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都会で生まれ育った‘’半角カタカナおじさん‘’の地方移住は、ハードゲームなんじゃないかい

あんなにワクワクした
ゴールデンウィークも気がつけば残り2日。

大型連休も終盤にもなってくると喜びなどは跡形あとかたもなく消え去り、
そこには言いようの無い切なさと虚無感きょむかん、絶望感だけが残るようになってくる。

あーあ。
こんなに楽しかったGWも次に会えるのは一年後なんだね。

そう心の中でつぶやいて別れをげる。

このわびしさにさらなる追い打ちをかけるように、ボクは今、右手親指の付け根が痛み、明日への希望さえも持てなくなるほどに途方に暮れている。

朝起きてから、
ぐるぐるっと親指の付け根を回転させてみると、ピキンと戦慄せんりつの痛みが走るのだ。

なんなんだ、これは?
と、しばし手を止めてから数日間の記憶に思いを巡らせてみると、
呆気あっけなく答えは見つかった。

なんのこたーない。
昨晩、無我夢中で子どもたちとマリオカートをやったんだわ。
ムキになって右手親指でアクセルボタンを強くプッシュし続けた結果、指の付け根のコリコリが腱鞘炎けんしょうえんになったのだろう。

アラフォーおじさんがナンとも情けない。

しかしな。この痛み、尋常じゃないわな。
今こうしてタイピングをしていてもどうも気になって仕方がない。

この記事は、Macで作成している。

先ほどから、両手親指を 駆使くしして中央下部にある「英数」「かな」ボタンを切り替えながら文章を作成しているが、

ゲームで負傷した‘’右手親指‘’を動かしてタイピングするたびにピキン、ピキンと痛みが走る。できるものなら親指を使いたくない。

Windowsオンリーの使い手には分かりづらいかもしれないが、Macには、Windowsの左上にある「半角/全角ボタン」がない。
その代わりに「英数」「かな」ボタンがあるのだ。

実際に使用中のMacキーボード

Windowsが「半角/全角」をおすたびに
英数→かな→英数→かな・・・と
ぐるぐる切り替わるのに対して、

Macの「英数」と「かな」を押すやり方は、
文字通り「英数」を押すと英語、「かな」を押すと日本語になる。

仕事でWindowsを使うボクは、いつまで経ってもこの違いに毎回戸惑ってしまう。
半角カタカナにいたっては、Macで入力可能にするには初期の‘’無効‘’から‘’有効‘’にわざわざ設定を変更してやらなければならない。
(アップル社製品はiPhoneも含めて基本的に半角カタカナは非対応である)

そこで、ふと思った。

現在の若い世代は
いきなりMacやiPhoneから使い始める人も多くいるが、そういう人に「全角」「半角」といっても意味がわかるのだろうか?

PCを古くから使っている人や、
Windowsを使用する人は、
半角・全角の違いは‘’常識的‘’に理解をしているであろう。

しかしPCを全く使わない人、Macしか使わない人には、その経験則が少ない。そうなるとその人たちにとっては半角カタカナの入力は‘’常識‘’ではないのだ。
使う機会がないのであれば、分からないこと自体は変じゃない。

2008年頃、カップラーメンの値段を「400円くらい」と答弁した当時の首相が庶民感覚ではないと批判されたが、
自ら買って食べる経験をしていなければ、値段を知らなくとも別に変じゃない。

常識は、知る機会に依存する。

自分にとっての常識は、
自分の半径5メートルの当たり前で決まる。

周りの人が当たり前にやっていることが、
その人の‘’知る機会‘’となり、常識となる。

ナニにしても自分の身の回りにないものや、知る機会がなければ、世にあるたくさんの‘’常識‘’なんてそもそも身につけようがないのだ。

田舎と都会では、‘’常識‘’が異なる

田舎でのスローライフ、都会から離れて広い庭付きの家でのんびり在宅勤務と考えて地方移住する人たちの数が、脱コロナの明るいきざしがみえ始めた今でも増加傾向にあるという。

いいことである。

たしかに、今なおテレワークを継続できている企業は、もはやそのビジネススタイルが確立できたとも言えるし、
そこで働く従業員は、生活費の高い都会で無理して生活する必要性がなくなったと言えるであろう。

しかし都会で生まれ育った人が
初めて地方移住するときは、

「自然が豊かだから」「癒やされるから」「都会に疲れたから」

という理由が大きなウェートを占めているのであれば、
ボクからはハード面の住環境だけでなく、
ちゃんと‘’横のつながり‘’を調査してからのほうがいいよと、
上から目線ですまんが、そんなアドバイスを送っておきたい。

ボクは18年間田舎に、24年間都会で過ごしてきたが、田舎と都会ではそもそも常識じょうしきが異なる。

「都会は窮屈だから、田舎でのんびりしたい」

その気持ちはよくわかる。
しかし、田舎には都会とは別の意味の‘’窮屈さ‘’がある。

田舎では、横のつながりを大切にしなければならない。「人情味あふれる」と言うとそのとおりではあるが、一回会って相性が合わなかったからハイさようなら、という都会的な接し方は基本的にNGである。

というのも、田舎は人と人のつながりがものすごく強いからだ。
ちょっとしたことがすぐに噂になる。

たとえばアイツとコイツが今、喧嘩をしてるとか、離婚したとか、結婚したとか、子どもはまだとか、退職してあそこに勤めてるとか、、、
クソほどどうでもいい他所様よそさまの話で日々盛り上がる。

気がついたらアッという間に
‘’知り合いの知り合い‘’にまで、そういう噂が知れわたっていく。

だから学生時代のボクの恋愛は、ハードなゲームであった。
田舎で「ふられる」ということは地場での「評判を失ってしまうリスク」が高いのだ。「大都市の匿名性」に守られない田舎では、「立つ鳥あとにごさず」とまでは言い過ぎかもしれないが、ケチがつかないように異性には別れる間際まぎわまで慎重に接していく必要があった。

都会は人混みの‘’窮屈‘’、
田舎は干渉される‘’窮屈‘’

それぞれもつ意味合いが異なるが、生きていく上での‘’窮屈‘’さは、どこにいっても完全には開放されることなんてないのだ。

中でも、都会に出てきてから
ボクが住んでいた田舎を客観視したときに、
最も特徴的な風習だったと感じるのは

葬儀における「働き」である。

都会の人は知っているだろうか。
都市部で葬儀をり行う場合、家族や故人の意向を中心に葬儀社と葬儀の方針について決定する。

しかし、田舎の場合は、その葬儀方針の打ち合わせに近隣の関係者が加わって「仲間」としてり行われるケースが多いのだ。

家の者がいない状況で近隣の人が、自分の家を自由に動き回ることなど都会の人には想像すらできないかもしれないが、

まとめ役の人が当家のキッチンを我が物顔で取り仕切り、食事から掃除、留守番、湯茶接待など受付から各種手配、「これをお願い」「あれを頼みます」と近隣住民に指示を出して動くのだ。

「困っている時には近隣同士で助け合う」
という遺族への惜しみない心遣いである。

当然ながら結束が最も試されるこの葬儀における「働き」への協力はほぼ強制である。万が一にも、こういったコミュニティから無断でハズれるようなことがあれば、
それはもうたちまち悪評が立って、下手すれば家庭のゴミすらをも出せなくなってしまうのだ。

まさに横のつながりを大切にする田舎ならでは‘’常識‘’である。

「田舎のどっぷりな人間関係に浸りたい!」と考えている人であれば、無条件で田舎への移住は向いているだろうが、

都会で生まれ育ち、都会しか知らない人は、
未知の世界に‘’応募‘’する姿勢は大いに賛成だが、
移住は失敗が取り返しがつかなくなる可能性があるので、田舎ならではの風習、常識をしっかり調査し、理解した上での移住をするようにと、田舎のパイセン大先輩としてアドバイスをさせて頂きたい。

多様化される世界では、知らない常識を知りにいく行動が必要である。

一般的に見て‘’常識はずれ‘’に見える行動も、周りの人が当たり前にやっていたら、その人にとっては「自分の周り」が常識となる。

一方で、一般的に見て‘’常識‘’の行動であっても、「自分の周り」から知る機会がえられなければ常識だと認識することができない。

そう考えると、ボクたちが「知っていて当然」だと思う「常識」の守備範囲は、意外にも狭いのかもしれない。

いま、ふと会社のメールを確認すると

お世話になります。
先日、お話したプランですがいかがでしょうか。改めてゴールデンウィーク明けに一度、お時間頂けないでしょうか。

またこのオジサンこれだわ。
内容はともかく、

…なぜ半角?

タイピングして変換押せば、全角カタカナが上位候補に出てくるのに、どうしてわざわざ半角‘’カタカナ‘’をかたくなに採用するのか一般的には不思議で仕方がないのだが、

おそらくこのオジサンにとってはカタカナを半角にするのが常識だと思っているし、もはやその‘’常識‘’を懐疑的にみる気はないのであろう。

これからの時代、こういう人は取り残されていくんじゃないか。
と、ボクは思っている。

いまは嗜好が多様化し、キャリアの築き方や家族のあり方などもどんどん変わっている。そして若者を中心に、SNSを使ってどんどん異文化のものを吸収していっている。

新しい価値観を取り入れるためには、やっぱり今まで接してきたことのない人が話しかけたくなるような柔軟性や、多様化する領域に対して謙虚けんきょに知る姿勢や理解力を身につけていく必要があるのだ。

慣れた環境で心地よい承認の中だけにいると、世の中とずれた価値観が自分の中に根付いてしまうかもしれない。

新しい領域の‘’常識‘’を理解し、
SNSやブログで発信チャネルをつくり、
賛同いただける仲間をどんどん増やしていく。

そうして得た知識を全てかけ算していく。

するとどうだろう。
ものすごい‘’富‘’が生まれるのだ。

noteを開始してちょうど一年。
noteではクリエイターの個性、もっている知識、常識まで文章から伝わってくる。
多様化された概念を気軽に知れるという意味においてnoteは最適ツールなんだよね。

皆様、これからもたくさんの発信をよろしくお願いします。

なんて、我ながらキレイすぎるフレーズの残尿感ざんにょうかんの凄い終わり方で、心底びっくりしてます、はい。

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