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⚠️ネタバレあり「映画マッチング」考察感想レビュー 永山吐夢中心


最初に

「映画マッチング」公開おめでとう〜〜!!! この後に綴る感想は「『映画マッチング』を観た前提」で書かれたネタバレ200%の「永山吐夢中心」考察&感想文です!!
もう一度言う。「ネタバレしかない」!!!!
目次からネタバレを匂わせるものがたくさんなので、まだ観ていない人はUターンしてください、可能であれば今すぐ観てきてください、お願いします。
そんでもって私は「映画マッチング」小説版未読です! 読んだら解決したり、解釈が違ったりする考察もあるだろうけど、その辺は目を瞑っていただければありがたいです。
読んだらまた書くからね!!!

よし、この辺まで来た方は、もう「映画マッチング」を観た方だろう。観ていない方はUターンね!!
本当に永山吐夢中心考察レビューだし、あくまで私の感想です!! 聖書の知識なんかをフル稼働して書いたけど、誤ってたらごめんなさい!
あと長いです! よろしくお願いします!!


①「反転」したラストの吐夢の微笑み


「映画マッチング」は永山吐夢の復讐物語でもあるが、彼の復讐の完成は「幸福の象徴」であり、「ハッピーエンドまでの過程」なんだろうな。やはりこの映画は「ハッピーエンドに向かう物語」なのだろうと思う。
この映画のアオリは「ラスト1秒、愛が反転する」だが、この「愛」にもまた複数の意味があると思った。クローバーの花言葉が「幸福」だけではないように。

1)愛の「形」が反転した。恋愛感情→家族愛


吐夢が輪花に向けていた感情は、ずっと恋愛感情だと思っていた。でもラスト5分で「永山吐夢」という人間の過去が明かされていくに連れて、その概念すら反転する。
そもそも吐夢は、「輪花さん脈なさそうだし」などは恋愛感情を示唆するようなことは言っているものの、直接的な表現は意外と少ない(むしろなかったんじゃないかな……ちょっと今後また観に行って確認しますが)。
物語終盤で、吐夢は節子と芳樹の息子だったことが明かされる。つまり影山とは異父兄弟で、輪花とは異母姉弟。「生まれたばかりな頃にコインロッカーに捨てられ」「家族なんてひとりもいなかった」吐夢に、父親も母親も兄も姉もできたわけだ。
そもそも、吐夢の輪花への想いは本当に「恋愛感情」だったのか? 実際吐夢は輪花自身に「僕はピースフルなファンのようなもの」と言っている。デートはしても、「付き合ってください」というような「交際を匂わせる」発言はない。
まぁでもさすがに最初輪花に近付いたのは恐らく恋愛感情だろうけども。血縁関係があると知った上での最後の笑みは「恋愛という愛が家族愛に反転した」という種類であったと考察する。これが1つ目。つまりラストの笑顔は「やっと僕にも家族ができたよ! 」という笑顔。
でもこれはハッピーエンドだよね。家族愛だろうと恋愛感情だろうと、吐夢はようやく欲しかった愛を返してもらえた。
まぁそれでも、家族を得るために「その周囲を排除しまくって、無理やり自分に目が向くようにした」っていうやり方は、吐夢らしいけども。

2)愛「だと思っていたもの」が反転した。愛→復讐?


でも1の説は、吐夢が殺人を続けた理由の説明がつかない。
作中、吐夢が輪花に向けていたものは「愛」として描かれる。でも世間一般的な「愛」を「平穏な日常」とするならば、きっと吐夢の中にあるものは愛じゃない。2回目を観て、吐夢の感情と現実を追っていったら、吐夢が「愛」と呼ぶ輪花への思いに、違和感を覚えた。
影山は輪花に対して「すくすく育ちやがって」「お前を愛した人間も、お前が愛した人間もゆるさないからな」と“自分の不幸を知らずに幸せに育った輪花”への恨みを顕にしていた。対して吐夢は「輪花さんは天使のような人」だとか「僕たちは運命で繋がっている」と言っている。愛してはいるんだろう。
なんでだろうと思っていたけど、吐夢は作中のとある段階で「輪花とは血の繋がった姉弟」であることを知る。そして吐夢は「家族」と「永遠の愛」に対し、強い憧れと否定を持っている。母節子とは決別、兄影山は檻の中へぶち込んだ。芳樹を殺した犯人は明示されていないが、「もしかしたら吐夢が殺したのかもしれない」。
輪花の周りから家族を排除し、自分だけが唯一無二の「愛し愛される人」となった上で、血縁関係については言わない。1の説のように吐夢が輪花に対して家族愛を抱いているなら、言った上で信用を得て、「家族として愛される」が目的であってもおかしくないだろうに。
吐夢が輪花に対して抱いているものが愛ではなく、恋愛感情でも家族愛でもないとしたら、やっぱり「輪花を孤独にして自分だけを唯一にした」のは「嘘がバレたときに絶望して悪魔のように壊れる輪花を見たいから」なのか。
「天使のような輪花が悪魔になる瞬間が見たい」と言ったが、吐夢の本来の目的は「悪魔のようになった輪花に愛される=殺される」ことなんじゃないだろうか。吐夢はポスターでも「殺したいほど愛してる」と言っているし、吐夢が輪花に少し愛し返されたことによって「愛されたい」と願うようになったなら、「愛してる人に殺される」に帰結してもおかしくはない。
「家族は再生できないんで」
と言っていた吐夢が、家族が壊れるのを心待ちにするのは少し「辻褄が合わない」けど、吐夢の中にある理想の「愛の極地」が殺されることなら、まぁ整合性はあるのか。
個人的にはこの説推し。鳥肌が立つね。

3)「永山吐夢」が反転する。畏怖→無垢→畏怖


これは説とかじゃないから、考察を抜きにした感情的な感想だけど。
反転したのは、「永山吐夢」というキャラクターでもある。ストーカーでサイコパス。輪花を一途に想うがあまり暴走する。それが予告時点での「永山吐夢」のパブリックイメージだろう。
でも話が進むにつれ、吐夢の内情が徐々に明らかになっていき、それに合わせてインクが染み入るように吐夢への愛おしさが滲み出てくる。
「吐夢は本当にサイコパスなストーカーだったのか? 殺人事件の犯人は彼じゃなくて影山だったし、適度な愛し方がわからなくてストーカーになっただけ。彼の言葉を借りるなら『害を加えないピースフルなストーカー』なだけじゃないのか? 」視聴者がそうやって吐夢への評価を改め、吐夢を「しょうがないやつだな」と愛おしく思い始めた頃、影山の重低音の「ボレロ」が惨劇を露わにする。
現に、吐夢はサイコパス(精神病質者)ではないのだろう。ただソシオパス(社会病質者)ではある。先天性のものと、後天性のものという些細な違いではあるが、「人との適切な距離感がわからず」「愛着障害を持ち」「付きまとい行動や試し行動に出る」。どれも虐待児の特徴として顕著なものであり、吐夢の特徴としても当てはまる。
サイコパスだろうとソシオパスだろうと、「罪さえ犯さなければ普通の人間」なのだが、吐夢の過去がラストで怒涛に明かされることによって、吐夢の「不安定な行動」にも説明がつき、そして同時に「常人では救えない場所にいる『犯罪者』なのだ」と理解してしまう。
ラスト1秒、吐夢の勝ち誇ったような笑顔は、「やっと愛されたよ! 」とピカピカの泥団子を見せる幼稚園児のような無垢さはなく、ただひたすらに恐ろしく艶美だった。
「視聴者が思っていた愛の『形』を裏切り」「輪花への思いを愛だと思っていた『先入観』を裏切り」「吐夢という人間の『本質』を裏切った」のだ。怖いね、佐久間大介。

②永山吐夢という人間

「僕はこの上なく不幸な星のもとに生まれた人間なんです」。吐夢の口癖だ。拒絶され、否定されるのが怖いから、「初対面で卑下して同情を誘う」。スタート地点が「自分が愛されるはずがない」と思い込んでいる吐夢は、初手でマイナススタートになるよう「自分から仕向ける」。なのに「僕の深い愛に応えてくれないはずがない」という凝り固まった「愛に対する執着めいた憧れ」もあるから、初対面で重い身の上話を始める。同情が愛になることはないだろうに、自分が愛されるには同情しかないとでも思っているのかもしれない。
人との適切な距離が掴めず、「自分が望む愛」を得られたことがないから愛への執着が強く、理想が高く、そして極めつけは「僕は不幸」という免罪符。虐待児あるあるの「悪い子だからこんな目に遭ったんだろう」という「物事の正当化」。愛されないことや不幸なことに理由が欲しいし、それを全部自責に向けてしまえば「不幸に慣れていく」。
更に「自分は不幸だから『不幸になる方向(正しくない)』へ突き進むことに躊躇がない」。という思い込み。このあたりが節子や剛とは違うな、と思うのだけれど、「無条件に愛されたことが1度もないであろう」吐夢だからこその思考なんだろう。
現に節子や剛は「幸せになるために」罪を犯している。
あと吐夢で印象的なのは「話し方」。作中、いくつも印象的な「声」があるが、特に輪花、吐夢、影山がわかりやすく対比だった。
「絶望によって感情を放出させる」輪花の叫び声、「溜まりきった怒りをぶつける」影山の怒号、そして「ゴミ箱に感情を投げ捨てるみたいな」吐夢の話し方。どれもそれぞれの半生を感じさせるが、特に吐夢は会話のキャッチボールの経験が少ないから、「相手に受け入れられる前提で話せない」。遠くにいてもぼそっと吐き捨てるようにしか話せない、吐夢の「慣れきってしまった寂しさ」を感じる。
吐夢と影山の対比は、他にも色々ある。

③吐夢と影山の対比


吐夢は典型的な「愛着障害」である。それでいて影山とは違う。
最初の方から、強調されているように感じた吐夢と輪花の年齢差。中の人で言うと、輪花を演じる土屋太鳳ちゃんは29歳、対して佐久間さんは31歳だ。太鳳ちゃんはともかく、佐久間さんの年齢を変えてきたことは「絶対意味がある」。むしろ太鳳ちゃんと輪花を変えていないからこそ、佐久間さんと吐夢の年齢の違いには「意味がある」。
そう思って観ていたら、納得の展開だった。「映画マッチング」は「これそうなんじゃないかな……? 」という考察を、作中で「そうなんですよ〜! 」とわかりやすく明言した上で、「でもこれは予想してなかったでしょ? 」と動いてくれるからありがたく、面白い。
実際、吐夢が節子と芳樹の息子だということは予測できたものの、最後に端っこだけ見せつけられた「吐夢の本音」は読み取れなかったし、連続殺人事件の真犯人が吐夢だということにも気付けなかった。物語の大筋は明示しておきながら、本質は煙に巻く。上手いよな〜〜構成が。

話はズレたけど、時系列で表すとこうだよね。

・節子が剛を産む
・輪花生まれる
・節子と芳樹の不倫が始まる
・芳樹が節子に別れ話を切り出す(節子は受け入れない)
・節子と輪花、美知子(輪花の母)が接触
・節子が芳樹を刺す(吐夢を妊娠していることが判明)
・節子が逮捕され、剛が養護施設に入れられる
・節子釈放。吐夢を産み、コインロッカーへ捨てる
・節子が美知子を誘拐

影山剛の年齢は映画では明らかにされていない(はずだ)が、「芳樹に会いたくて狂う節子」や「芳樹を刺す節子」の後ろにいた影山は小学生の姿(ランドセルを担いでいたり、宿題していたり)だったため、輪花より年上なんだろうな〜という考えです。
つまり、剛は物心がつくくらいまでは、節子と過ごしていた。芳樹と会うまでの節子がどうだったかはわからないが、「少年の母は愛が深い人だった」という表現から、「愛を実感していた生活」だったのではないかと思う。そこが吐夢とは違う。
恐らく、剛の犯罪の動機は「また母に愛してもらうため」。母節子を傷付けた人間を殺し、その愛を否定することで、「母はまた自分を見てくれるのではないか」という、「過去愛されたからこその『愛への渇望』が生み出した『執着』」。影山剛という人間を愛した人は他にもいただろうに、影山は「母に愛されないと意味がない」と思い込んでしまっており、復讐に取り憑かれている。
影山から節子に宛てた手紙からもその「執着」はよく読み取れる。「母さんのために」「見ててね」。
節子と剛は、節子が出所してからも関わりはあったのだろうが、施設に迎えに来てくれることはなかった。節子としては「芳樹が愛した美知子を傷付け、一緒に暮らす」ことが最優先の目的なのだから、剛は邪魔でしかなかったのだろう。
そして剛はそれがゆるせなかった。でも「節子に愛された記憶があったから、傷付いた節子を見てきたからこそ、『怒りの矛先は節子を傷付けた周囲へ向いた』」。
芳樹への愛に狂い、影山を蚊帳の外に追いやって視界にすら入れてくれなくなった節子にもう一度愛してもらうために犯罪を犯している。だから輪花からの愛は過程に過ぎないし、殺人の証拠になり得るのに節子に手紙を送ったり、昔住んでいた家に出入りしたりしている。

対して吐夢には「愛された経験がない」。
生まれたときからコインロッカーに入れられ、親の手がかりであろうペンダントだけを大切にして生きてきた。そんな吐夢にとって「愛」なんてものは「信じるに値しないもの」なんだろう。ペンダントにクローバーを入れていたんだから、愛した瞬間が一瞬もないとは思いたくはないが、少なくとも産んだ瞬間は愛されていなかった。むしろ吐夢としては、「残っているペンダントだけが、母が一瞬でも自分を愛してくれたかもしれない証明」だとすら思っているかもしれない。
そして節子は「自分の幸せの希求」に必死だから、当然その後吐夢に接触して来ることもない。あぁ、やっぱり愛されていないんだ。やっぱり「永遠の愛なんて生の中には存在しないんだ」。だからこそ「幸せの絶頂であろう新婚カップルの愛を永遠に『してあげる』」。
突飛とも言える発想だが、吐夢からしたら「筋が通っている」。愛された経験がなく、自己肯定感の低い吐夢は「愛されるということはさぞ幸せなんだろう」と思い込んでいて、「だから僕は『ちょっとでも好きだと感じたら』、全身全霊で愛してあげる。密かな愛なんて不誠実だ、愛の切れ端を感じたら、全部を愛してあげなきゃ」という危険な覚悟を決めている。だから初対面で重い身の上話もするし、「僕とあなたは運命で繋がっている」なんてド直球ストレートで愛をぶん投げてくるんだろうね。
この辺もモロに、「人との適切な距離感がわからない」吐夢の特性を表している。「母に愛してもらうためならば」輪花の感情を利用しようという策略が組める影山との対比にもなっていて、「僕が愛したいから愛する」独善が前面に出た感情表現だと思った。

この辺の吐夢と影山の「違い」が緻密で細かくて大好きなんだよな……。愛された経験があるからこそ、また愛されたくて藻掻く影山。愛された経験がないからこそ、自暴自棄になって自分を貫き通す吐夢。復讐が怒りで愛の枯渇だった影山、復讐が諦めで愛への憧れだった吐夢。同じ母のもとに生まれながらも、全く違う理由で犯罪に手を染める。
じゃあ吐夢が殺人を続けた理由ってなに?

④吐夢が殺人を続けた理由

吐夢が人を殺すようになった理由は「幸せを感じているであろう新婚カップルの愛を、永遠にしてあげるため」。でもじゃあラスト、輪花に「愛を返してもらった」のに殺人を続けた理由はなんだ? ってなる。
色々説はあるだろうけど、個人的には「それとこれは別だから」を推したい。あとは「吐夢にとって輪花からの愛はまだ不十分で、殺人で満たされようとしているから」。

吐夢は子どものように無垢で、暴走列車のごとく突飛に見えるが、実は「とんでもなく計画的で頭がいい」と思う。実際、吐夢の犯行でバレているのは「交際相手を突き落とした(生存している)」のみだ。
吐夢の「永遠の愛をプレゼントしたい」という思考はある意味神のようなものであり、そこに影山のような「誰かに認めてほしい」という私欲はない。ただ「みんな『永遠の愛はない』なんていう当然の摂理に気付いていなくて哀れだから『永遠にしてあげる』だけ」。自分の愛に愛が返されたことがなく、ろくに人とコミュニケーションを取ったことがないからこそ、神みたいな思考に陥っちゃうんだと思うね。
そして神のような思考から見た、吐夢にとっての「幸せなカップルたち」は「愛の対象」でもある。吐夢の殺害シーンは作中になかったが、口を塞いでベッドに押さえつけてカップルを殺害した影山に比べると、吐夢の犯した殺害現場は「綺麗で整っている」。もちろん争った形跡はあるものの、椅子に座らされ、机の中央で手を繋いでいる姿が定石らしい。
そしてこの「手を繋ぐ」姿こそ、「聖母マリアの祈りのポーズ」を彷彿とさせる。聖母マリアや十字架に囚われていたのはむしろ影山と節子だが、それを知ってか知らずか、吐夢は「神のような視点から殺人を犯し」「祈りのポーズのような体勢にこだわる」。
吐夢が殺人を続けるのは「永遠の愛をプレゼントする」ためであり、「自分の中で潤沢に溢れる愛を発散する」ためでもあるんだろう。自分の愛の深さを知っているからこそ、輪花への愛だけじゃ満たされないし、そんでもって別に吐夢は「愛されたい」より「愛したい」の方が強いから殺人を続ける=みんなを愛し続けることで満たされる。……愛されるより愛したいって、KinKi Kidsかよ永山吐夢。

吐夢は「愛される」ことはある程度諦めてると思う。でもどこかで、「こんなに深く愛してるんだから愛してよ」とも思っている。例えるなら、めちゃくちゃ強いピッチャーだけど、1度も打ち返されたことがないからずっと壁に向かってボールを投げてるみたいな感じ。だからこそ、最後輪花に打ち返されて嬉しくなっちゃうんだろうけどね。……嬉しくなって、1しか返されていないのに「僕は100愛してるんだから100で返して」ってなりそうな不安もあるけど。

輪花を愛する吐夢と、愛という概念に狂う吐夢が同一なのか別の思考なのかはわからないが、どちらにせよ吐夢は「愛に溢れた人」ではあると思う。
この辺りは後で細かく語るけど、愛は基本的に「愛された経験がないと貯蓄できない」と思っている。貯蓄した経験をもとに人を愛し、愛されることで満たされるのがセオリーだろうけれど、吐夢の場合「自己肯定を完全に諦めて、他人を愛し尽くすことで満たされようとしている」。でも愛された経験がないから「愛の理想が高い」。そんな吐夢が輪花と相思相愛になったとしても、満たされるには「輪花の手によって殺される」しかないだろうね。
実際過去に「相手を突き落としている」ことは警察にもバレている。恐らく警察にバレている吐夢の犯罪は、「神のような思考の吐夢」ではなく「純粋に愛されたくて愛した結果の人間的な吐夢」だろう。運命を感じた相手に殺されたかった、一緒に死にたかった、でも拒絶された、とかなんかな? 前者がバレていないのがまた、吐夢の賢さを表してる感じがする。
どちらも「愛に狂っている」ことには変わりないが、節子とは違い、吐夢が求めているのは幸福じゃない。むしろ「自分は不幸だ」と諦めている。
ただ吐夢は、愛したいから愛するだけ。「僕を愛してよ」なんて加害になり得ることは、基本的にしない。向こうからの愛の片鱗を見つけない限りは。
まぁでも、人は基本的に「愛されたい人を愛する」んだけどね。

吐夢は輪花に「輪花さん、脈ないみたいだし、マッチングアプリ新しいの登録しました」なんて試し行動をした。愛されかけているのに「自分は不幸な星のもとに生まれた人間だから」という自己肯定感の低さも変わらない。これは吐夢の「僕が愛されるわけがないから自然と『正しくない道を選ぶことにも躊躇がない』」という描写だろうし、対して殺人事件を続けて、デートに行くのは「僕の愛は正しかった! これからも永遠の愛をみんなに教えてあげよう! 」という盲信の描写もあるんじゃないだろうか。
じゃあ輪花のことはどう思っているのか?

⑤天使と悪魔

ラスト、晴れて吐夢と輪花は結ばれたと言ってもいいだろう。輪花は吐夢とのデートのためにピンクの服とプーマの靴をプレゼントした(スノ担じゃん)し、視線を向けながらすり……と吐夢の手に触れた。
正直、この瞬間まで私は「吐夢は初めて触れる人からの愛に慣れていないから、拒絶しちゃうんじゃないか」と思っていた。吐夢の過去が明かされる前までなら、「ようやく輪花の愛が手に入った」と喜ぶくらいの自己肯定感はあるかもしれないと思っただろうが、愛された経験するない吐夢を知った後ではその印象も変わる。
だが吐夢は最後、笑った。「輪花から愛される計画が成功した(輪花を孤独にして唯一になろうとしていた)」からか「家族を手に入れられた」からか「なにも知らない輪花の愛を奪っていつか絶望させたい」からか。どれかは正直わからない。わからないけれど、これで「無垢だと思っていた」吐夢はいなくなった。

作中、天使というワードが2回ほど出てくる。
まず冒頭のデートシーンでのクリオネ「クリオネは天使と呼ばれていますが、捕食する姿は悪魔そのものです」。吐夢のセリフだが、その後吐夢は輪花のことも「天使のような人」と言っている。ちょっと思ったのは、もしかして「吐夢は天使のような輪花が『悪魔になる』瞬間を観たい」のか? という説。

自分が愛した人間が殺され(芳樹と尚美と元恩師)、その犯人を一時とは言え愛してしまい(影山)、そして母はその親であり、父の不倫相手に監禁されていた(美和子)。そんな中無条件に愛して寄り添ってくれたのが吐夢であり、輪花は吐夢への愛情に目覚めた。
母美和子とはこれからも同居して介護していくだろうが、美和子の傷は深いだろうし、輪花が今後母に愛を返されることはないかもしれない。それでも近くに吐夢が居てくれれば、輪花が壊れることはないだろう。もし吐夢の目的が「輪花の愛を手に入れて生きていく」ことなら、この物語は紛うことなきハッピーエンドだが、吐夢が「神のような愛」を捨てきれずに殺人を続けているということは、「輪花との平穏な日々」が吐夢にとって1番の目的ではないということだ。
じゃあ、「吐夢の目的が『輪花が修復不可能なほど壊れる』ことだとしたら」?
自分と輪花に血縁関係があることを隠し、殺人事件の犯人であることも隠す。それでいて、勝手に節子と決別して自分は前に進んでいる。
輪花の傍から愛する人や家族をなくし、自分が唯一になり、そしてその唯一がいつの日か「永遠の愛を証明する」。「吐夢なりのやり方」で。つまり死だね。
「家族でも秘密くらいある」は作中冒頭から描かれてきたメッセージだ。そして吐夢も「1番身近な家族の秘密を知っていますか? 」と輪花に訊ねている。
輪花が家族の秘密を知らなくて苦しんだことを知りながら、「家族として」「秘密を抱えている」のだ。歪んでるよ、こんなの……。そしてこれを何時から考えてたの? と、鳥肌が立つ。

⑥節子との決別

吐夢はずっとペンダントをしている。それは吐夢の母親の「唯一の手がかり」であり、その中身はラストで明かされる。節子がずっと大切に育て、愛してきた「四葉のクローバー」だ。
節子にとって愛の象徴であり、「幸福」の花言葉を持つそれをペンダントに残して吐夢に託したのは、彼女なりの「愛」なのかもしれない。でも吐夢にとっては違う。影山にとって「復讐」だったように、「自分を産んで一緒に暮らすことよりも『輪花の母親と暮らす』ことを選んだ母への執着」であり、花言葉に当てはめるなら「私を想って」だったのだろう。「お母さん、僕を思い出してよ。僕に愛を教えてよ。」
吐夢の中で、節子への愛がなかったわけではないと思う。実際、吐夢は自分の中で節子と血縁関係があることを知ってからも、ずっとペンダントを大事に着けていた。そして吐夢のペンダントには薔薇の刻印がある。ちなみに薔薇のペンダントは「豊かな愛情」や「恋愛の成就」という意味を持ち、親や恋人から贈られると特に効果が強まると言われてもいるんだよ。怖いね。
じゃあどこでその愛が「満たされて」「もう節子からの愛は要らない」と思うに至ったか。

ここで、「吐夢が節子に刺された場所」がカギになる。
芳樹に吐夢の妊娠を告げ、別れ話を切り出されたとき、節子は芳樹の背中に包丁を突き立てた。そして吐夢も、偶然だろうが節子に背中を刺される。
影山から輪花を救ったとき、吐夢は影山の持っていた包丁を見つめて捨てにくそうにしている。最初は「とっとと捨てなよ」と思ったが、あれは「これが父さんを刺した包丁かもしれない」という、ないはずの記憶を思い出し、懐かしさに耽る表情だったのではないか。
この段階で、吐夢は全員の血縁関係に気づいていただろう吐夢は、そこに「愛を感じた」。普通なら狂気を感じる「追いかけて包丁で背中を刺した」という行為も、「愛が深海より深い」と自称する吐夢にとっては「なによりも深い愛」だった。さすがに「愛した人の愛した人と暮らすことが愛」という節子の思考は「狂ってる」と言っていたが。
そんな吐夢が輪花を庇って節子に刺されたのは、吐夢の輪花への「愛」ではあると思う。一筋縄でなくとも、恋愛でなくとも、吐夢は輪花に対して愛を感じてはいるはずだから。
でも背中を刺されたのは不可抗力だった。とは言え、刺したのは自分を産んだ母で、母は「父と同じように自分を愛してくれた」と思ったのかもしれない。となるともう吐夢にとって節子はどうでもいい。「1度愛に満たされれば、ずっと面影を追ってきた母でさえどうでもいい」。今は輪花が1番大切だし、それ以上を望んで絶望するのは嫌だから。臆病だね。
だからこそ、吐夢は大切にしてきたペンダントを乱暴に取り、節子の前に置いて行った。
どうしてそんな歪んだ愛で満足したのか? なぜなら吐夢は「生の中で勝たられる『永遠の愛』を信じていないから」。そこは一貫していて、母に振り向いてもらうために犯罪を犯してきたわけじゃないから、一瞬でも愛を確認できたらそれでいい。それよりも今は輪花さんとのデートの方が大事だから♪くらい思っていそうだよね。
自分の愛に対して、愛が返されると思っていないからこそ、「それは愛じゃなくない? 」というものも愛と思い込んで、愛だと思い込めたらもうどうだっていい。でも逆に、「それは愛だろ」というものを1%でも返されたら暴走してしまう。それが吐夢。

だからこそ、輪花の愛を手に入れたから「もういいや。今のうちに殺して永遠の愛にしちゃうね。殺したいほど愛してるから」とならないのが、「愛し返されることを目的としていない」吐夢にとって「異常」である。歪んだ愛なのか、「輪花にもっと愛されたい」という吐夢にとっては珍しい愛の肯定なのか。
2でわかるんだろうな……頼む、2を見せてくれ。

⑦キリスト教のメタファー

過去も現在も、節子の胸元には十字架のロザリオが飾られている。そして吐夢のペンダントには薔薇の刻印がある。ちなみにロザリオは「薔薇の花園」という意味を持ち、聖母マリアへの祈りを一輪の薔薇と見なしていると言われる。
……怖くない? 剛と節子の車が同じ赤色ということが「親子の暗喩」だったが、吐夢と節子が親子であるという暗喩は「首の装飾物」だったわけだ。
とは言えロザリオと十字架は少し違い、「祈り」を意味するロザリオは数珠のような珠が付属している装飾品だが、十字架は「救いと苦難の象徴」であり、見た目も比較的シンプル。
まぁどちらにせよ、十字架というクロスモチーフであることには変わりない。そしてクロスモチーフのアクセサリーには、「心の解放」もとい「幸運のお守り」という意味もある。クロスモチーフは「4つの元素で構成されている」「幸運のお守り」。
ラスト、吐夢と輪花が見ていた、毒を持つミズクラゲも別名「ヨツメクラゲ(傘に透けて見える4つの線から)」。ふたつとも、まるで「4つの葉を持つことで」「幸福の意味を持つ」四葉のクローバーのようだね。

節子が四葉のクローバーを愛し、クロスモチーフのアクセサリーを着け、聖母マリア像を飾っていた意味は想像しかできないが、彼女の中の「幸せになりたい」という強い思いの表れではないだろうか。芳樹を愛し、剛と吐夢を捨て、美和子を傷付けて愛した彼女はまさに「愛に狂っている」が、それこそが彼女の自己表現であり、「幸福になるための手段」だったのだろう。
節子と美和子が住んでいた湖畔の家にはマリア像があったが、節子と剛が住んでいたマンションにはむしろキリストや十字架の方が多かったように思える。節子は母性の象徴であるマリアに祈ることで剛と吐夢を捨てたことを赦されたかったのかもしれないし、その上で自分の犯している罪を敬虔なものだと思い込みたかったのかもしれない。「愛のためにすることは全て肯定される」。節子の行動にはそんな一貫性があった。
ちなみにキリスト教において「マリア」は何人かいる。有名なのは前述した「聖母マリア」と、キリストの弟子であった「マグダラのマリア(複数の人物が合わさった偶像的なものだけれど)」。聖母マリアは「母性」の象徴であるのに対し、マグダラのマリアは「女性」の象徴であると言われている。
マグダラのマリアは「娼婦だったけどキリストによって赦された」みたいに語られることが多いけど、実際は「罪に取り憑かれたが、キリストによって癒された」弟子のひとりとされている。
聖母マリア像を飾って自身の母性を肯定しようとしながらも、息子ふたりとは距離を取り、愛のために「女性として」生きた節子。愛に溺れて狂っていたけれど、芳樹を殺害したのかはわからないし、美和子も「殺してはいない」。人間として1番侵してはいけない罪は犯さない矜恃でもあったのか、殺人を犯さないことでいつか「キリストに赦される」ことを願っていたのか。細かいことは想像しかできない。

対して、影山剛は十字架とキリストに取り憑かれていた。母に愛してほしいのならマリア像の方に心酔しそうなものだが、むしろ彼にとって「産むだけ産んで死の間際にすら来てくれなかったマリア」は「自分を見てくれなくなった」傷付けられた節子を彷彿とさせる、忌み嫌う存在だったのかもしれない。
逆に十字架を背負い、キリストで「母を傷付けた人」の写真を取り囲むことによって、「自分の行動は母に愛されるための正義なのだ」と思い込もうとしていたのかもしれない。
剛と「十字架」の関係性は彼が倒れたときにも描写されている。両手を広げてるんだけど、両足はやや閉じられていない、つまり「不十分な十字架」ポーズで倒れている。これってたぶん、イーストウッド監督の「グラン・トリノ」のオマージュだよね。画角的にも。そういうの大好きだ! (映画オタク)
こうやって見ると剛は割と正常な人間で、節子と環境のせいで狂わされただけなように思う。剛も剛で、「母を傷付けた人間」「母を傷付けたくせにのうのうと愛されている人間」を中心に「一貫性のある殺人」を犯している。芳樹の死から時間も経っていないのに輪花の殺害に踏み切ったのは「罪に耐えられなくなった」か「早く母に愛されたかった」からだろうし、そう思うと剛の殺人に快楽性はない。
狂うべくして狂ってしまった、普通の人間なのだろう。

環境のせいで狂ってしまった人間はもうひとりいる。永山吐夢。そういえば、夢を吐くという皮肉めいた名前は、結局だれがつけたんだろうね。
お守りのようなクローバーや十字架に縋る節子と剛に対して、吐夢には縋るものがない。と言うよりも、必要ない。あえて言うならペンダントだったんだろうけれど、それも自分の意思で捨てた。
だって彼を動かすのは自分の矜恃だけであって、「誰かに認められたい」だとか「もっと幸福になりたい」なんて理念は存在しないから。
ただ「『永遠の愛』なんて存在しないことにも気付かない哀れなカップルも愛し」、「運命を感じたから輪花も愛す」。シンプルだけど、終着点もない。吐夢本人からしたら私欲でもないし、私欲でないのならば「満たされることもない」。
吐夢はある意味「裏表がない」のに対して、影山剛は「裏表『しか』ない」んだね。

ところで、キリスト教の特徴のひとつに「相互愛」というものがある。「汝の隣人を愛せよ」。みんながみんな、隣にいる人を愛せれば愛し合えるという教えだ。
「映画マッチング」において、この教えは皮肉でしかない。全員が全員、まるで暴力のように一方的な愛をぶつけている。相互愛などではない。
「人はみな、無意識のうちに愛し愛されることを望んでいる」「私があなたを愛したように、あなた方も互いを愛し合いなさい」。これらのキリスト教の教えに心酔しながらもそれぞれ違う道を歩む、節子と剛と吐夢が、今となっては少し愛おしい。
特に吐夢が顕著だよね。節子と剛は「幸福になりたい」とか「母に愛されたい」というある種での「見返り」を求めているけど、吐夢は「愛し返されることを『想定していないし求めていない』」。

人は愛から逃れられない。そんな中、節子は身を委ねて愛に溺れたし、剛は愛に藻掻いて節子からの愛を渇望したし、吐夢はその中で優雅に泳いでみせた。面白いね。

⑧指と写真

特殊清掃の仕事をする吐夢が、仕事をしているシーンが作中には2つある。1シーン目は警察が訪れるシーン、2シーン目は輪花が訪れるシーンだ。
1シーン目、同僚らしき男性が外にゴミを捨てに行っている間、吐夢はひとりで清掃に取り掛かる。死体の跡が色濃く残る中でも平然と清掃を続ける吐夢は、仕事に慣れているのだろう。
その中で、吐夢はふと「指」を見つける。だからと言って嬉しそうなわけでもなければ、嫌がっている素振りもない。かと思えば、長靴からスマートフォンを取りだし、指と一緒に自撮りまでし始める。
……い、意図が読めない。どういうつもりなんだ、永山吐夢。コレクションするのかと思いきや、撮り終わればそのままポイッと捨ててしまうし、写真さえ撮ってコレクションにするにしても自分と一緒に撮っているから、より一層わけがわからない。小説版読めば謎が解けるかな……はよ読め自分。
「わかりやすい」という意味では、むしろ2シーン目の方だ。影山の事件を経て、輪花の外堀を埋めたはいいものの、絶望にはまだ足りない。吐夢の目的が「天使である輪花の悪魔の部分を見たい」だったとしても、「初めて人に愛されたいと思った」だったとしても、「輪花の唯一の家族になりたい」だったとしても。いずれにせよ、「輪花をわざわざ職場に呼んで」「輪花の目に映ることを自覚した上で」「優しさを見せた」。「輪花に愛されたかったから? 」……さすがに考えすぎかな。パンフレットにも、吐夢が依頼人の拒絶をはねのけて家族写真を渡したのは「人間らしい一面」と書かれているし。
となると、吐夢にはどちらもの面があるということだ。
「理解できない不気味な行動を取る」という「読めない不気味な部分」と、「思い出を大切にして家族を重んじる」という「人間らしいあたたかい部分」。だからこそ、吐夢という人間は魅力的で恐ろしいのだろう。
それに、吐夢からしたら別に「二面性」でもないのかもしれない。「殺人を続ける」異常性と、「輪花に愛されて余裕ありげに微笑む」人間性。どちらも「愛に憧れているだけの無垢な永山吐夢という人間」に他ならない。
そっか、吐夢が愛せないのは、自分だけなんだね。

⑨吐夢の異常性

ここに来てなんでこの題材? 私が1番思ってる。
でも今まで語ってきたのは吐夢の「内面的な」異常性であって、外見的なものはない。せっかく映画なんだから、外見的な異常性にも触れたいんだ。
初日舞台挨拶を観た方ならわかるだろうが、刑事の西山たちが葬式で輪花たちに聴取しに行った際の雨は、「雨降らし」による人工的なものだった。意図的に降らせているということは、「演出上意味がある」と考えていいだろう。
ここで、吐夢の服装を思い出してほしい。「気持ち悪い真っ黒い服」に「いつも履いている気持ち悪い真っ黒の長靴」。まるで雨に濡れるのを嫌がるような格好なのに、「吐夢が登場しているシーンはどれも雨が降っていない」。敢えて雨を降らしているようなシーンにさえ、吐夢だけは居ない。
そして吐夢が仕事をしているときの足もとも、黒い長靴。木を隠すなら森の中、血を隠すなら黒の中、普通なら異常な死臭も、日常の中に隠せば目立たない。黒い服装も普段から着ていれば「気持ち悪い」としか思われないし、日常の吐夢から死臭がしても「仕事柄」と言えば怪しまれない。こういうところが「こいつ頭いいな……」と思わせる所以なんだよな。
そんな吐夢がラスト、輪花がプレゼントしたピンクの服とスニーカーに履き替える。このことから、「吐夢は服装に対してこだわりがあるわけではない」と推察できる。恐らく吐夢が手放したくなかったのはペンダントだけで、それも節子との決別で必要なくなった。いわば「唯一の私欲」だったのだ。
私欲が解決して解放された吐夢が、輪花からのプレゼントに身を包んでデートに行ったのは、「輪花に愛されたいから」だろう。それが吐夢なりの歪んだ愛のハッピーエンドのためであろうと、吐夢の人間性が見せる愛への欲望だったとしても、割と永山吐夢という人間は「計算的に動いている」ことがわかる。
服装も、真っ黒いアウターの中に着ている服装が白と黒で分かれている。この辺も、吐夢の感情の揺れ動きを表しているんだろう。
節子との面会→着替えて証拠を洗う→輪花とのデートの間帰宅しているのかはわからないが、していないのだとしたら大分肝が据わっているし、そもそもあれだけ色んな人の「本質」が見える「家」を映してきたのに、吐夢だけは家の片鱗すら見せていないのはおかしな話だ。
吐夢の本質はまだ闇の中だよ、と、吐夢本人が蠱惑的に微笑んでいるのが目に浮かぶ。

⑩わからないところ

わからないことだらけだけど、「これ絶対伏線なのにわかんね〜! 私の不勉強のせいで! 」と地団駄踏むシーンがいくつかある。有識者がいれば意見を聴きたいので、下記に羅列していくね。

・金魚


絶対意味あるだろ。クリオネとの対比だろうか、「影山と輪花の喫茶店のシーン」「輪花の実家」でことあるごとに映る。金魚にどんなメタファーがあるってんだ?

・美知子(母親)の笑み


これが1番わからん。車椅子の女性が美知子なら、どうして影山からの手紙に微笑んだ? 久しぶりに娘輪花を見て喜んだ? もしかして美知子じゃない?? 「映画マッチング」、「明言していないことは『事実とは限らない』」が垣間見えるからな。

・なんでマッチング婚にこだわったか


新婚カップルを狙って殺人を続けるなら、結婚式の情報を盗めばいい。むしろマッチングアプリから結婚に発展したカップルだけに絞る方が難しいだろうに、なんで吐夢はマッチング婚にこだわったんだろう。
どうしても普通の出会いより不誠実なイメージが拭えないから? 入口が不誠実だと思い込んでいるからこそ、「永遠の愛」として昇華してあげようとしているのか? これもわからん。

いくつかって言ったけど3つだった。また観たら増えるかもしれないです、はい。

色々語ったけど、小説版読んだら解決することもあるかもしれないし、ここに書いたものと解釈違いなこともあるかもしれないので、次は「小説版含めた『映画マッチング』ネタバレ感想」を書こうと思います。
あと何回観に行こうかな〜!

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