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「スキ」ボタンを押せない何か

「スキ」などのリアクションボタン。

プラットフォームやSNS等、それぞれに呼び方はあるが、何らかのリアクションボタンが標準で装備されている。

noteには、「#スキしてみて」というハッシュタグさえある。



このリアクションボタン。どのような基準でリアクションをするのだろうか?人によって、とてもバラつきが多いように感じている。

共感であったり、同意であったり、応援であったり。

多くの人がリアクションをしている投稿であれば、「リアクションをしている集団」の側の意見を支持しますという意見表明のように使われることもあるように思う。



私は比較的軽い気持ちでリアクションできるほうだと思うが、それでも押せないときがある。

それは一体どういうときだろうか。

いくつかの理由があるように思う。



第一に、何かよいことが書いてあるようだけれど、結局何を伝えたいのかわからない場合。

肝心なことを秘密にしたいからなのか「適宜濁してある」ため、こちら側の想像力に限界を感じるような内容になっている。

筆者は、上手に隠したと自負しているかもしれないが、もやもや感が残ってしまいリアクションができない。

具体的には、回想を匂わせる情景描写など芸術的な印象のモノが多いように思う。違う世界に迷い込んだような感覚が否めない。



第二に、世間一般で流行りのモノを取り上げてはいるが、私の興味の外にあることについて書かれている場合。

似たような体験をしていない読み手にとっては難しいなと感じる内容になっている。

筆者は、同じ興味を持っている人にだけ共感してもらえればよいという気持ちで書いているのだろうから、リアクションできなくても仕方ない。

具体的には、私の場合、音楽や漫画や芸能関係のモノ。バックグラウンドが違いすぎて頭に入ってこない。



最後にもう一つ。

誰かに対する「怒り」や「不満」が綴られている場合。ネガティブ感情の矛先がどこか判るときも判らないときも、モヤッとする嫌な感情を「分配」されるような内容になっている。

筆者は、感情をさらけ出し、書き綴り、スカッとした気持ちになり、あわよくばリアクションという共感を求めているのだろう。

具体的には、身近な人への不平不満、見知らぬ人への苛立ちなど。なんとも後味の悪い気持になる。



「スキ」ボタンを押せないからといって、書き手のことを否定しているわけではない。伝えたい内容、即ち、体験したこと、好感を持っていること、書き手が感じる喜怒哀楽のほぼ全てを肯定的に受け止めている。

だから、仮にリアクションを躊躇う場合であっても、読みましたという意図で「スキ」をするくらいの感覚のほうがよいのかもしれないのだが。

やはり、リアクションをするのなら、何かの「私の中での基準」を持っていたいと思うのだ。

「スキ」ボタンを押せない何かは、ある意味、私が私自身を探る鍵なのかもしれないのだから。

自分自身が抱く「躊躇う気持ち」を大切にしていきたい。

同じように、読み手が抱く「躊躇う気持ち」をも大切にしていきたい。



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