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第三章 場所の「一転」

「一転」と「転落」

 昨日の意識と今日の意識、そして私と汝の「個々独立」を肯定的に語ることのできる立場を西田はすでに『自覚に於ける直観と反省』そして『芸術と道徳』の段階で獲得していた。そうすると、この地点から後の「私と汝」を眺めたとき、一体どれほどの変化があるのだろうか。
 その変化はけっして小さいものでなかっただろうことは予想される。よく知られているように、西田は『自覚に於ける直観と反省』で到達した立場に満足していなかった。彼は「降を神秘の軍門に請うた」(II, p.11)とその序文にて自らを批判している。一九三五年、『善の研究』の新版に付された序では、そこからの展開を「一転して「場所」の考に至った」と説明していた。それでは「場所」の考えで何が一転したのだろうか。そして本稿の目的からすれば、この「一転」と他者論とにいかなる関わりがあるかも明らかにしなくてはならない。
 ところで、この「一転」の西田の自己理解に反して、小林敏明は『西田幾多郎 他性の文体』所収の「無の場所の転落」においてこの「一転」に関して次のように述べている。

 西田は純粋経験から場所への移行を「一転して」と述べている。確かにそれは新しく「論理」の問題を取り入れたという意味で「一転」には違いない。だが前節でも見たように、この場所の段階でも純粋経験的な意識は述語面として問題の視野から外されているわけではない。そして「無」はまさにその「意識」が語られるところでは、いわばその極限ないしその「果て」として登場してきたのであった。だが西田において本当の「一転」はむしろ彼の関心が歴史的行為すなわちポイエシスに向かったときにあった。つまり多かれ少なかれ対他的社会的な性格を帯びる行為を問題にするとき、それまでの「意識の立場」ないし「心理主義的」な立場は取りえなくなるからである。(小林, 1997, p. 112)

 小林は「一転」をむしろ場所論が他者論と関係をもったことそれ自体に見る。そしてこの「一転」はけっして肯定的な変化ではない。ここに小林は無の場所の「転落」を見るのである。この「転落」は本書に収められた別の論文「時間と他者」のなかでさらに明確に述べられている。

瞬間および個がその一回性を負って自立しうるためには論理の要請上ある特定の一般者が想定されてはならなかった。だからそれは「絶対無」とか「一般者の一般者」と呼ばれざるをえなかった。ところが「社会」も「歴史」もまさにそのつど限定を受けながらダイナミックに変化していく特定の「一般者」である。つまり「絶対無の場所」とすでに諸々の具体的関係による規制を受けた「社会」とを同一視することはできないはずである。にもかかわらず西田はその後も「社会」や「歴史」の概念を放棄することはなかった。(小林, 1997, p. 191)

 無という非実体的な概念を取り扱うことは危険に満ちている。「無がある」と言ってしまうと、その時点で「ある」という実体的なものに変化してしまうからだ。そこには「存在」が「存在者」に「転落」してしまうというのと同じ「転落」の危機がある。西田は『無の自覚的限定』以降、しばしば「歴史」といった「特定の「一般者」」を想起させる言葉を用いて絶対無の場所を表現するようになる。ここに小林は「無の場所」を特定のあるものに変えてしまう「転落」を嗅ぎ取ったのである。
 こうなると、場所の「一転」と他者論との関係はどのようなものか、と素朴に問うことはできなくなる。他者論との関わりがそのまま場所論で得られた「無の場所」の「転落」を意味するのだとしたらどうだろう。その場合、単に西田の場所論の記述とその合間に見出された西田の他者論的記述を並行的に抜き出すだけでは何も見えてこない。なぜならそれは西田の他者論に対する場所論の影響ではなく、場所論の「転落」の徴候にすぎない、という可能性もあるからだ。
 だが「転落」というのも小林敏明の解釈にすぎない。本当にそれは「転落」なのだろうか。いずれにせよ、場所の「一転」がいかなるものか明らかにならないかぎり、それと他者論との関係を論ずることはできない。

具体的一般者と「自己同一なる色自身」

 「転落」について問う前に場所の「一転」の意義を明らかにしなくてはならない。だがその前に小林敏明が論文「場所」にわずかに先立って西田の書いた「働くもの」に見出す「陥穽」についても触れておきたい。その「陥穽」とは具体的一般者に関するものである。筆者は小林の具体的一般者についての理解に異論をさしはさみたいのである。
 具体的一般者とは何か。普通我々は概念・一般者をそもそも抽象的なものとして考えている。だから、西田のこの術語はそれ自体自己矛盾的に聞こえる。だが西田にとって概念を思惟するということもまた純粋経験なのである。それは活動的統一たる純粋経験の欠くべからざる「分化発展」なのである。『善の研究』ではこのように述べている。

 純粋経験と思惟とは元来同一事実の見方を異にした者である。嘗てヘーゲルが力を極めて主張したしたように、思惟の本質は抽象的なるにあるのでなく、反ってその具体的なるにあるとすれば、余が上にいった意味の純粋経験と殆ど同一となってくる、純粋経験は直に思惟であるといってもよい。具体的思惟より見れば、概念の一般性というのは普通にいう様に類似の性質を抽象した者ではない、具体的事実の統一力である。ヘーゲルも一般とは具体的なる者の魂であるといって居る(Hegel, Wissenschaft der Logik, III, S. 37)。而して我々の純粋経験は体系的発展であるから、その根柢に働きつつある統一力は直に概念の一般性其者でなければならぬ、経験の発展は直に思惟の進行となる、即ち純粋経験の事実とは所謂一般なる者が己自身を実現するのである。(I, pp. 25-26)

 この「具体的事実の統一力」こそが後に「具体的一般者」と呼ばれることになるものである。判断の根柢にあってそこから働くもの、それが具体的一般者と呼ばれるものである。小林は「働くもの」から次の文を引用する。

此机が樫から造られてあるという時、その主語となるものは実在でなければならぬ、判断の基には何時でも具体的一般者があるのである。此机という時、我々は既に実在全体を見る立場に立って居るのである、総合的統一の立場に立って居るのである。(IV, p. 178)

 具体的一般者とはこのようなものだ。判断の根底にある究極の基体、そこから判断の「分化発展」の生まれる「統一力」、それこそが具体的一般者なのだ。小林はそのことを次のように説明している。

 西田が考えた「具体的一般者」というのはさしあたりこの〔「これ」とさえ呼べない究極の特殊の〕方向において了解されうる。〔中略〕言語的概念的ヒエラルヒーを下ってその「底」を突き破って出会ったもの、それはもはやヒエラルヒーには属しえない。だからそれはもはや「一般に対置される特殊」というようなものではありえないのである。それどころかこれは前節に述べた「純粋経験」に当たるものとして、そこから「分化発展」が生じてくるような「無の場所」なのである。西田はこの判断命題を主語の方向に還元=無化していって突き当たるもの、これを「主語となって述語とならない基体」と呼ぶ。(小林, 1997, pp. 97-98)

 このような具体的一般者は「自己同一」という術語でも語られている。

判断の根底には自己自身に同一なるものがなければならぬ、而して自己自身に同一なるものは直観的なるものでなければならぬ、直観と判断との結合するところに自己同一の判断が成立するのである。(IV, p. 180)

 そこまでは問題ない。「陥穽」はその後にある。小林は次の文を引用する。

併し色の判断の成立するには、その根底に自己同一なる色自身というものがなければならぬ、而してそれは主語となって述語とはならないものと云うことができる。(IV, p. 183)

 「自己同一なる色自身」。この「自己同一」を小林は個々の概念の信憑性を支えるものとして捉える。赤は赤の自己同一を、青は青の自己同一をもっているがゆえに、それぞれの色の差異や対立が成立し、他の概念との類的包摂関係などを言うことができるのだ。だが、このような概念の「自己同一」と「実在全体を見る立場」から見られた具体的一般者の「自己同一」とを同列に見ることは本当に可能なのか。

だが私はここに一つの陥穽を見る。すべての存在者ないし概念を徹底的に還元、無化していった先に得られる「主語となって述語とならぬもの」に帰せられる「自己同一」と個々の存在者ないし概念の信憑性を支える「自己同一」とは同じものと見なされてよいのだろうか。根源的な「自己同一」があるからこそ個々の「自己同一」が成立するというのは一つの解釈である。だが根源的な「自己同一」たる具体的一般者はすべてを包摂する「総合的実在」だったのではないか。しかもそれは前節に見たすべての類概念の外に出た純粋経験としての無と繋がるはずのものである。こうした観点から見たとき、個々の概念を支えるものとしての「自己同一」は、仮に一歩譲って根源的自己同一の分身のようなものだとしても――総合的実在たる自己同一と同列に置かれるわけにはいかない。さらに言えば、本質的に自己同一なものがもはや概念の次元を超えたものであるとするならば、それを「概念」に適用するのは問題だと言わねばならない。ここには一種のメタバシスが働いている。(小林, 1997, p. 102)

 この「陥穽」についてまず考えてみることができるのは、「自己同一」と「具体的一般者」とを本当に同一視することができるのかという点である。自己同一も具体的一般者もともに判断の根底にあるものではあるが、しかし二つの異なる語で示されているということはその意味内容に差異があるとも考えられる。具体的一般者は自己同一的でなくてはならないが、自己同一なるものが必ずしも具体的一般者であるとはかぎらないということもありうる。
 だが、西田の記述を読み進めると色の判断の根底にある「自己同一」が具体的一般者であることは避けられない。小林は引用していないが、「此机」云々の文章にほどなくして以下のような文章がつづいている。

今此机が樫から造られて居るという如き実在判断について云ったことは、数の判断や色の判断の如きものについても、同様に云うことができるでもあろう。数とか色とかいう具体的一般者が自己自身を限定することによって、数の判断、色の判断が成立するのである。此場合、主語として限定せられるものは、此机という如き意味に於て個物的なるものではないが、やはり総合的統一の立場に於て限定せられたものとして、全体の意味を担うと考え得るでもあろう。数理的判断に於ては、数の体系が真の主語となり、色の判断に於ては色の体系が主語となるのである。(IV, pp. 178-179)

 色の判断を成立させるのは具体的一般者であると西田は明言している。とすると、我々が再考しなくてはならないのは「自己同一なる色自身」についての解釈である。それは本当に個々の概念と概念との差異・類的関係を指しているにすぎないのだろうか。そのような概念同士の関係のなかに「自己同一なる色自身」がおいてあるという構図になっているのだろうか。
 上の引用に「色の体系」という言葉が登場するが、実はこの言葉を用いて上の引用とほぼ同様のことを語っている文章が『自覚に於ける直観と反省』のなかにある。以下に引用しよう。

論理的意識の体験を基として論理、数理の体系が成立する様に、色や音の体験を基として色や音の体系という如きものが成立することができぬであろうか。物理学者には世界は力学の体系と見える様に、画家や音楽家には世界は色や音の体系とも見えるであろう。感官とは普通に全く受動的と考えられて居るのであるが、感官が物を感ずるというのも思惟の様に自発的のものではなかろうか、抽象的概念の形に於て考えられた感官的性質は何等の活力を有せぬのであるが、直接経験上の感官的性質は生きた力である、一種のアプリオリの内面的発展である、我々が感覚の発展といって居るものがそれである。感覚は外から与えられるものであるとか、肉体的感官の発達によって生ずるとかいう考は外物が感官の上に働いて感覚が生ずるという因襲的前提によって間接に考えたものにすぎない、直接経験の上では具体的一般者のおのずからなる発展と見做さねばならぬ。(II, pp. 86-87)

 「画家や音楽家には世界は色や音の体系とも見えるであろう」と西田は言う。「自己同一なる色自身」はまさにこのような「色の体系」なのである。とすると、それは単なる「概念の信憑性を支える「自己同一」」ではない。「色の体系」、「一種のアプリオリの内面的発展」と考えられるものにおいては単に概念が他との関係においてあるだけではない。色にはそれ自身の秩序があるのである。ピンクと赤の近さや、オレンジと黄色の近さ、またゴッホやフェルメールがしばしば用いる(「夜のカフェテラス」「カラスのいる小麦畑」、また「牛乳を注ぐ女」に「真珠の耳飾りの少女」)青と黄色の反対色の清冽な対比。こうしたことは単に概念を並べるだけでは分からない。色という感官的性質が直接経験の上で生きた力をもたないかぎり見えてこないことだ。「赤は色である」とは単に赤という概念が色という概念に包摂されるということだけを示すのではない。こうした具体的な色の体系のなかに赤という色がある、ということを示しているのである。色の体系をこのように見たとき、それは目の前の樫の机と同じように具体的で直接的である。それを具体的一般者と呼ぶのはなんら不思議なことではない。

具体的一般者とその背後

 だが筆者が異論をさしはさみたいのは単に「自己同一なる色自身」の解釈についてだけではない。具体的一般者について、小林はそれを「「純粋経験」に当たるものとして、そこから「分化発展」が生じてくるような「無の場所」」と解釈してきた。「具体的一般者すなわち「真の無の場所」」(小林, 1997, p. 103)とも彼は言っている。だがそれは正しいのだろうか。
 「左右田博士に答う」では、西田は次のように明言している。

私の場所というのは判断的知識の由って成立する一般者という如きものであって、それが具体的一般者と考えられるかぎり、尚主語的であり、対象的であるが、上にも云った如く、苟も判断的知識が成立するかぎり、具体的一般者の背後に反省的一般者がなければならない。(IV, p. 322)

 具体的一般者の背後にはさらに反省的一般者がなくてはならないのだ。そうすると「無の場所」「真の無の場所」とは具体的一般者をさらに包んだものとして考えなくてはならないのではないか。そう即断する前に「上にも云った如く」に相当する西田の言を引いてみよう。

場所が何等かの意味に於て判断の述語として限定せられ得るかぎり、即ち一般的なものが限定せられうるかぎり、我々の意識面に於て判断的知識即ち所謂知識が成り立つことができる。之を越ゆれば直観の世界に入る、私の真の無の場所というものはかかるものを意味するに外ならない。作用という考は「働くもの」に於て論じた如く、或限定せられた述語的一般者が判断の主語として考えられ得る場合に於て成り立つのである。更にそれが述語となって主語とならないと考えられた時、即ち単に限定せられた場所と考えられた時、それは意識面となる、故に意識面は、常に作用を包んだものである、具体的一般者を包む反省的一般者が意識面である。意志作用というのは、述語的一般者によって限定せられると云い得る最後の場所、即ち最後の知識の場所に於て、かかる場所をも越えた真の無の場所に於てあるものを見たものである。(IV, p. 316)

 具体的一般者と、それを包む反省的一般者=意識面、そしてさらにそのおいてある場所としての「真の無の場所」。西田が示すのはこの三層構造である。こうしてみると具体的一般者を無の場所として捉える見方はより一層否定されたようにみえる。
 だが決めつけるにはまだ早い。この三層構造は後に「叡智的世界」などで示される「判断的一般者」「自覚的一般者」「叡智的一般者」におおよそ相当するようにみえる。そうすると、ここで具体的一般者と呼ばれているものはその実判断的一般者だけを指しており(たとえば「場所」の次の論文「知るもの」では「具体的一般者」の語について単に判断的一般者、あるいは推論的一般者としてここでは扱っていると西田は注記している(IV, p. 324))、「そこから「分化発展」が生じてくるような」「総合的統一」の一部分しか指していないとも解釈できる。つまり判断的一般者としての具体的一般者と、それを含んだ「総合的統一」としての具体的一般者の二つの用語法がここで混乱を生んでいると解釈することができるのだ。
 実際、判断的一般者以外の一般者も後の論文では具体的一般者として考えられている。

叡智的世界といえども、概念的知識の立場から一つの具体的一般者の自己限定として考えねばならない。(V, p. 229)
自覚的一般者の限定というのも、一つの具体的一般者の自己限定として、之に於てあるものはその限定面に於て自己自身を限定せなければならない。その限定面というのが身体的世界と考えられるものであり、その場所というのが、直覚面と考えられるものである。(V, p. 304)
私はノエマ的限定としての判断的一般者とノエシス的限定としての自覚的一般者とを包み、之を基礎付ける意義を有する具体的一般者として行為的一般者というものを考えた。(VI, p. 157)

 自覚的一般者も叡智的一般者も、そして行為的一般者さえも、すべて「具体的一般者として」考えられている。
しかし「具体的一般者として」考えるとはつまりどういうことか。単に「判断の根柢にある」と説明してしまうと判断的一般者と区別がつかなくなる。「具体」とあえて言うということは「抽象」と対置して考えられているはずである。
 この「具体」と「抽象」について西田はこう述べている。

抽象的一般者は自己の中に自己の媒介者を含まない、即ち個別化の原理を含まない。是故に「於てあるもの」と「於いてある場所」との関係即ち所謂外延的関係のみが残され、之によって種と類との系列から成り立つ、分類というごとき概念的知識が構成せられるのである。之に於ては媒介的なるものは内包的関係として従属的となる、主語的なるものの相互関係とも見られるのである。併し真の概念は具体的でなければならぬ、具体的概念とは自己の中に媒介者を含んだものである、所謂個別化の原理を含んだものである。(V, pp. 60-61)

 抽象的一般者は分類的な概念に代表される一般者で、ここではただより特殊的な概念がより一般的な概念においてあるという概念と概念との関係のみが存在する。その外延的関係によって抽象的一般者は成り立っている。内包的意味は、概念と他の概念との相互関係においてその区別ないし共通点として浮かび上がってくるにすぎない。そうした概念の自己同一性が抽象的一般者の性格である。
 具体的一般者では、概念と概念との関係は単なる外延的関係ではない。外面的に概念と概念との関係があるのではなく、内面的に必然的に概念と概念とが結びついているのである。「色の体系」では赤とピンクの関係や青と黄色の反対色の関係は動かすことのできない必然的な関係であった。もっとも、西田が具体的一般者というとき、真っ先に考えているのは「此机は樫で造られている」というような判断の根柢にあるものである。この場合、机という概念と樫という概念それ自体に必然的な関係があるわけではない。机というものはプラスチックでつくられていることもありえるだろう。「実在判断に於ては、〔数理的判断や色の判断と違い〕その結合が偶然的」(IV, p. 179)と言われる所以である。だが、偶然的といっても二つの概念があって、それがたまたま結合したわけではない。判断を下す前の主語と述語に分割される前の概念が未分化な状態から見てその結合は必然である。そこから判断によって概念が分化してゆくこの必然的な「分化発展」こそ、具体的一般者にあって抽象的一般者にないという自己の内に含まれる「自己の媒介者」「個別化の原理」である。何かを具体的一般者「として」みることは、このように「分化発展」してゆくもの「として」みることなのである。
 判断的一般者も自覚的一般者も叡智的一般者も、分化発展してゆくものとして具体的一般者としてみることができる。このことは『善の研究』からも分かることだ。「此机は樫で造られて居る」と判断することも、そのように私は思惟しているということも、そして善を求め自己を実現することも、根柢に働く統一力の「分化発展」としてみることができる。
 こう解釈すると、具体的一般者を背後から包むものという箇所は単なる用語法の混乱としてみることができる。
 だが本当にそうなのだろうか。ここで西田の奇妙な文章を引用したい。

具体的一般の背後にも場所として抽象的一般を考えることによって、認識論的立場を維持したいと思う。(IV, p. 321)
叡智的自己を限定する知的直観の一般者といえども、具体的一般者としてその背後に之を包む抽象的一般者という如きものを考えることができる。それは絶対無の場所として、すべて有と考えられるものを限定するものでなければならぬ。(V, p. 251)

 場所、絶対無の場所としての抽象的一般者。明確に具体的一般者と区別された抽象的一般者として、ここで絶対無の場所は語られているのである。

「一転」の意義

 具体的一般者とはまさに「そこから「分化発展」が生じてくるような」何かである。そして無の場所とはそのような具体的一般者に対して「その背後に之を包む抽象的一般者」である。ここに「一転」の意義がある。論文「場所」にて次のように述べられる。

自己同一なるもの否自己自身の中に無限に矛盾的発展を含むものすら之に於てある場所が私の所謂真の無の場所である。(IV, p. 269) 

 「場所」を収めた著作の表題『働くものから見るものへ』とはまさにこの「一転」を示しているのである。
 「働く」。『自覚に於ける直観と反省』では自覚は「自己が自己に対して働く」とも表現された。だが「場所」の一転においては『働くものから見るものへ』の題のとおりにこの「働く」ということ、作用という考えがすでに主客対立を前提しているのではないかと疑問視される。知るということを「働く」として考えることはすでに主観から客観に働くということを前提しているのではないか。
 「場所」では次のように述べられる。

 従来の認識論が主客対立の考から出立し、知るとは形式によって質料を構成することであると考える代りに、私は自己の中に自己を映すという自覚の考から出立して見たいと思う。自分の内を知るということから、自分の外のものを知るということに及ぶのである。自分に対して与えられるというものは、先ず自己の中に於て与えられねばならぬ。或は自己を統一点の如く考え、所謂自己の意識内に於て知るものと知られるものと、即ち主と客と、形式と質料と相対立すると考えるでもあろう。併し此の如き統一点という如きものは知るものと云うことはできない、既に対象化せられたもの、知られたものに過ぎない。かかる統一点を考える代りに、無限なる統一の方向を考えるにしても同じである。(IV, p. 215)

 統一力のような「無限なる統一の方向」を考えたとしても主客対立の考えの外に出ることはできない。ここでは『善の研究』以来の純粋経験=活動的統一=自覚という一連の流れに対して「一転」が加わっているのである。「そこから「分化発展」が生じてくるような」何かをすでに対象化されたものとして見做す考えが生まれているのである。
 『善の研究』では「意識に於ては凡てが性質的であって、潜勢的一者が己自身を発展するのである。」(I, p. 57)と言われていた。また『自覚に於ける直観と反省』では「すべて我々の意識その儘の状態に於ては、全体が先ず含蓄的に起って己自身を発展完成するのである、即ち意識は潜在的全体が己自身を発展する過程である。」(II, p. 70) と言われていた。だが真の無の場所はそのような潜在的なものをも包む場所なのだ。
 真の無の場所とは何か。まず「有るものは何かに於てある」(IV, p. 225)。有るものとして、つまり何かを対象的に把握するためには必ずその背後にあるカテゴリーとか背景、コンテクストといったものをも理解しておかなくてはならない。しかしそれらも理解できるということは、この特殊-一般の構造をさらに包みこむような意識の野が存在するということである。これは有るものに対しては無である。しかし、この無なるものは有るものに対して無であるだけで、我々はそれを「理解する」とか「意識作用」だとかいうものとしてとらえることができる。それゆえこの意識の野はなお「対立的無の場所」と呼ばれることになる。この対立的無をも自覚することを可能とするのが、ここで登場する「真の無の場所」である。

併し作用の背後には尚潜在的有が考えられねばならなぬ。本体なき働き、純なる作用というのは本体的有に対して云われ得るのであるが、作用から潜在性を除去するならば作用ではなくなる。かかる潜在的有の成立する背後に、尚場所という如きものが考えられねばならぬ。〔中略〕真の場所に於ては或物がその反対に移り行くのみならず、その矛盾に移り行くことが可能でなければならぬ、類概念の外に出ることが可能でなければならぬ。真の場所は単に変化の場所ではなくして生滅の場所である。類概念をも越えて生滅の場所に入る時、もはや働くということの意味もなくなる、唯見るというの外はない。類概念を場所として見て居る間は、我々は潜在的を除去することはできない、唯働くものを見るに過ぎないが、類概念をも映す場所に於ては、働くものを見るのではなく、働きを内に包むものを見るのである。真に純なる作用というのは、働くものでなく、働きを内に包むものでなければならぬ。潜在有が先立つのではなく、現実有が先立たねばならぬ。(IV, pp. 218-219)
場所が無となる時、アリストテレスの現実が潜在に先立つ、形相が質料に先立つという意味が明になって来る、潜在的質料と考えられるものは、却って直接の現実的形相と見ることができる。右の如く、対立的無の場所に於ては、所謂意識の野に於ての如く尚一種の潜在を見るのであるが、更に真の無の場所に於ては意識の野に於ての如き潜在も消え失せねばならぬ、意識一般の立場に於ては意識現象も対象化せられねばならぬ、所謂意識我も之に於てあるものでなければならぬ。(IV, pp. 243-244)

 「生滅の場所」というのは後の小林敏明も指摘するように、生ずると共に消える瞬間としての今を指しており、西田が後に「永遠の今」と呼ぶものであろうと考えられる。小林は「瞬間は瞬間であることによって生と滅のパラドックスをかかえざるをえない。」(小林, 2013, p. 81)とこの事態を説明している。この「矛盾に移り行くこと」が「生滅の場所」と呼ばれている。「真の無の場所」とはこのような「永遠の今」である。

意識の背後は絶対の無でなければならぬ、すべての有を否定するのみならず、無をも否定するものがなければならぬ、時間上に生滅する意識作用が意識するのではない。意識は永久の現在でなければならぬ(IV, p. 232)

 ここの「時間上に生滅する」の「生滅」は対象的に見られた「生滅」で、「生滅の場所」の「生滅」とは意味が異なる。とにかく、絶対の無、真の無の場所はこのような「永久の現在」である。
 この「今」を捉えるために、潜在は「消え失せねばならぬ」のである。現在を「そこから「分化発展」が生じてくるような」何かととらえるのはすでに現在を現在以外のものからとらえているにすぎない。現在はそのような潜在である以前に、ただ「これ」としか言えないような顕在でなくてはならない。それも「これ」と言ったときにはすでに過ぎ去って、また新たな「これ」が顕在しているような現在でなくてはならない。このように顕在が時々刻々に新たな顕在に移り行くところに「矛盾に移り行く」「生滅の場所」が考えられるのである。
 「潜在有が先立つのではなく、現実有が先立たねばならぬ。」「潜在的質料と考えられるものは、却って直接の現実的形相と見ることができる。」とは、このような直接の現在をとらえるための表現なのだ。
 ここに何故無の場所が「抽象的一般者」として語られたのかの理由も明らかになる。当然、無の場所は考えられた抽象概念ではない。そういう意味では場所は抽象的一般者ではない。この辺りのことを西田はこのように述べている。

無論、媒介がないという点に於ては、抽象概念と我々の意識面とは相類するが、前者は媒介者を含まないという意味に於て無媒介であり、後者は媒介者を内に含み而も之を超越するという意味に於て無媒介と考えられるのである。又場所が場所に於てあると云う如く超越的述語面が直に自己自身を限定すると云うことは、媒介なくして直に与えられるものを見ると云うことであり、自己の中に自己同一なるものを見ると云うことであり、それが直覚の真の意義である。(V, p. 70)

 西田が場所を「抽象的一般」と考えるのはこの「媒介がない」という点においてである。それは「そこから「分化発展」が生じてくるような」潜在的一者ではないということを意味する。それは瞬間ごとに顕在する「媒介なくして直に与えられる」「直覚の真の意義」を捉えた表現なのである。
 論文「場所」ではそのような無の場所においてあるものを「純粋性質」と呼んでいる。

我々に真に直接なるものは、純粋性質という如きものでなければならぬ。それは心理学者の所謂感覚の如きものでないのは云うまでもなく、一瞬の過去にも返ることなき純粋持続という如きものでもない。純粋持続と云い得るものは尚時を離れたものとは云えない、更にかかる連続をも越えたものでなければならぬ。それは永遠に現在なる世界、真の無の場所に於ける有である。(IV, p. 247)

 このような意味での潜在から顕在へ、具体から抽象へ、作用から性質への一転こそが「働くものから見るものへ」の一転なのである。

「刹那」に回帰する「一転」

 以上にようにみてゆくと、これはまさに『善の研究』『自覚に於ける直観と反省』での流れに対する大きな「一転」である。だがこの「一転」は単なる「一転」ではない。むしろそれは二著作が内に秘めていたものに回帰することなのである。つまりこの「一転」とは『善の研究』で「事実其儘の現在意識」と言われ『自覚に於ける直観と反省』で「自動不息の此現在」と言われたものに徹することなのである。ここにようやく我々は「判断すら加わらない前」の謎に答えることができる。
 そもそも具体的一般者という考え方の利点は何だろうか。それは概念の未分化な状態から概念的知識の世界、思惟の世界までを統一的に考えることができる、という点である。「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たい」ともくろむとき、「判断すら加わらない前」の経験が純粋経験であるように概念を思惟する経験もまた純粋経験でなくてはならない。このように経験と概念の内面的関係を問題とするとき、概念や一般者というものを実際の意識から遊離した何かと考えることはできない。一般者はすでに意識のなかに組みこまれているのである。未分化なまま重なり合っているのである。そう考えるとき、単なる抽象的一般者は存在しないことになる。

無論、一般的なるものが特殊なるものを含むと考えるにも、一般的なるものが自己自身を超越すると考えなければならぬであろう。併しかく考えるのは、概念を考えられたものの如く見る故である、概念と意識を離して考える故である。直接には一般と特殊とは無限に重り合って居る、斯く重り合う場所が意識である。右の如く考えるならば、判断に於て真に主語となるものは特殊なるものではなく、却って一般的なるものである。全然述語的なるものの外にあるものは判断の主語となることはできない、非合理的なるものもそれが何等かの意味に於て一般概念化せられ得る限り、判断の主語となるのである。斯く考えれば、判断とは一般なるものの自己限定ということとなる、一般なるものはすべて具体的一般者でなければならぬ、厳密には抽象的一般者なるものはない。(IV, pp. 273-274)

 だが、このように実在を具体的一般者として把握することは、「今」という瞬間をつかむためには不利な点がある。「具体的一般者」式の考え方は「今」を概念の未分な不明瞭な瞬間として扱い、実在の重心をむしろその後の自発自展の活動の方に移してしまう。このように全体の方に実在の重心が移されてしまうと、「今」はかえってその部分に堕してしまう(『善の研究』の大部分で個人や今日の意識が単に考えられたものと扱われたのも、この故だろう)。「今」の確固としたインパクトは、活動的統一の全体にうすめられてしまうのである。

例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、此色、此音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。(I p. 9)

 西田は『善の研究』の劈頭で上の様に言う。だが『善の研究』を読み進めていくと、すぐさま純粋経験は「分析ができぬとか、瞬間的であるということにあるのではない。」(I, p. 12)と言い直される。純粋経験と聞けばすぐさま思いだされる上の文句は、『善の研究』における純粋経験の記述を追ってゆくとむしろ奇妙に浮いてしまう。だが、西田はあくまでこの言葉を掲げなければならなかった。経験を事実そのままに見るということはまさにこのような今、刹那を離れては不可能だからだ。
 しかし、西田は分化発展する活動的統一へと筆を進めなくてはならなかった。そうしなければ純粋経験はただの一時的で特殊な直観でしかなくなるからだ。だが自発自展、分化発展の考えは普通に考えられる時間的な経験にたやすく同一視されてしまう。それはたとえば、何か薄暗いところに物が落ちていて、目をこらしてそれを帽子だと判断する、といった具合の経験に。このような形で「判断すら加わらない前」から判断と概念の世界をつなぐ具体的一般者の活動的統一を考えてしまうと、「今」を見失ってしまう。実際には薄暗い闇の経験もそれ自体では自明な「今」であり、これについて思い悩む経験もそれ自体で「今」であり、判断する経験もそれ自体で「今」である。それぞれが確固とした「今」として面々相対しているのである。そしてそれぞれの「今」は自明なものでありながら、同時に「判断すら加わらない前」である。思い悩んでいると自ら判断し対象化される前の思い悩む経験、判断したと自ら判断し対象化される前の「この判断」と言うことのできない判断する経験。決して掴みとることのできない瞬間的な「今」はつねに「判断すら加わらない前」である。
 『善の研究』の冒頭の「判断すら加わらない前」の「刹那」はこのような到る所にある「今」として捉えなおされうるだろう。そしてもしこのように捉えなおすことが許されるとしたら、「分化発展」を「永遠の今」の内に畳み込まれた過去・現在・未来として理解しなおすことさえ可能かもしれない。「今」が「極限点」だとしたら、それは内に方向を含む「能生点」でなくてはならない。そのような方向として「分化発展」を理解することはできないだろうか。
 いずれにせよ、『善の研究』の段階の西田はそのような考えを明らかにしていなかった。「分化発展」は思惟や意志の過程として理解され、したがって結局時間的にしか理解されなかったのである。そのため純粋経験の「判断すら加わらない前」の「刹那」の意義は大きく打ち出されたにも関わらず記述全体から見ればうすめられてしまった。しかし、この「今」こそが『善の研究』の原点である「事実其儘」にほかならない。経験を「純粋」に「まっすぐ」見つめるとき、この「今」を離れることはできないのだ。
 純粋経験を「判断すら加わらない前」の経験と捉えるのは判断を純粋な経験に対する不純物のようなものと理解してしまわないかぎり、けっして誤読ではない。「純粋」に「まっすぐ」見られた「今」の経験が西田の念頭にあったからこそ、あの『善の研究』の冒頭の堂々とした文章が書かれ得たのである。ただし『善の研究』ではその意義が十分に展開されなかった。場所の「一転」はこのように見失われてしまった純粋経験の真意義を取り戻したところに意義がある。

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