【小説】虹をかける

職場近くの街中華は、量が多い。皿に散らばる炒飯の粒をレンゲでかき集める。最後の一口はお茶碗一杯分に相当するんだよね、というナナコの冗談を思い出す。
背中から聞こえてくるワイドショーが、近くの山道での事故をのっぺりとした口調で伝えてくる。バイクが横転、転落、後ろに乗っていた女性は病院に運ばれたのち死亡が確認され、運転していた男性は意識不明の重体で……
気を抜くと逆流しそうになる炒飯を水で流し込み、会計をする。ありがとうございましたーという声を背に店の外に出ると、もわっとした六月の空気が俺を包み込んだ。深呼吸をして、空を仰ぐ。

虹。雨上がりでもないのにかかっている虹に、俺はもう違和感を抱かなくなっていた。遠くを見れば、水分をふんだんに含んだ空気の向こうにひとつ、またひとつといくつもの虹が見える。

「あ、すみません」
俺の後ろの中華屋から出てきた男性と肩がぶつかり、反射的に謝罪する。男性はこちらに見向きもせずスマホを取り出すと、画面を操作して耳に当てた。その途端、男性の足元から空に向かって、カラフルな光の筋が伸びた。こうなってから、何度も見た光景。光の筋は、男性が手を振る方向に向かって弧を描いていた。光の筋、つまるところ小さな虹のその先には通話の相手なのだろう、友人と思わしき男性が、同じように手を振っていた。

おかしな話だ。いつからか、虹が見えるようになった。電話をかけるとかかる虹が。

スマホを見ると着信があった。20分前、同僚のヤマダからだ。通知を開き、電話をかける。呼び出し音が鳴り始めたと同時に、俺の足元から空に向かって虹が伸びる。足元にある半透明の虹のふもとに、なんとなく足先を伸ばした時のことだった。
こつん。
俺の爪先は、意外にも確かな質感を捉えたのだ。幻覚だとしても、虹は虹、ただの水分のはずだ。恐る恐る脚を伸ばし、虹の上にゆっくりと体重をかける。一歩、一歩と踏みしめてみる。歩ける。電話口からはヤマダの声が何かを言っているようだった。しかし、俺の意識はまったく別のところに向いていた。

もしかしたら。

段々とボリュームを上げるヤマダの声を無視して電話を切り、震える手で電話帳を素早くスクロールする。
『渡辺菜々子』
文字を認識する前に、右手が止まった。通話のアイコンを押す。ナナコが電話に出ないことはわかっていた。呼び出し音の鳴り続けるスマホを掴んだ右手が、だらんと落ちる。
夢だ。でも、夢でいい。俺の目は、足元から発生した今までにない大きさの虹が、弧を描いて空へと伸びていくのを見つめていた。

不慮の事故だったんだ。お前は悪くない。
かけられる言葉のどれもが頭の上を通りすぎていった。俺があの日ナナコを誘わなければ、ナナコは死なずに済んだ。友人も、家族も、ナナコの両親でさえ、誰もがその事実を認めてはくれなかった。お前は悪くない。あなたは悪くない。泣きながらかけられるその言葉を浴びながら、俺はただ、病室の窓の外にかかる虹を見ていた。

この虹の先に、ナナコがいるかもしれない。
駆け出したい気持ちを抑えて、一歩一歩着実に虹を踏みしめて歩く。街を歩く人は段々と小さくなった。家も、電柱も、近所の丘も、まるでミニチュアのように眼下に広がっている。はやる気持ちと比例して、息が上がっていく。もうどれくらい歩いただろうか。緩い坂を上り続けたふくらはぎが悲鳴をあげている。立ち止まり、より多くの空気を取り込もうと、口はだらしなく開く。

辺りはうっすらと霧がかっていて、自分が今雲の中にいることを示していた。ここまで来れば町中にいくつもかかっていた小さな虹は見えなくなる。見えるのは、そう、俺が立つこの虹と、同じくらいの大きさの虹だ。
ふと、遠くにかかる虹の上に黒い点を見つけた。目を凝らすと、その点がゆっくりと動いているのがわかる。よく見ると向こうの虹にも、その奥の虹にも、ゆっくりと動く黒い点が見える。
そうか。
俺は浮腫んだ脚に鞭を打ってまた歩みを進めた。
俺だけじゃない。みんな、会えなくなった人に会いに行くんだ。

どれだけ歩いただろうか。いつからか下り坂へと変化してしばらく経った虹の橋の上で、朦朧とする意識の中俺の視線は大きな一本の木を捉えていた。見覚えのある風景。腐りかけたベンチと、小さな遊具。
いつかの三月の終わり、初めて二人で出掛けた日、地面を花びらで染めていた公園の桜は今、六月の空気をいっぱいに吸い込んで青々と揺れていた。

ベンチの前に降り立ち、崩れるように座った。右手に握り続けていたスマホが最後の力を振り絞るように震え、発信音がぷつりと途切れた。
湿気で色の変わったベンチに寝転ぶ。すっかり夏の顔をした空が、桜の葉の隙間から覗く。肩が勝手に震える。自分が今、泣いているのか笑っているのかわからない。
なんだ、ここだったんだ。

「ありがとう、ここにいてくれて。」

全身の心地よい倦怠感が、じわじわと眠気に変わっていく。背中に感じる固いベンチの感触に、ゆりかごのような安心感を覚える。少し休もう。起きたらずっと行けなかった墓参りに行こう。薄れていく意識の中、桜の葉だけが瑞々しく光っていた。


都内の病院で、バイクの横転事故から意識不明だった一人の男性が息を引き取った。病室の窓の外には、大きな虹が一本、初夏の日差しを受けてきらきらと光っていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?