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「いばら」の記憶

険しい道のりのことや困難な選択肢のことを「いばらの道」と表現することがある。

「いばら」という植物は存在せず、「のいばら」という美しい花を咲かせる植物が存在するのみ。「いばら」とは「刺(とげ)」のある植物総称として使われることが多いのだ。

身近な存在である「いばら」

気軽に立ち入ることができる里山であっても、刺がある植物は案外多い。ちょっとした気の緩みで衣類に穴をあけるなどということも間々ある。「いばら」と呼ばれる植物はそれほど珍しいものではないのだ。

しかながら、「険しい道のりだ」ということを強調したいときに使うことが多いように思う。身近で親しみやすい「いばら」というよりは、基本的には避けたいような滅多に遭遇しない困難という意味合いに使っているようだ。

いばらの道は、それほど珍しいものなのか?

いや、「いばら」はそこらじゅうに存在しているし、「いばらの道」も決して珍しいものではない。私はそう思う。

あの美しい薔薇ですら「刺」のある植物なのだ。

美しい薔薇には刺がある。楽な生き方を選べる人などいるはずもない。

「好きなことを」という選択肢の意味

楽しいこと、好きなことを仕事にしたいと格闘している人を目にする機会が増えるにつれ、楽な生き方などないなと痛感する。好きなことを仕事にするまでの道のりの傍らにも、ごくごくあたりまえに「いばら」があるのだろう。

それでも「好きなことを」と勧める人たちは、自分の決意があるから苦しいことでも乗り越えられるという意味合いで勧めているのだと私は理解している。

いい換えると、苦労を苦労と思わない、努力を努力とも思わない。そういう意味なのだと。

人はみな、自分に与えられた課題に必死に取り組んでいるのだ。私の人生観は、「いばら」が身近な植物であるということからも影響を受けている。そして、そのような意識で人と接していると、人の痛みや苦しみに敏感になるのだ。

誰かへの怒りで自らの身を焦がし、苦しんでいる人。

自分の不甲斐なさを責め続け、息も絶え絶えの人。

あげたらきりがないくらいだ。

異質な存在を「許容」するということ

生きていくというのは誰にとっても辛いこと。

そう思うから、もう限界だと思ったところからでも生きていける。そんな気持ちでいるから、私自身も運命を切り拓いていこうという勇気を持つことができるのだ。

だから、いろいろな人との関わりの中で、自分とは異なる生き方の「他人」を許容していこうという思いは人一倍強いつもりではあるが、全ての人を余すところなく許すということとは違うと思っている。

全てを許してしまったら、自分を傷つける人や社会を破壊するような人すら許さなくてはならなくなる。

わかりやすい罪ではないが、罪ともいい切れない微妙なライン「善悪の境界線上」にある事象も多い。それらを異質として安易に排除してしまうことは問題といえる。だが、それら全てを受け容れることが最善の策なのだろうか?

許容の程度を決めるもの

では、許す許さないの範囲はどこで決めたらいいのか。その違いはどこから来るのか。そんな私にヒントを与えてくれた映画がある。

カエルが空を舞うシーンが印象的で、それ以外の内容が頭に残りにくい点は残念であったが、じっくりと見ていただければ「ヒント」といってる意味が理解いただけるだろう。

敢えてそのヒントをシンプルに記すなら「良心」と呼ぶべきものだ。

しかしながら、その良心というものは都合よく玉虫色の変化していくので、しっかりとした判断基準にはならない。

おそらくは、許す許さないを決めること、その判断をすることすら長い人生の中では「いばら」の記憶になりえる。「良心」のあるものは「良心」を使うことが「いばらの道」なのだ。「いばら」の存在を身近に感じつつ、「いばら」の記憶を深く胸に刻んでいこう。

もしそれができないとしたら、単なる独善的な生き方でしかないのだから。

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