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今週の映画考察:パンズラビリンス

※重大なネタバレを含みます。

①パンズラビリンス/ギレルモ・デルトロ(2006)

 
 

 舞台は1944年、スペインは内戦真っ只中。(ピカソのゲルニカの時代。)父親を亡くした主人公は母親の再婚によって、義父となった大尉が居る内戦基地へと引っ越してくる。戦争、受け入れ難い冷徹な義父に囲まれた主人公は、ファンタジーの世界を夢見て現実から逃避していた。ある日守護神パンに出会い「君は地底の国の王女様だから、試練をクリアしたら地底に連れて行ってあげる」と囁かれた彼女は、その試練に熱中するようになる。  

今作のサブ主人公は義父の家政婦として雇われているメルセデス。彼女は主人公に寄り添ってくれる唯一の人であり心の支えだ。しかもメルセデスは義父が対峙する反乱軍に弟がいて、義父に対してスパイ行為を働いている。主人公は義父に心を開いていないため、義父に逆らっている彼女にはどこかシンパシーを感じているようだ。(母親は義父に従順に従っているため、主人公からするとどこか頼りない。)       

    メルセデスと母の対比


メルセデスはパンの話を聞き、「私も子供の頃は妖精とか、色んなものを信じていた。今違う。」と返す。
実際駐在軍と反乱軍で板挟みになってスパイをしている彼女には、夢を見る余裕なんてない。彼女は反乱軍に居る弟に対して、「あいつのために家事をしながら、反対ではこうやって裏切って、自分が分からなくなる。」と語る。彼女には自分を曲げてでも守りたいものがあるのだ。
ただ最終的にスパイ行為がバレてしまい、彼女はナイフで義父を刺して出来る限りの暴言を浴びせた後ギリギリの所で逃げ果せる。追いつかれた際には自死を選ぼうとしたが、やって来た反乱軍に救われる。
彼女にはうちに秘める信じるべき一つの思想があり、独裁的な男に一矢報いるためなら、自分の死をかけた行動も選択も迷わなかった

母親は主人公に「なんで再婚したの」と聞かれて「あなたも大人になれば分かるわよ」と返す。おそらく経済的な問題や子育てのことも考え、再婚を選んだのだ。決して主人公を軽んじたいわけではなかったはずだ。
だが母親は徐々に父親に従順で居ることを娘に強制しだす。彼女が「なんで言うことを聞いてくれないの?!お父さんの言うことを聞いて!おとぎ話も、魔法も無いのよ!!わたしにも、あなたにも!!」と叫ぶシーンでの主人公の顔は、恐怖と嫌悪に満ち溢れていた。
母には娘とこれから生まれる子供以上に守りたいものなどなかった。そのためにみずから、目を閉じて従順に男に従う人生を選んだのだ。

     

    メルセデスと主人公の対比


主人公が義父を嫌っているのは、彼の性格のせいもあるが、そもそも彼女は義父に出会う前から新しい父親を受け入れる気なんか無かった。
彼女はメルセデスや反乱軍が現実と戦う中、永遠とファンタジー世界への現実逃避を続けるが、少しずつファンタジーと現実が錯綜してくる。
最後の試練で彼女は新たに誕生した弟を義父から誘拐し、森の迷宮へと逃げてゆく。
そこでパンから弟の血を捧げるよう言われるが彼女はそれを拒否、義父に追いつかれて撃たれてしまう。
直後森から反乱軍が現れ義父を射殺、弟はメルセデスの腕に抱かれることとなった。
そして彼女は死にゆく夢の中で「無垢なるものの代わりに血を捧げた」として試練にクリアし、王女様になった。
彼女には別に義父に対抗する理由となる思想なんか無かった。ただ環境の変化が受け入れられなかった。
でも物語を信じたからこそ、結果的には愛した母が産んだ愛する弟を、冷徹な義父から引き剥がすことに成功した。
 
メルセデスは彼女の死を悲しみ、子守唄を歌う。だが主人公の顔はとても穏やかだった。
メルセデスにとって信じるべきものはファンタジーではなく、「人は平等である」という反ファシズムの思想だった。
それが無かった主人公は、おとぎ話で世界に抵抗したのだ。そこにあるのは現実逃避でもなんでもなく、「武器としてのおとぎ話」だったのでは無いだろうか。


         

       信条と救い


義父の支配的な態度はつまり、彼が属する独裁的なファシズム政権や父権制の象徴だ。彼の前では皆が、「目を閉じて従順に従う」ことを要求される。
母はそうした。 
メルセデスは目を閉じながら1つの思想を、弟率いる反乱軍を信じた。
主人公は目を閉じずに、ファンタジーの世界に浸かっていった。
主人公の行為は図らずとも義父への反抗として作用していた。それは最終的に弟を救う所まで辿り着いた。

人はいつも見たいものしか見ないし、信じたいものしか信じない。
義父も、スパイから「黙って従うなんてのはお前みたいな心のない人間にしかできないことだ」と言われているように、また更なる権力に従って、それを信じている。
戦闘中「勇敢なる死」と繰り返し話すのも、そうやって美化された戦争を信じることで、心のどこかを殺しているからだろう。
ラスト、主人公とパンが話している所を義父に目撃されるシーンで、意味ありげに「義父の視点からはパンが見えない」カットが入るのも、興味深い。

おとぎ話を信じてあの世で王女様になった彼女は、不幸だったのだろうか。少なくとも"あの状況下においては"目を閉じて父親に従うより幸せな結末だったのではないだろうか。

「信じたもの」と「起きたこと」の狭間で私たちは生きている。
その時「今後自分に起きること」にとって都合がいいものを信じることが出来たなら良いけれど、中々そうもいかず、やっぱり信じたいものを信じるしかなくなる。
それを信じた結果悪いことが起きるかもしれなくても、信じない世界より、信じた世界の方がよっぽど良いはずだから。

この映画は監督のファンタジー愛が強く反映されていると感じる。ファンタジーというジャンルはどこか子供向けで、現実逃避だという野次を受けることも多々ある。
主人公は過酷な運命に立ち向かうためにファンタジーを信じた。
最初はただの自己防衛だったかもしれないが、最終的にはそれに命や人生をかけて救いを求め信じ続け、結果自らの死すら受け入れた。 
彼女はファンタジーでしか救われない。母からの愛も……義父に従ってる女からの愛は本質的には彼女を救ってくれない。亡くなった父親を含め元の家族の形を求める限り救われない。

主人公以外の人間に彼女の見ていた世界は見えていなかったし、全部彼女の妄想だった可能性は非常に高い。ただ彼女の死後、映画の最後で、ナレーターがおとぎ話を続けてくれる。

「王女様は自分の家族と幸せに暮しました。
そして王女様は、元いた世界に、自分がいた印を残しました。
注意深く生きていれば、それを見つけることができるかもしれません。」
(主人公が居た森の木の根に、小さな花が咲く。)

この最後のナレーターは、監督本人であると感じる。
「ファンタジーでしか救われない人達へ。信じたいのなら、あなたのそばにある花を、この花であると信じてください。あなたが信じたものが、あなたの世界を作るから。」

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