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僕はなんで映画をみるのだろう


目次
・はじめに
・前提
・救いとしてみる映画
・先輩としてみる映画
・没入体験としての映画
・指針としての映画
・終わりに


はじめに


僕は映画が好きだ。
いつから好きになったのかはわからない。
幼い頃からジブリやポケモンの映画をおじいちゃんと見に行ったり、ハリーポッターやロードオブザリングを金曜ロードショーで家族と一緒に見たりしてきた。成長に伴いデートで映画館に訪れる機会が生まれ、大学では学問として映画論や映画の歴史について学んできた。
一つひとつの体験は記憶の中から薄まり、消えていきながらも、今の生活の近いところに映画が存在している。Amazon Primeでホームアローンを見たり、休日一人でボヘミアンラプソディを見に行ったりする。理由があるわけではなく、ただ見たいという感情に突き動かされ、僕は映画を見続けている。人生の一部として、映画が存在感を強めている。
そこでふと疑問が生まれた。僕は映画の何に価値を感じて、映画館にいくのだろう。映画の何を求めて、スマートフォンで映画を視聴するのだろう。僕の中に蓄積され、言葉として語られることなく存在し続けている感覚を、紐解くためにこの文章を書くことにした。






前提


前述したように、この文章において重要視するのは、生活と映画の関係性である。
その中でも特に、僕という一個人の生活において、映画がどういう価値を生み出しているのかに焦点を当て、映画について文章を書いていく。
映画の歴史について触れたり、映画が及ぼす社会的な影響の分析などは一切記述しない。
要するに、難しい話はしないということ。僕という人間が映画をどう捉えているのかについてを恥ずかしげもなくつらつらと書いていくので、中身のない内容になっていることを了承の上、読み進めていって欲しい。

救いとして見る映画


僕はなぜ映画を見るのだろうか。まずはこれを言語化する必要があると思う。今この文章を書きながら、なんで映画を見るんだろうか。なんて考えながらコーヒーが2杯なくなってしまった。今までの生活ではそれだけ無意識的に映画を見ていたということがわかった。
本当に一体、なんで映画を見ているのだろう。

ああ、思いついた。
映画を見るのは、一種救いを求めているからなのかもしれない。
僕の生活はいたって普通だ。ドラマチックな出来事なんてあまりない。
朝起きる。身支度をする。仕事に行く。仕事から帰ってくる。眠る。
そんな毎日の繰り返しだ。(今は飲み会に行くことも多いが)
そこにドラマを無意識的に期待している僕の存在がある。
今まで体験しなかったような運命的な出会い。突然何かの力に目覚めること。何かを変えたことで人生が劇的に好転する。そんなありもしないようなことを求めて、映画を見るのか。
いやしかしそれは映画を一人で見るときの話だ。しかも大抵夜の話だ。さらに僕が疲れていて、家のパソコンで映画を見るときのことに限っている。でもこれも僕の生活における一つの映画の価値になっているのは間違いない。
映画は僕にとっての救いだ。
ありきたりで特別なことなんてひとつもないごく普通な生活。
そこに窮屈さや、寂しさ、悲しみなどを感じてしまった瞬間。
僕は救いを求めて、映画を見る。

先輩として見る映画

ひとつ上の段落で救いとして映画を見るということについて書いた。
不思議なことにひとつの感覚を言葉にできると、他の感覚も引きずられて言語化されていく。映画が僕の生活の中でどんな価値を与えてくれているのか。
もう一つは、先輩としての映画だ。
ただこの価値は、どちらかというと後天的な気がする。後天的というのは、映画を見ることにこの価値を求めているのではなく、映画を見ることによってこの価値を知らないうちに享受しているという感覚が近いということだ。
先輩としての映画でわかりやすいのは、ラブストーリーやヒューマンドラマ系の映画だ。
映画のなかのラブストーリーは起伏が激しい。お互いの愛が深まる瞬間もあれば、すれ違いもある。バッドエンドもハッピーエンドも、最初は真逆な状況であることすらしばしば。
恋仲にある相手と、映画のようなシチュエーションでいるとき、こんなことを言ってはいけないんだな。というのは、なんとなく映画から学んだ気がする。監督が最大限ロマンチックに描いていくれちゃっているもんだから、そのまま転用なんてするとイタイやつになってしまうので、こんなこと言えばいいんだ。という学びはあまりなかった気がするが。
ヒューマンドラマもそうだ。僕が人生において困難に直面したとき、こんな風に考えればいいのか。と学ぶことがよくある気がする。一番覚えているのは、『ルパン三世 カリオストロの城』において、ピンチになったルパンと次元が口にする「おもしろくなってきやがった」というセリフだ。この考え方に僕はなんども力をもらっている。
人生の先輩として、僕は映画を見ているのかもしれない。

没入体験としての映画

ここまで話してきて気づくこともある。僕は、没入体験としても映画の価値を感じている。ここで取り扱う映画は、家で映画作品を鑑賞することではなく、映画館に訪れ、約2時間かけて作品を鑑賞することを指すものとする。
映画館を訪れることなく鑑賞する映画は常に別の情報と接しながらの鑑賞になっている。家のパソコンで映画を見るとき、スマホをチラチラと見ることもあれば、途中で友人と会話しながら見ることもある。テレビで見るときだって、コマーシャルが途中に挟まれたり、食事をしながら見ていたりと、映画に集中することができていないのだ。そもそも2時間ひとつの情報源に集中していることが今の自分の生活にはあまりない。スマホを見ながら、テレビを見たり、パソコンで仕事をしながら誰かに話しかけられたり。この文章を書いているときすらもスマホに時々目をやる。僕の生活の中で2時間もひとつのことに集中することはあまりなくなってしまったのだ。僕は比較的感受性が豊かなタイプだと、自分では思っているし、周りにも言われることがあるが、そう思えるのも映画によって没入する感覚を定期的に味わうことができているからなのではないかと思った。実際感受性が高い理由が映画によるものだけだとは言い難いが、一部であることはおおよそ間違い無いのではないかとは思っている。

指針としての映画


映画は時として自分の人生の指針になる。正確には、映画の登場人物に感情移入することで、自分もこのようにいきたいと感じることがある。と言ったほうが正しいかもしれない。
『もののけ姫』のサンのように気高く生きよう。
『Sing Street』のコーナーのように、その時にしか描けない感情を大切にしよう。
『バケモノの子』の熊徹のように、まっすぐ生きよう。
魅力的なキャラクターは、僕の人生に色を足してくれているように感じる。僕は映画にそんな心が動く瞬間、自分の人生が揺らぐ瞬間を求め、そこに価値を感じている。
今この瞬間、自分の人生に影響を与えてくれたキャラクターたちのことを思い出しながら、懐かしく、温かい気持ちになった。


終わりに

僕の生活において、映画は人生に影響を及ぼすほどの存在になっている。薄々気づいてはいたが。言葉にすることはできていなかったことで気づけなかった、映画を見るたび人生が豊かになり、味が濃くなる感覚にも気づくことができた。ここでは見つけることができなかった、映画に求める価値はまだまだたくさんあるような気がするし、僕ではない誰しか感じ得ない価値もどこかにある気がする。映画だけに限らず、自分が何か追い続けているもの、好きでたまらないものは、どこが好きで自分が感じている価値はなんなのか。一つずつ言葉にしていきたいと思う。

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