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プーチンとヒトラーが重なって見える

ウクライナの戦争を見るに、ロシアの指導者・プーチンには危うさを感じる。その人物像は、歴史を振り返ると、限りなくあの「ヒトラー」に近い。ところが滑稽なのは、そんなプーチンをしてウクライナを「ナチ」と呼ばしめたことだ。

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ウクライナの「ナチ化」を防ぐ、というプーチンの主張はロシア兵にも空虚に響く|Newsweek

現在のウクライナにネオナチと呼ぶべき勢力がいることは事実だ。極端な反ロシア政策を主張する極右民族主義政党「全ウクライナ連合『自由』」は、ネオナチ政党と目されており、その勢力はクリミア危機・ウクライナ東部紛争前夜の2012〜14年ごろに最高潮に達している。2014年、ヨーロッパ連合との政治・貿易協定の調印を見送った親ロシアのヤヌコーヴィチ大統領を打倒する際は主導的な勢力の一つとなり、続いてできた暫定政権では閣僚を輩出した。この一連の騒動はクリミア危機・ウクライナ東部紛争の直接のきっかけとなっており、プーチン大統領はこのときもウクライナの「ナチス化」を批判していた。

ウクライナの「ナチ化」を防ぐ、というプーチンの主張はロシア兵にも空虚に響く|Newsweek

そんなわけで、ヒトラーの入門書を手にしてみた。ヒトラーとプーチンは果たして同じなのだろうか。同書の作者は、著名な、そして一時不名誉な「都知事辞任」を経験した舛添要一氏。本来の職である、国際政治学者に戻って筆を執ったようだ。
ちなみに、冒頭画像は文春オンラインのコンテンツ《プーチン大統領は現代版ヒトラー》・・・より借用した。下記にもリンクを示す。


ヒトラー政権を盤石にした経済政策

ここでひとつ、本書を参考に、ある人物・「彼」のことを書いてみよう。

当時の国民はなぜ「彼」に従ったか。敵対した国々との争いに破れ、国が崩壊した。過酷な制裁を科され、インフレで生活は困窮化し、領土は奪われ、自国防衛のための軍備も縮小を余儀なくされた。民族の誇りは傷つけられ、国民は、この窮地を打開してくれる強いリーダーを求めた。

その「彼」とはもちろんヒトラーを指す。だが「彼」をプーチンと言い換えてもさほど違和感はないだろう。

さて、困難な状況のもと、新しいリーダーが現れ、他国をこき下ろし、経済の大改革に着手した。メディア等を掌握してしまえば、「彼」は、独裁者になりえる。かつてのナポレオンがそうだ。また、今日の中国共産党も同様だろう。初期の成果を収めれば、それだけで国民の支持率は一気に(一時的に)高まる。

ヒトラーが権力の座を確固なものとしたのは、経済政策の成功が大きい。失業解消に的を絞り、600万人の失業者がいた経済を、わずか3年で完全雇用にまで改善させた。手段は極めて秀逸。まず、インフレを収束させた中央銀行総裁(シャフト氏)を呼び戻し、財界とのパイプ作りを行った。その上で、ケインズ的公共事業を大規模に展開。たとえば「アウトバーン」は代表例だ。戦時中も建設を続け、終戦時には4000kmにまで延長された。

財政投資の拡大はインフレを招きやすい。そこでヒトラー政権は貯蓄を奨励した。今日でいう源泉徴収の仕組みはこの頃に出来上がり、人々は自然に貯蓄を増やした。それが国債に運用され、その資金で失業対策の仕事を作った。まさに今日では、当たり前となっている「お金を回す」仕組みだ。


ヒトラー政権の傍若無人ぶり

ヒトラーが様々な小細工をして政権を獲得した頃(1933年)、ドイツをめぐる国際環境はようやく落ち着きを取り戻していた。ハイパーインフレを抑えたドイツは、対外交渉によって第一次大戦の賠償金・減額を勝ち取った。また英仏軍の占領地からの撤退も決まった。それと同時に、国際連盟への加盟も認められた。ついでに言えば、ドイツの再軍備も承認された。こうした正常化は、実は、ナチス政権以前に、なされていたのである。

しかし、「合法的」手段で首相の地位に就いたヒトラーの振る舞いはかなりひどい。時の大統領(ヒンデンブルク)を操り、国会議事堂炎上事件を起こした。そして共産主義者を逮捕した。さらに大統領緊急令を出させ、共産党員などの弾圧にも乗り出す。勢いそのままに、全権委任法を成立させ、議会を無力化。わずか半年にて、ドイツはナチスの独裁国家となってしまった。一連の出来事はまさに瞬時のごとく、である。

この間にも、国民目線でのナチスはそれほど悪いものではなかった。コンサートやスポーツや旅行などを余暇の機会を提供する組織を結成。また、既存の福祉組織を統合し、公衆衛生や貧困救済などの活動を支援した。ドイツ社会は、(共産主義を目の敵にしたにも関わらず)ナチスのもと、またたく間に組織的な結びつきを強め、共産党政権と同じような統制国家に作り直していった。

ヒトラーの独裁体制を完遂させたのは二つの出来事である。ひとつは、ヒトラーを支えてきた武力勢力(突撃隊;SA)。弱小政党の頃からの過激派集団だったが、国家を掌握したヒトラーは早々に弾圧へと切り替えた。自分に反抗する幹部たちを逮捕し、権力基盤を固める。もうひとつはヒンデンブルク大統領の死去だ。この機会に乗じ、ヒトラーは大統領職を兼ね、いわゆる総統として完全な独裁者になった。政権を担ってからわずか二年、である。

パウル・フォン・ヒンデンブルク(ドイツ大統領)|Wikipedia


世界大戦への流れが止められなくなった

ここからは、今日の国際社会が学ぶべきことを考えよう。当時の日本は、やむを得ず国際連盟を脱退した。満州(中国・東北地域)での工作が露見し、国際社会から一斉に非難されたからだ。他方、ヒトラーは違った。国際連盟脱退を自ら志向し、国民投票にかけたのである。その結果、圧倒的多数の賛成を得る。ナチス政権は堂々と、国際連盟を抜けて(1934年10月)、二国間交渉の外交を仕掛けた。

手始めは、ポーランドとの不可侵条約、次に石炭・鉄鉱石資源に恵まれるザール地方での住民投票に勝利し、同地をドイツ領に復帰させた。そしてドイツは徴兵制を復活し、再軍備に着手(1935年3月)。ヒトラーはあくまでも「自衛」であると強弁した。結局この時点で、ヒトラーの暴走を止められなかったことが、ヨーロッパの破滅的未来につながっていく。

事態はますます混迷を深めた。対ドイツ包囲網に、イギリスが消極的だった。常に、フランスを見たり日本を見たりして勢力均衡を意識するがあまり、結果的にはドイツに対して宥和的態度となってしまった。他方、イタリアが突然エチオピア侵攻を開始。ヒトラーはイタリアに手を差し伸べた。そして電撃的に、フランスとの国境・非武装地帯であるラインラントに軍隊を進駐させた。そこでヒトラーはお得意の国民投票を実施し、ここでも圧倒的な支持を得る(1936年3月)。この流れはどことなく、近年の、ロシア・クリミア統合に似ている。

1919年6月のベルサイユ条約でドイツは・・・ライン川左岸地域(ラインラント)を失い・・・連合国軍隊によって 15年間の保障占領下におかれた。フランスは・・・23年ルール占領を機会に(ドイツからの)分離・自治運動を促したがドイツ住民の抵抗にあって失敗。その後、ロカルノ条約(1925年)が結ばれて、同地の武装禁止が定められた。(※一部、表現修正)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

世界大戦の足音が再び聞こえてきたのは、ナチスの次の一手、オーストリア併合だった。国防軍の人事を掌握してすぐ、工作に動き出した。同国を内部から撹乱した上で、軍事進攻(1938年)。政治経済を制圧し、ドイツに倣った政策を実施した。これらはいずれも、先の大戦でドイツと同じ「敗戦の恥辱」を味わった同国の人々を歓喜させるものだった。

これを黙認した英仏が次に直面したのは、ナチスによるチェコスロバキアへの領土割譲要求である。そこは、ドイツ系住民が住んでいる場所だった。武力をちらつかせて他国を脅す。このような行為を、国際社会は許すべきではなかった。ところが、あろうことか、四つの大国(英仏独伊)が話し合って、この要求を呑んでしまった。チェコスロバキアの代表は別室で待たされたままだったという。

英仏が宥和的妥結を模索している間に、ヒトラーはチェコを軍によって併合し(1939年)、領土的野心を次々と実現にこぎつけている。国際社会はいよいよ、ヒトラーを放置できない状態に追い込まれていった。


ヒトラー政権の崩壊から学べること

こうした経緯を見ていくと、今日のロシア・プーチン大統領の行動原理は極めてヒトラーに酷似している。国際社会が一旦弱い姿勢を見せてしまえば、次々と暴挙に打って出る。しかも、イギリスなどは、ソ連を敵視していた関係上、ナチスをその防波堤にしようとさえ考えていた。その結果生まれたのが、対独宥和策だった。

その後のヒトラーは、ポーランドを電撃侵攻し、パリも陥落して、ヨーロッパ全土を掌握(1940年6月)。ヒトラーの緒戦の快進撃は、英仏の警戒態勢がまったくなされていなかったことを意味する。翌年にはソ連にも侵攻していることを鑑みるに、ナチスは、侵略地に傀儡政権を立てて、オーストリア式に各国を制圧できると考えていたフシがある。

ヒトラーの勢力範囲がピークに達した頃(1942年)、コーカサス(バグ-)油田を獲得。ウクライナの穀倉地帯も確保した。しかしその後は、北アフリカで敗退、スターリングラードでも敗退。要は、戦争の進み方が早すぎたため、統治効果を得られぬままに戦線を広げすぎてしまった。その結果、各戦線で補給がままならなくなり、日本軍と同じ敗退の連鎖に陥ってしまう。

もう一点、特筆すべきは、なぜドイツが、最後まで抵抗を続けたか、である。この点も、日本と同じである。第一次大戦時、ドイツは内部から崩壊した。しかし、悪質なナチス政権のもとで、戦争は逆に長引き、ソ連のドイツ侵攻を許してしまった。同情的に見れば、それだけ国民動員ができる体制をナチスが築いていたと言える。ただもう一方では、ドイツ国民もナチスの共犯だったと言えたかもしれない。選挙にてヒトラーに加担し、英仏憎しで結束してきたからだ。「ヒトラー」とは悪魔的個人ではなかったと言える。


歪んだ民主主義こそ、最も恐ろしい

本稿の参考図書は、『ヒトラーの正体』がタイトルである。ヒトラーは当時のドイツ国民によって選ばれ、支持され、幾度もの国民投票にて絶大な権限を与えられた独裁者である。人々はみずから自由を捨て、総統の切り開く未来を熱烈に支持した。

個人が自立を迫られた時代だからこそ、自由を謳歌できる。しかし、自由は時として残酷だ。個人の努力ではどうしようもない状況が多々ある。その場合、自由は限りなく「贅沢なもの」になり、国民は自由を前に不安を募らせてしまう。自分の未来への限界を感じ、それが社会への怒りに転嫁される。

この不安を救ってくれる「誰か」の登場があったなら、その「誰か」に隷属する道を選んだ方がいい。ドイツではその「誰か」が、不幸にも、ヒトラーだったわけだ。彼が率いたナチス政権は、人々を「国有化」した。そして人々にと見せつけたのは、ドイツ帝国が復活する幻想だった。歪んだ一体感という熱狂が、ヒトラーを「悪魔」的なリーダーに押し上げたのだ。

ヒトラーが権力を手にしたのはナチスの巧みな宣伝術の成果だった。党大会を一大イベントとし、オリンピックまでも国威発揚に取り込んだ。ヒトラーの演説は有名だが、それがラジオで何度も流された。復興したドイツの姿は、たびたびナチスの成果であると強調され、それに重ねるように対外的な拡張のニュースが流れた。国民はこれに熱狂し、これまでの鬱積した民族感情を高揚させたのである。


プーチンも、ヒトラーに似たところがある。物語を吹聴し、強いロシアを取り戻そうとしている。選挙を幾度も乗り越え、みずからの権力の源泉にした。次の選挙のためにも、プーチンのメディア統制と政敵排除、そして国威発揚のための軍事力活用が進む。この歪んだ民主主義こそ、恐ろしい独裁者を生んでいる。同じ権威主義国家とされるロシアと中国だが、選挙制度を抱えるロシアの方が、もっと恐ろしいのではないかと思うのは、僕だけだろうか。


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