成田才次郎と言う男

「福島の武士」といえば?
と聞くと、福島県民ですら90%の人が「白虎隊」や「蘆名盛氏」と答えるのではないでしょうか。

昔から私と父は相当な歴史オタクでして、父は武田信玄の五女であり織田信忠の妻であった、松姫様の生涯を追う本を趣味で執筆しています。
私はと言えば、江戸時代末期の戊辰戦争辺りを特に好んで調べておりまして、その中でも特に尊敬している武士が新選組の斎藤一。そして題名にもしました成田才次郎という男です。

郡山市と福島市のちょうど真ん中あたりにある二本松市。
二本松藩は奥羽列藩同盟に参加し、新政府軍と戦うものの各地で敗戦しました。明治元年には拠点であった二本松城は落城。現在は城跡が地元の方々に愛され残っています。

今回はそこに参加していた「二本松少年隊」という少年たちの、勇ましく美しい武士道のお話です。

二本松少年隊は戊辰戦争に出陣した12歳から17歳の子どもたちのこと。
「二本松少年隊」という名前は、彼らの没後に付けられた名前です。

有名な会津藩の白虎隊は16歳から17歳。集団自決をした彼らよりもさらに歳の若い子どもたちでした。
(※説により白虎隊には更に下の幼年組がいたとも聞いたことがあります)


本来であれば、戊辰戦争に出陣できるのは14歳からでした。
ではなぜ幼い子供が出陣できたのか。
それは二本松藩独特の「入れ歳制度」というものがあったからなのです。
入れ歳とは、「危急の際には年齢を2つ加算すること」。
窮地に追い込まれた二本松藩は、この入れ歳制度により12歳の出陣を可能にした、という訳なのです。

成田は当時、二本松藩士 木村銃太郎の道場の門下生として銃砲を学んでいました。
そんな最中の戊辰戦争。
門下生たちは、大檀口での銃撃戦に参加します。

大檀口戦でも書きたいことは山のようにあるのですが、私が伝えたい成田の武士道はその後にあるのです。

大檀口での負傷を抱えた成田は、仲間と散り散りになりはぐれてしまいます。
その後成田は、友人を殺した敵を討つために松坂門に身を潜めました。
その前に叔父に会っており、叔父から落ち延びるよう説得されたようですが、彼はそれを振り切ったといわれています。

松坂門で息を潜め待つ成田。
そこへ騎兵隊に所属していた白井小四郎部隊が通ると、真っ向から向かって行き白井目掛け刀で一突きしました。
もちろん子供対大人の軍ですから、白井軍が成田を切り捨てることは容易であったと思います。
しかしこの時、自分に向かってくる成田を見て感銘を受けた白井は、部下に切らぬように指示をしたそうです。
子供であろうと成田という個を認めた白井も、自分の役目を果たすべく白井を討った成田も、本当の武士であると胸を打たれました。
白井を討った成田はその場で絶命。腹を突かれた白井も命を落としました。
※諸説ありますが、わたしはこの説が大好きです。

剣をただ振るい、欲のままに人を殺める人を武士とは言わないと、私は考えています。
己の信じる事のため、命をかけて守り抜くこと。貫き通すこと。そこから道を違わないこと。
それこそが本当の意味での武士であり、私の尊敬する武士道です。

彼の生き様を知った時からずっと、私は自分の生き方を考えてしまいます。
2022年を生きる私たちは、刀も銃も持たず人を殺さない世の中で生きています。
人々が持つものは電子機器へと変わり、こうして文字を書いて伝えることや言葉を使うことが、現代における刀となったと感じます。

裏切られて悪態を吐かれて、だれそれがどう、外面の美醜がどう。顔を突き合わせずとも簡単に刃を向けられる世の中になりました。
そんなのは辻斬りと一緒です。

こんな世の中だからこそ私は、自分の信念をしっかり持ってそこから道を違わない武士でいたいです。

12歳から17歳の彼らの歴史は、あまりにも残酷で美しく、眩しいほどに真っ直ぐで、鮮烈な痛みを心に残します。
二本松藩士には成田の他にも素晴らしい彼らの武士道がたくさんあります。
どうか永く、彼らの武士道が受け継がれて行くように。

あぁ〜〜〜〜〜!!!!なんで二本松少年隊の参考文献少ないの〜〜〜!!!!?!?!?!

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