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アラン・シリトー「長距離走者の孤独」

 図書館で集英社ギャラリー「世界の文学5 イギリスⅣ」より

 自分がスミスだったら。僕は今日、また自分への誠実さというものを大切にすることを怠った。素直に話してしまったんだ、何が嫌いで何が好きかを。かろうじて言えたことといえば、あんたの期待には乗れないよということだけだった。それが、遅かれ早かれ、何にたどり着くのかは、感化院ではないから決まってない。

 ああやって話す場が設えられたという文脈をもっと考えてみよう。そしてわれわれにとっての太鼓腹の出目金野郎と、われわれの内にある出目金野郎のことを。

 最初っから走るのは好きだったか?答えはNoだろう。たしかになんぼでもどこへでも歩いてきた。だってお金がないから。嫌いではないか?答えはyesだろう。昔っからどこへでも歩いて走ってきたから、当たり前のことなんだ。

そう悪くないぐらいは最初からわかってたんだ。p209

 長距離レースに出るために走り始める理由は曖昧であってもいい。きっかけが太鼓っ腹の出目金野郎な院長の「誠実」な思惑があったとしても。マラソンの練習は早朝。走ってみたらこの世で最初の人間みたいな気がしてくる。そう思うと気分が良くなる。スミスは走りながら語り続ける。走り続けることが、考え続けることを助けてくれるからだ。走り始めた時の曖昧な走る理由は、確信的に自分のためになる。
 自分への誠実さを最も大切にするスミスにとって、走ることが誰かの為だったり「お前のためだよ」と言われたりすることは絶対にダメなのだ。他人が彼の筋道を通すことを妨げるくらいなら、彼は死んでもいいと言ってる。

「もし有法者たちが、俺の悪さを止めたいと思っているなら、時間の無駄と言うものだ。いっそのこと俺を壁の前に立たせ、一斉射撃でやってくれた方が気が利いていると言うもんだ。」p207

 スミスの人生観

スミスはちょっとやばいやつかもしれない。スミスの年齢の頃、ぼくは他人の評価を気にしすぎて、他人の評価=やりたいことに転換していた。スミスみたいな人生観はどこで手に入るんだろう?

 スミスはこう言う

「それに引きかえおれは、いつでもちゃんと知っているんだ、うかつにもいい気になってひろげた楽しいピクニックを、大きな靴がいつなんどき踏みつぶすかもしれないってことを」p213

 スミスの人生は、全く予期せぬことばかりで、不条理にあふれていたんだろうね。こんなことが起きてばかりの人生であれば、他人には到底期待ができない。決めるのは自分しかいないという、鉄の誠実さは、むしろ他人のことを全く諦めきった態度だと分かる。終盤にはこうも語る

「この決心をつらぬいてやるぞ。おやじが苦しみをこらえ、医者どもを階段の下へ蹴落としたみたいに」p237

 自分が決めたことと、人生のあり方を苦しみながら貫徹することについて、僕ならあんまりにもできないと請け合おう。いつだって「あ、やっぱり今のなーし」というやつをやりたい。目の前に、残り半年の感化院生活の待遇が改善するのならなおさら。
 
 スミスは可哀想な対象か?ちがう。なんて言ったって、じぶんの救い方を知っている。いま、不条理は当たり前だと思っていて、静かにひっそりと生きるスミスみたいな人のことを思い出した。ただ不条理に叩かれるままの人を助け出そうとして、わたしは裏切られたことがある。あの人は、自分の救い方を知っていたのだろうか。

 そう、こんなにスミスを理解したつもりになってもスミスの心には1秒も触れられない気がする。寄り添うことはできないし、正すことはもっとありえない。どこかに嘘が紛れ込み、じぶんで溝をつくりだす。「共感」や「憐憫」、「ありのままでいい」と、いくらこちらが思ってみても、「誠意」を見せようとする人間のひとりごちだ。何にもわかっちゃいないと、引っ叩かれる。あるいは太鼓腹の出目金野郎のように、ゴール手前で壮大な裏切りにあう。

 裏切られた瞬間にまた期待したことに気づく。でもスミスに何ができた?何か働きかけるこができる、と思うところからして深くて仄暗いクレバスがずっと向こうまで広がっているのかもしれない。社会も他人も諦めきった人たちと、自分の間に。

俺にもクロスカントリー長距離走者の孤独がどんなものかがわかってきた。俺に関する限り、時にどう感じまた他人が何と言ってきかせようが、この孤独感こそ世の中で唯一の誠実さであり現実であり、けっして変わることがないと言う実感とともに。p231

追記

でも、もしも僕がスミスだったら、このクレバスの広がりがあるってちゃんとわかってるうちは、ずいぶんと安心することなのかもしれない。出目金野郎はしばらくこっちに渡ってこれないぞってね。渡れると思ったらきっちり教えてやろう。
明日は、少しは大丈夫な気がしてきた。

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