善の研究』で描かれた「純粋経験」である。それはたとえば花を見たのであれば、これは「私」の経験だとか、「花」についての経験だとか判断する前の、花を見て、「花」とも「見た」とも言う以前の経験である。この根本的で直接的な経験が「純粋経験」の意味するものである。この思想は、西田の禅の経験に裏打ちされていることは言うまでもないが、しかし「純粋経験」は禅の特殊な境地のみを指しているのではない。むしろ我々は日々、一秒一秒、「純粋経験」に面している。そして西田がこのようないまだ主観も客観もない「純粋経験」を思索するのは、主観と客観に分断され観念論と唯物論との二つの隘路につきあたっている西洋哲学を乗り越えるためでもある。主観の側にふりきって巨大な観念の化け物をくみたてるのでもなく、客観の側にふりきって唯物論、実証科学ですべてを割り切ることもなく、ただ事実を事実そのままに、経験を経験そのままに捉えること、それが「純粋経験」の思想の眼目だったのである。
 私が今回参照する彼の「場所」の思想も、このような「純粋経験」の事実そのままを捉えるための思索のなかで生まれた。西田は自己をある一点からすべてを眺めるような点のようなものとしてではなく、「場所」のようなものとして考える。そこからすべてを見る主体、知る主体、一つの中心点のようなものとして考えられた自己は、それもまた考えられたものにすぎない。それもまた自己の内に考えられたものである。西田は見ること、知ることをむしろ自己の内に包むことと考え、自己を「場所」のようなものとして考える。自己は「場所」的に存在するのである。この考えは『善の研究』での「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」という思想を引き継いでいる。いまだ主観も客観もない根本的な事実に立ち返れば、そこには個人としての自己はなく、経験が「場所」のように広がっているだけである。個人としての自己というものはこのような経験という「場所」から沸き起こり考えられるものであって、はじめに個人としての自己があるわけではないのである。
 このように、『善の研究』から十五年後に書かれた論文「場所」の思想は、その根本のところで『善の研究』の思想を引き継いだものであった。だが、それをあえて「場所」として論じなおしたのは『善の研究』での「純粋経験」では足らぬものがあったためである。その足らぬものというのが、その根本的な「純粋経験」というものからどのように主観と客観が考えられ、判断が可能になるか、という問題だった。言語化以前、判断以前の「純粋経験」から、どのように判断が可能になるのか。
 論文「場所」はこの問題に答えるためのものであった。そしてその手引きとなったのが判断のそもそもの構造であった。
判断の基本形は、「〔任意の主語〕が〔任意の述語〕である」という命題にある。西田はこうした判断を、主語が述語に包まれることと捉える。ベン図を想像すれば分かりやすいが、「赤は色である」というとき、「色」という一般概念の枠のなかに、「赤」という特殊概念が包まれている。「色」という枠のなかには「赤」のほかに「黄色」や「青」などさまざまなものがあるだろう。また「赤」の枠のなかにも、「朱色」や「紅」などさまざまなものがあるだろう。「リンゴは果物である」という判断も、「犬は動物である」という判断も、このような一般が特殊を包摂するという構造を言ったものなのである。
 さて、このような特殊と一般の重なり合いにおいて、その特殊の方向へ突き詰め、その究極のところに真に存在するものを見たのがアリストテレスであった。「犬は動物である」、「プードルは犬である」、「トイ・プードルはプードルである」、「この犬はトイ・プードルである」と突き詰め、ついには「これ」「このもの」、あるいは固有名でしか指せなくなった存在、この「主語となって述語とならないもの」こそが実在であると考えたのがアリストテレスであった。西田の「場所」論は、まさにこのアリストテレスの思索の方向を正反対にひっくり返す。つまり、「場所」を一般の方向、述語の方向に突き詰めた「述語となって主語とならないもの」として捉えるのである。
 一般は特殊を包摂する。犬は動物の一種であり、赤は色の一つである。西田はこの「包む」ということを、知る、見る、ということにおける自己の内に包むことにパラフレーズさせる。述語が主語を包むように、我々はさまざまな経験、知識を自分という「場所」に包むのである。犬が動物の一種として理解されるように、赤が色の一つとして理解されるように、自分という「場所」に包まれることで、すべては何らかのものとして見られ知られるのである。ただし、もちろん「場所」は普通の意味での一般概念ではない。述語の方向に突き詰めて、どんどん一般概念を広げてゆくと、もはや普通の意味での一般概念では表現できないところまで辿りつく。「犬」、「動物」、「生物」、「存在」、・・・・・・その先、というと「存在」すらも包摂する言語化しえないところに行き着く。「述語となって主語とならないもの」はこのもはや一般概念としても表現できない「場所」なのである(そのため西田の「場所」はプラトンのイデアをも越えて、イデアをも包む「場所」である)。それゆえ「述語となって主語とならないもの」といったが、厳密にはそれは文章において述語の位置を占めることもない。言語として述語の位置を占めるものは主語の位置も占めうるものである。それだから「述語となって主語とならないもの」はそうした言語化された述語をすべて包摂する言語化しえない無限大の述語なのである。このため、さきに「自分という「場所」」と表現したが、これも厳密には間違っている。「自分」という概念も、その「場所」から考えられてくるものにすぎないのである。
 このように突き詰めて考えられた「場所」は、それゆえとくに「無の場所」とも言われる。これが「このもの」という有に突き詰めたアリストテレスに対して、西田が「無」「絶対無」と言うことで示そうとするものなのである。
 しかし、「場所」は「無」として言語化できないものでありながら、それはあくまで一般を一般の方向に突き詰めたものである。一般概念を越えた一般である。とくに「無の一般者」とも表現されるが、それはあくまで一般性をもったものであり、それゆえ言語、判断の出立点となるものなのである。
 だが、一般をさらに一般の方向へ突き詰めたものと言うと、何かきわめて抽象的で宙に浮いたもののように聞こえるだろう。そう考えると、その一般の方向へ突き抜けたものが経験の「場所」として捉えられるのは奇妙に思えるかもしれない。だがこの一般の方向は述語の方向でもある。西田はそもそも『善の研究』の時から一般概念を何か抽象的で宙に浮いたもののように捉えること自体に反対してきたのだが、論文「場所」で述語という論点が加わることでこの考えにさらに感覚的なニュアンスが入ってくる。「これは花である」「この花は赤い」「この花は香しい」「この花は美しい」・・・・・・、こうした判断は、「これ」を花のグループに入れ、赤いもののグループに入れ、香しいもののグループに入れ、美しいもののグループに入れるものである。その点で、これらの述語は「これ」という主語に対してたしかに一般的なものだ。だが、一般的だから宙に浮いているということはなく、むしろこうした述語こそ我々が直接に感じているものなのだ。「花だ」「赤い」「香しい」「美しい」・・・・・・我々が「これ」を捉えることができるのも、このように感じることによってなのである。
 アリストテレスの方向で発展した自然科学は、「赤い」「香しい」「美しい」といったことを、結局のところ主観が客観と接触することで散った火花のようなものにすぎないと考えて、「このもの」自体は何の色も香りもない、ただ位置と延長、運動だけの存在として考えた。色や香りは主観的なものにすぎず、実際に存在する客観的な物理的世界は色も香りもないのである。西田の時代の科学(現代でもそう考えている人はいるだろう)は究極のところでそう考えた。だが西田は我々の実際の経験は色もあり香りもあるものでなければならないと考える。「赤い」、「香しい」、「美しい」、これこそが我々が実際に感じていることなのである。しかし、そう言葉を重ねても、我々が実際に感じていることを言い尽くしたことにはならない。たしかに赤い、たしかに香しい、たしかに美しい。でももっとある。「無の場所」とも表現される無限大の述語とは、このような「花だ」「赤い」「香しい」「美しい」と言葉を重ねても言い尽くすことのできない、あえて言語化するとしたら、ただ「ああ」と嘆息して感受するほかない感じなのである。ここではどんな述語も小さすぎる。
 
               ***
 
 ここで本筋に戻ってくる。述語が小さすぎる。主語が大きすぎること以上に、述語が小さすぎるのが問題なのである。
 人は往々にして大きすぎる主語を用いがちで、大きすぎる主語は偏見や誤謬の温床となる。それゆえ、「主語が大きすぎる」ということが問題となり、それに対する批判的意識も広まった。だがすでに見たように、「主語が大きすぎる」という批判の方向は最終的に「これ」「このもの」に帰着し、「このもの」についての「正解」を争う袋小路に行き着く。この袋小路から抜け出すために、私は「主語」から「述語」に目を向けた。主語が大きすぎるとかどうとか言っているが、述語はこれでいいのか?
 これまで述語の大きさが問題とされてこなかったのは、何にせよそれが「正しい」からである。「日本人は」とか「男性は」で始まる文章にはいくらでもつっこめるが、「日本人である」とか「男性である」で終わる文章は、その主語となる人が日本人で男性なら、何もおかしいところがない。それらは間違いなく「正しい」のである。だが「正しい」だけですべてを済ませてよいのだろうか。「私は道産子である」、「私は日本人である」、「私は男性である」、これらはすべて正しい。だがそれで尽くせるだろうか。これらの述語はどれもみな、あまりに小さすぎるのではないか。「私は人間である」と広げてみても、それでもやっぱり言い尽くせないものがあるのではないか。あらゆる述語は小さすぎるのではないか。
 「述語が小さすぎる」とは、いかなる述語でも言い尽くすことのできない広大さに思いをはせることである。「私は○○である」「あなたは○○である」「あの人は○○である」と言い立てることはいくらでもできよう。そしてそれらが正しいということもあるだろう。しかしそれで言い尽くすことはできない。それらから漏れだすものはかならずあるのである。「あの人は前科者である」、「あの人は差別主義者である」、「あの人は悪人である」といった文章が正しいこともある。しかしそれでもすべてを言い尽くすことはできないのだ。
 思えば、偏見や誤謬の問題も、実は「主語が大きすぎる」からではなく「述語が小さすぎる」から起るのではないだろうか。「社会人は」「日本人は」と大きな主語を振りかざして勝手な常識を押し付けてくる人がいるが、「社会人は○○する」という判断はそれだけでは問題にならない。主語が大きすぎる判断はそれだけでは宙に浮いたものにすぎない。それが害になるのは、「私は社会人である」という小さすぎる述語で自己を規定し、「あなたは社会人である」という小さすぎる述語で他者を規定し、そこから「社会人なら○○しなければならない」、ゆえに「あなたは○○しなければならない」と我々に適用されたときである。大きすぎる主語の害は小さすぎる述語をとおして、三段論法的に我々に降りかかるのである。
 「○○人は犯罪者である」といういかにも害悪な判断も、実はそれだけで害を与えることはない。それが「あの人は○○人である」という判断とつながり、その小さすぎる述語でその人のすべてを判断するのが問題なのである。また「○○人は犯罪者である」という原理的に誤った命題を「○○人は犯罪者が多い」という命題に代えたとして、それが統計学的に「正しい」ということはありえないことではない。だがそれでも「犯罪者が多い」とは無数の可能な述語の一つにすぎない。それはやはり小さすぎる。
 「主語が大きすぎる」は「このもの」についての「正しさ」へ思考を導くものだった。「述語が小さすぎる」は、「正しい」判断をどんなに重ねても汲み尽くすことのできない広大さへ思考を開く。どんな述語も、世界の前では小さすぎるのだ。

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