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人の感情を読みすぎる私はサシで飲むのが好きなのに苦手だ

毎日noteを綴るつもりだったのだが、何日か空いてしまった。
毎日書こうと決めていたのに。
どうしても、私は自分に甘い。
仕事が忙しいといいながら、スキマを探してLINEマンガなんて読んでるのだから、一行でも書けるはず。
できない理由を付ける天才だと思う。

昨日は友人と飲みに行った。
本当は打ち合わせを兼ねて三人で飲むはずだったのだけど、急用が入ったそうで彼女とのサシ飲みになった。

打ち合わせではなくなったので必然的にお互いのプライベートの話になる。
聴いて
話して
語り合って
楽しく充実した時間を過ごした


お通しが大根おろし。思った以上につまみになる

私はサシで飲みたいと思う友人はそういない。
正確にいうと、サシで飲むのは好きなのだけどめんどくさい自分が発動するので疲れるから避けたいのだ。
だから、三人で飲むとかならいいのだけどサシとなると相手を選びたい。
「語りたいから会いたいね」は、どうも「「わたしが」語りたいから聴いてね」と同意義のことが多く。
その場合、どうしても「相手の欲しい言葉を察してしまう特性」が発動してしまう。楽しい時間なのになぜか疲れてもいる自分が嫌だ。

また、これは私の問題なのだけど、「聴いて」くれる時も、話した後に相手の空気を読んでしまい「言わなきゃよかった」と感じてしまう。聴いてもらったのにしんどくなる自分にしんどくなる訳の分からないループにはまり込む。楽しかった時間が後悔で塗り替えられてしまうのだ。

一番の問題は、飲んでいると、相手がアルコールの力で気を許してくれているのか、それが素なのかわからないことだ。
私自身アルコールによる高揚感もあり、語りすぎてしまうことも多い。
そうなると、次の日後悔する。
あんなことを言ってしまってよかったのか
調子にのっていなかったか
反省会が繰り広げられてしまう。そんな自分が面倒だ。

このめんどくさい、人を読む習性が起こっても大丈夫だと感じられる数少ない友達の一人が昨日の彼女だ。昨日も前述の「聴いてもらったのにしんどくなる問題」を彼女にしていて、「世界」が違うのだろうという結論に至った。どちらかがいい悪いでなく、単に世界が違う。それはしょうがないよね、と。彼女とならフラットに話せる。
それが馬が合うということなのだろうか。

基本的に私は社交的だと思う。
だからこそ、自分の特性をわかってくれる人、世界が一緒な友人との時間はとても貴重でありがたい。

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