又吉直樹『月と散文』より「参拝」を読んで

 少し前に又吉直樹の『月と散文』を読み終えた。帯には「センチメンタルが生み出す爆発力、ナイーブがもたらす激情」とある通り、私たちのよく知る又吉らしい感情が発露されたような文章は、時に暴力的に感じられるほどの筆致を感じた。

 読み終えた、と書いたが、一ヶ月くらいかかった。エッセイを読み終えるには長い時間だった。そもそも購入したきっかけは、自身でエッセイを書くことになり、「エッセイ」を勉強しようと思ったからだ。

 だが、その思考と表現に触れるにつれ、「悔しい」という感情に邪魔されて、素直にページをめくることができなくなっていった。芸人という世界に身を置き、特殊な環境下で生まれるエピソードは仕方ない。ただ、自分でも「これ書きたかったなあ」「読む前に気づいておきたかったなあ」と思うような、感情や日常に根差したエピソードも多く、できれば知らずに終わりたいという気持ちと、作品自体の面白さの間で葛藤するうちに一ヶ月が経っていたというわけだ。

 その最たる例と感じたのが、「参拝」というエピソードだった。

 高校時代からの友人に誘われ、箱根に参拝に行く又吉。その道中、相手が拾ってくれるかな、拾ってほしいなという小ボケを織り交ぜながら会話をし、その意図を拾ってくれることに気持ちよさを感じ、相手もそこに居心地の良さを感じていることを知り、心温まる。そのやりとりの様子を二人が高校時代明け暮れたサッカーに例えて描いた文章だった。

 この文章を読んで思い出したのが、小学生時代しきりに宿題で書かされていた日記のことだった。なぜあんなに日記というものを書かされていたのだろう、と思うが担任からすると、長期休み中の生徒の様子は気になるものなのかもしれない。自由度の高い宿題ほど生徒を困らせるものはない。計算問題集や漢字練習帳の宿題は夏休みに入って一週間で終わらせていた私も(今思うとこれも信じられないのだが)、日記だけは休み後半まで残していたものだった。

 書くネタに困った私はよく両親に「書くことがない」と言っていた。小学校六年生の冬休み、そんな私を見かねて、題材作りにと家族でボウリングに連れて行ってくれたことを思い出す。今思うととても贅沢な話で、父はそんな私に「お父さんは兄ちゃんと餅を焼いた話で日記書いたぞ」と何回目かわからない話を聞かせてくれた。

 結局、あれから十五年以上経って、今では誰に頼まれたわけでもなく、ただ本を読んだという話だけで文章を綴っている。結局血筋なのか、私も文章を書くことの魅力に取り憑かれ、諦めきれずにいる。もしいつか私に子供ができたらこう言ってみたい。

「読書感想文は大人になってから書いても面白いもんだぞ」と。

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