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「After Life」観劇後 感想(千穐楽前)

上田竜也主演の舞台「After Life」の感想。

2021年の「Birdland」以来2年ぶりの今回の舞台は、もともとは日本の映画「ワンダフル・ライフ」が軸としてあって、イギリスで舞台化、それが日本の舞台として逆輸入されて戻ってきた作品。

私はたっちゃんの舞台でのお芝居を観るのが大好きで、
特に海外の戯曲がベースなんて絶対似合うだろうなって思ってて、ずっとずっと楽しみにしてた。

想像以上だったな。とっても良かった。
観劇して1週間以上経ってしまって、正直記憶が朧気な部分もあって。
でも明日の東京千穐楽、私にとっての最後の観劇を前に思ったことを書き溜めておきたくて、自分のメモとパンフを読んで感じたことを中心に書いていきます。
※台詞の言い回しやセットの描写は相当曖昧です。

舞台が始まる前に発売された雑誌のインタビューではたっちゃんは「にこにこするのが大変」みたいなことを言っていて、その時点では終始穏やかな役柄なのかなと思っていたからこそ観劇して動揺した。

2番(たっちゃんの役)、めっちゃ苦しむしめちゃめちゃ泣く。
この日、最前ドセンというとんでもない席で演者の方の表情もじっくり観られたんだけど、たっちゃんが泣く時耳が真っ赤だし鼻も出てたし、すすり泣くとかじゃなくてむせび泣く感じで、人から発せられる熱量をダイレクトに浴びて終わった後しばらく放心状態だった。

こういう、言い方悪いかもしれないけど命を削って燃やしている瞬間を生で観られるのが舞台の醍醐味の1つなんだろうな、と最近舞台鑑賞の楽しさが分かってきた気がする。

今回の舞台は死後の世界の「センター」の職員5人と、センターにやってきた死者の1週間の物語だけど、身体は亡くなっているけどまだ魂まではなくなっていない、本当に「向こう側」にいくまでの最後の1週間、だから「After Life」なんだろうな。

向こう側に行けた人たちはその証拠として靴をセンターに残していくけど、あの演出にはどういう意図が込められていたのかな。私があの情景を見て浮かんだのは、ドラマとかでたまに見る「自死をした人が靴を揃えて置いておく」描写だった。
少し調べたら「あの世に行く時はお家に入るように靴を脱いで上がる」みたいな説もあったけど、靴を脱ぐ習慣のないイギリスではどんな演出だったのか含めて気になったな。

死者たちはこの1週間で「最高の思い出」を選んで、センターの人たちによって再現してもらって「向こう側」へ送り出される訳だけど、これって相当過酷だなって。

どんな亡くなり方をしても、誰もがこの1週間で自分という人間と向き合って考えて考えて、何かしらの答えを自分で出さなきゃいけない。
5番がオバフェミに対して「ここには裁きなんてない」というような言葉を放ったのが印象的だったな。殺人犯との対話を盛り込んだのもこの言葉の意味を際立たせるためだったのかもしれない。

裁きを受けるなんて、他者からの指示を仰ぐなんてできない。自分で自分に決着をつける期間なんだと思った。

結局オバフェミはその上でセンターに残ることを決めたわけだけど、1番、5番が見放さずにいたから、彼も最後は自分から逃げずに自分で決められたんだと思う。同じ場所にいるのでも、どういう過程でそこにいるかで、きっと心のあり方も大きく変わってくる。

世の中をやっと知れるようになった時に病気になって、他者からも「病気の人」として接されるようになって、思っているように自分を見てもらえず、自由にも動けず、もしかしたら楽しい思い出だってあったかもしれないけど、それ以上に生きている事を感じなかった人生だったかもしれないな、なんてことを考えた。死んだ後にはなってしまったけど、自由に大きく動いて、生きる実感をセンターで感じられると良いな。

限られた時間の中で自分の中に答えを出すことは勇気のいることで、誰かに正解を求めたくなる。
やたらと人の顔を伺って、言ってしまえば当たり障りのない思い出をそれっぽく話すジルの気持ちがなんとなく分かった。多分自分ももともとはこういう人間だから。
正解を出したいと言うより、多分間違えたくない。間違って、人にがっかりされたくない。生きている時もそんな子だったのかもしれない。

4番からの最初の思い出に対する言葉は乱暴ではあったけど、最後は誰かから正解をもらうんじゃなくてジル自身が納得できる思い出と気持ちに辿り着けて良かったな。

1週間の主軸は死者に向きがちだけど、この舞台の主役が2番であるように、センターの職員の1週間の物語でもあって。

物語が進んでいくにつれて、思い出を「選べなかった/選ばなかった」人達がセンターに残っているという事が分かる訳だけど、舞台を観る前はセンターにいるのもありだななんて思っていたけど、そんな単純なことじゃなかった。

本来だったら他の死者と同じように思い出を選んで向こうへ行くはずだったのに、選べなかった人たち。

2番は主役という事もあって彼のバックボーンは描かれていくけど、それ以外の人たちはほぼ分からなくて。でもきっと、それぞれ悲しみや苦しみを抱えてこの場所にいるんだろうな。

「お酒臭い?」って少し震えながら聞く1番や、お父さんの背中の思い出を語る4番。オバフェミに、自分がなぜここにいるのかを自虐のようにほんの少しだけ触れる5番。3番は正直分からなくて。明日観たらどこかで感じ取れるかな。自分の中の1つの課題。

死者達に寄り添って、対話をして心の奥底の気持ちを掬い上げて昇華させる。同時に、仕事をやり遂げた分、自分はそれができなかったという事実を突きつけられる。そしてその事実とひたすら向き合わないといけない日曜日。その繰り返し。

結局、あの頃に1週間で思い出を選べなかった彼らは、その後もひたすら自分と向き合わないといけないんだな。そういう意味でも残酷な1週間だなと思った。

2番が最後、このセンターでの思い出を持って行くと告げた時、「センターでの思い出はあなたの人生じゃない」みたいなやりとりがあって。
確かにそれはそうで、あくまで死ぬ前までが自分の人生で、名前も番号になるここでの生活は本来の自分ではない。

でも2番はモチヅキと出会って、心から思っていた、でも恐らく自分の器の小ささで自ら手を離してしまったケイティとの思い出にも向き合うきっかけになって。
2番にとって自分が死んだ後に出会った自分の知らないケイティとモチヅキとの思い出を聞くのは残酷で辛くもあっただろうけど、そこから逃げずに、対外的には人当たりの良い雰囲気を出しながらも恐らくずっと暗闇の中で蓋をしていた2番が、ようやくしゃんとできたんだと思う。本来の自分とセンターの自分が繋がった瞬間。

思い出を完全にコピーすることが目的ではなく、その先にある湧き上がってきた気持ちがその人の本質で、そこを掬い上げることがセンターでの作業の目的。
ベアトリスも、暗闇にいても探し出してくれるお兄さんとの心の繋がりを思い出せたから、最後にしゃんとできてあのダンスの思い出と共に向こうに行けたんだろうな。

2番がセンターでの出来事を自分にとって1番意味のある思い出として選んだことは、1番、3番、4番、5番にとっても救いだったんじゃないかなとも思ってる。

思い出を選べずに苦しみを抱えながらセンターに居続ける自分たちが、誰かにとっての景色の中に選んでもらえたって言うのは、今の自分にも存在する意味があったってことで。

人生って小さな選択の連続で、それが積み重なって自分という人間が形作られていくんだと思うし、最後は自分がどう生きてきたかの証になるんだと思う。
何を軸として生きるか、何のために生きるのか、生きているときに気づけることなんてきっとあまりなくて、だからこそ自分に問い続けないといけない。そんなことを思わされた作品だったな。

舞台って観劇後にいつもいろんなことを考えて頭がふらふらするけど、この行為は嫌いじゃないな。もっといろいろな作品を観てみたい。

まずは明日の東京千穐楽を目に焼き付けてきます。
どうか皆さんが無事にやりきれますように。




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