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幸せの価値は60000円

家賃が引かれて4000円

『詩書きとコーヒー』 ヨルシカ

どうなんだろう。幸せってお金ということを言いたいのだろうか。
それとも、お金なんてなくてもいい、六畳で詩を書いていれば満足なのだということが言いたいのかな。
まあそんなことはわかりっこない。作曲者に聞きに行くわけにもいかない。国語テストの直前直後にこぼれる愚痴ナンバーワンは往々にして叶わない前提だからこそ愚痴足り得るのだと思う。
さらにさらにだからこそ、創造の余地が生まれる。好きで勝手な手前勝手も許されるのだ。
真っ白な曲。真っ青な歌詞。真っ黒な執念。そんな全てを無にしてこかす。タワーマンションのような芸術を下敷きにして解釈は進む。曲を聴くたびに、自分の解釈というペンキをぶちまけるような破壊の興奮が巻き起こる。
自分は今、この音楽を聴くことで『再構成』してるんだと思うと、なんか丹田のあたりがぶるぶるしてくる。
破壊と創造。わかります。

幸せの価値は60000円
家賃が引かれて4000円

この歌詞が大好きだ。なんて想像力をかきたてられるんだろう。
東京の家賃は高いんだなってことがわかる。
その金額からどんな仕事をしているのか、絞れないこともない。絞れないことはない程度なのがまたいい。
幸せって大人気の商品だ。テレビでもネットでもよくよく見ればみんなこの商品しか売ってないのだとわかる。なのに、具体的な値段は誰も言わない。
でも、彼は幸せを自家生産している。つまり、自分で値段を決めている。
いや、正確に言うと大家に決められているんだけど、それでも必要な値段をごちゃごちゃ言わずにすぱっと言えている。
そして、人間が関町で暮らすための最低予算もそれとなく教えてくれている。
いや、時代は変わるから正確でないにしても、大学生などがただ暮らすならギリいけるってことがわかる。
やっぱ、数字って大きいなあ。使い方が天才だ。小説とかでも物価が出てくることはもちろんある。でも古典とか海外小説だと金銭価値が違うから正直ピンとくるところ、実感としてのお金の重さがわかりにくい。
1両や1億マルクと言われて価値が正確に伝わるだろうか。そもそも円だって戦前と今じゃあ価値が違う。現代の価値になおすと言ったって江戸時代は舶来品が高級でマグロは雑魚扱いだった。こんな価値わからなさすぎる。
でもこの歌は最近出来て、作曲者の生活実感が込められているとすると、それは僕たちの感覚とそう遠くないことは明らかだ。
日本、そして現代。この要素を共有していることを感じられるのはとっても貴重なことなのだ。

そしてこの数字がぽぽぽぽっみたいな爽快なメロディの中、唐突に提示される。そこで僕たちは急に現実に引き戻される。
あれ? さっきまでふわふわした詩を堪能してたはずなのに、60000円?
具体と抽象。夢想と現実。この境目を猛スピードで飛び越えてパニックに陥る。
この感覚、どこかで見たことがある。
そう、「羅生門」だ。
あれはすごい。戦国時代を描写していたはずなのに、急に作者が出てきて助手席のブレーキを踏まれる感覚。それとめっちゃ似ている。
これ、意識して書いているなら改めてとんでもない。

そして4000円で暮らしている。どんな暮らしだよ。もう節約とか意識することもなく必要最小限で生きている。目的のために体を生存させる最低限だ。
そんな意識まで到達している。
君のための詩さえ書ければどうでもいい。わかんないよ、なにもかも詩になってしまう。
なんだろうか、憧れ、嫉妬、さらには崇拝が一挙に襲ってくるような気分だ。
こんなきれいな文章を書けるようになりたいのだ。

この1フレーズだけで言いたいことが多すぎる。
いつか、もっと時間があるときにまとめて語りたいものだ。

この曲が大好きだ。