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自分の欲望に達するまで途方もない距離がある


「やりたいと思うことをやらない意味がわからない」
その言葉に、確かに、ってストンと納得した。
ストレートに、シンプルに、至極真っ当なことを言われた。無駄な言葉が何一つなかったから、何も滞ることなく私の胸に落ちてきた。

でも、落ちてきたはいいものの、それがすごくすごく重さがあることを感じた。
重すぎて、受け止めることが苦しくなった。
息ができなくなりそうで、どうにかしてどこかに投げたくなったのだ。

ただ、重いからなのか、投げないほうがいいと本能が言ってるからか、それはまだ私の心にのしかかったまま、動かないで滞在していらっしゃる。
どうも居心地がいいのか、こちらが居心地良くさせているのか、当分どこにも行かなさそうなことだけ、経験上わかる。

「仕事に悩んでいるから話を聞いてあげて」
と、紹介される私

「何がしたいの?」
と、よくあるけど、シンプルだからこそ言語化が難しい質問をされる。

「まだざっくりなんですけど、クリエイティブなことがしたいんです」
と、クリエイティブの定義とは?が認識のすり合わせをしていない人と話すと、どんなこともクリエイティブな要素があるからそれじゃ流石にわからなさすぎるだろ、とほくそ笑むに最適な模範回答をした優等生な私。

「今はイラストが好きで描けるから描いているが、アウトプットとしてイラストにこだわりはなくて、文字でも音でも映像でも何でもいいから、表現がしたいんだ」
と、ほくそ笑まれたことに焦ってもっとイメージを伝えなきゃと何かしらを発現したものの結局具体的ではないため、より一層相手のほくそ笑みを生む私。

「やりたいことがあるのになぜやらないのかわからない。」
この一言。1文字も無駄のない、自分と相手の価値観が異なることをはっきりと示す、シンプルな疑問をもらった。

正直、この時私は悲しみと苛立ちが同時に沸き立った。
行動してないことを心のどこかで気づいていたことが現実になり突きつけられたという怖気付きたくなるような不安に似た悲しみと、私のことちゃんと理解してもいないくせに決めつけたように言うなよという承認欲求からくる怒り。

「いや、でも、」
と、その弱い生々しい自分の姿を誤魔化すために反論しようとする私。
何度も反論のために、いや、いや、という言葉を使った。
偽りのない自分の姿を受け止められない惨めさや情けなさが、反論を重ねるごとに自分にグサグサと刺さって痛かった。

もっと今の心境を詳しく話せば
もっと今考えてることを具体的に話せば
もっと今考えていることの背景を話せば
もしかしたら、未来に進むための答えとなる指針をもらえるかもしれない
もしかしたら、やらない位置がわからないと言う発言を撤回し自分の今の状態を正当化できるようになるかもしれない。
そんな期待と反発心を込めて、反論していた気がする。
結局は人に答えを求め自分を正当化しようとしているのだと心の底ではわかっていたから、彼の言葉はその時の私には重く感じてしまったのだ。

わかる、のに体が動かない
わかる、からできないのかもしれない。
でも、わかる、と、できる、は違う。
言葉で整理すると、相手の発言はわかるから当たり前だよなと思えている。
ただ、上記のような思考を長年し続けて思考の癖がいまだに抜けない(抜けるのかすらわからない)から、当たり前のことをやることが、今の私には難しいのだ。
頭で理解できることと、それを行動に移すまでには、2拠点しかないから簡易的に見えるのに、途方もない距離を感じてしまう。
これは、当たり前だと思うことはイメージが具体的なできている分、イメージという虚構が邪魔をして勝手に距離を遠くさせているのだろう。

「持たざる者なんだから、とにかく手を動かして何かやらないと、何もわからないでしょ。とにかく動くことだよ。」
これは、言っている言葉の意味はわかった。
けど、それをどうやってやるか、やったらどうなるか、未知すぎてイメージができなかった。
イメージができないからこそ、逆に不安がなく、心に軽くスッと入ってきて、やらなきゃと体が動かすよう働きかけてくれた。
行動までの距離が近い。すぐにできそう。


とにかく、目の前に集中して、やれることをどんどんやっていくのが吉だと予感している。
わからない、は素晴らしい。イメージすることを放棄できて、余計な不安をなくしてくれる。

思考と行動の距離を近づけて、ひたすらに、どんどん、作品を作っていこう。

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