「忘却」「分断」に抗し「人類正義」の鐘を鳴らす日を〜裴 奉奇さんを「記憶」する4.23アクション証言動画を見て〜


自分にとっての「4月23日」

「4月23日は何の日」と聞かれた時、皆は何と答えるだろう?

おそらく大抵の人はこの日がどんな日か答えられないだろうが、知っていると答える人がいるとすればこう答えるのではないか。
例えば日本の記念日と理解して、文科省が制定した「子ども読書の日」や、「地ビールの日」「消防車の日」とされている日だと答えることが多いかもしれない。またマニアックな人がいるとすれば、スペインで「本の日」と制定されている日、もしくは「国際マルコーニデー」とかユネスコが採択した「世界図書・著作権デー」と答える人がいるかもしれない。(まあこうして答えられる人はごく少数であろうが(笑)。)

他にも調べてみると様々な記念日があることを確認できるが、では自分は何の記念日と答えるのだろうか。筆者は、他の記念日を思い浮かべて答えることはなく、こう答えるに違いないし、答えるしかない。
「4月23日は、裴奉奇さんが日本軍「性奴隷」制度被害・戦時性暴力被害の実態をカミングアウトした日であり、その勇気ある裴奉奇さんを追悼し記憶する日だ」と。

日本軍性奴隷制度問題と、1977年4月23日裵 奉奇さんのカミングアウト

世間の日本マスメディアが言うところの「「慰安婦」問題」、またはジェンダー解放・フェミニズムを志向し活動する人々が普遍的な視点で評するところの「日本の戦時性暴力問題」、そして現在の学術的研究成果を踏まえ最近呼称するところの「日本軍「性奴隷」制度問題」(以下、日本軍性奴隷制問題)とは、端的に言って、第二次世界大戦時代の最中、旧大日本帝国軍による中国への大陸侵略の過程において、「慰安婦」の名の下に旧日本軍の「性奴隷」として性搾取や性暴力を被った被害女性たちの尊厳と正義をめぐる東アジア近現代の歴史問題であり、日本の戦争責任・戦後責任問題であり、普遍的人権の問題である。

なお筆者は、日本軍性奴隷制問題を旧大日本帝国による反人道的で組織的な国際法違反な国家犯罪であり、日本政府は戦争責任・戦後責任として直ちに事実関係を認め、被害者たちに謝罪・反省し、そして法的賠償と再発防止のための各種法的・教育的措置を講ずるべきであるという立場である。むしろここでは、日本軍「性奴隷」制度問題をめぐる、非実証主義的で非歴史的な議論・主張としての「慰安婦は公娼・売春婦だった」「強制じゃなかった」「慰安婦の証言は矛盾している/ウソを言っている」「慰安婦は当時高額な給料を受け取っていた」「日本は何度も謝罪した」「日韓条約で賠償済」などのような論外な歴史否定主義・歴史修正主義言説を前提にしておらず、一切与しない。
その辺の歴史的な事実関係や国際法についてここでは深く論じない。より詳細に知りたい人は以下に貼付する『Fight For Justice ~日本軍「慰安婦」ー忘却への抵抗・未来への責任』にて参照していただきたい。

その日本軍性奴隷制問題について、世間が認識している最初の告発者は、1991年の韓国の金 学順(キム ハクスン)さんとなっているが、実際はそうではない。むしろその14年前の1977年に告発していた被害者が存在する。その被害者が本投稿で取り上げる在日・在沖朝鮮人女性の故・裴 奉奇(ペ ポンギ)さんである。

裴 奉奇さんは「慰安婦」の名の下に旧日本軍によって沖縄に連行され「性奴隷」として性暴力を受けた被害者である。裴 奉奇さんは戦後GHQ米占領軍の管轄下の沖縄で数多く苦労し、沖縄の「本土復帰」後、1975年日本の地方新聞に初めて自身の戦争被害を公表し(但しここでは自身の強制連行などといった総体的な戦争被害を証言し、性奴隷被害については触れる程度でしか言及しなかった模様)、その後在日朝鮮人活動家の金 洙燮(キム スソプ)さん(故人)と金 賢玉(キム ヒョノク)さんらと出会い、交流の過程で日本軍性奴隷制被害の実態を世に知らせようという経緯を経て、1977年4月23日付の朝鮮新報にて裴奉奇さんは自身の日本軍性奴隷制被害の実態を告発するに至ったのである。

投稿タイトルにある4.23アクションとは、在日本朝鮮人人権協会の一部会である性差別撤廃部会が主催する、裴 奉奇さんが朝鮮新報に戦時性暴力被害を証言した日であるこの『4月23日』に、裴奉奇さんを追悼・記憶し、そして在日朝鮮人という立場から日本軍性奴隷制問題について考えていこうとする活動のことを指す。2015年から始まった4.23アクションは今年で6周年になる。

以上の経緯で初めて日本軍性奴隷制度被害を告発した裴 奉奇さんだが、今回筆者が本投稿で訴えたいテーマは、裴 奉奇さんとこの6年間の4.23アクションを通じて、そして今年6年目の4.23アクションとして公表された金 賢玉さんの二本のインタビュー証言動画(2020年5月6日まで期間限定公開)を鑑賞して、自身がこの間ずっと思ってきた筆者の現在進行形のテーマでもある。
それは『何故、私たちは”裴 奉奇さん”を忘れてしまったのか』ということだ。

「なぜ忘れてしまったのか」ー裴 奉奇さんの「不可視化」を巡って

作家の徐 京植(ソ キョンシク)氏は、同じく在日朝鮮人で日本軍性奴隷制被害者であった故・宋 神道(ソン シンド)さんの国家賠償請求訴訟の最中、1998年5月の自身の文章でこのように綴っている。

「…一九六五年に刊行された朴慶植(パク キョンシク)氏の名著『朝鮮人強制連行の記録』を、私は高校生の時に読んだ。だが、同書にある「慰安婦」に関するこんな記述は、つい最近まで私の記憶から消えていたのだ。恥ずかしいことである。
…[中略]…
解放後(日本敗戦後)も在日朝鮮人の間で、「慰安婦」をめぐる記憶が語り伝えられていたことがわかる。わが家に出入りした同胞たちの話題にもなったことだろう。ただ低い声で語り伝えられるだけの、姿も形もない「慰安婦」。ー 彼女らの運命に私の母がどれくらいわが身を重ね合わせていたかは、ただ想像してみるほかない。」(引用「母を辱めるな」『日本リベラル派の頽落』高文研、P293~294)

ここでは「慰安婦」という少女たちの存在が眼前に現れるまで、自身の「記憶」から忘れてしまっていたことを恥じているが、注目したいのはこの中で徐氏自身が指摘しているように「「慰安婦」をめぐる記憶が語り伝えられていた」だろうが、それは「ただ低い声で語り伝えられるだけの、姿も形もない「慰安婦」」であったということである。

筆者は徐氏のこの指摘に理解する/できる反面、ある一つの疑問点を拭いきれない。それは致命的な疑問点である。誤解を恐れずに直截的にその疑問点を言うのであればこうだ。すなわち「果たして本当に人々の中で「慰安婦」の記憶は語り伝えられていたのだろうか」

確かに裴 奉奇さんを知る人々がいなければ、裴さんの存在自体私たちが知りうることは無かったし、裵さんにwith youした人々が沖縄に存在したという事実そのものを決して忘れてはならない。

だが先にも触れた通り、裴 奉奇さんが史上初めて日本の地方新聞に戦争被害を告発したのは1975年の10月22日であり、朝鮮新報で日本軍性奴隷制被害を具体的に証言したのは1977年4月23日である。
こうして見ると、少なくとも1975年10月22日には日本社会で日本軍性奴隷制問題が明るみになったと言えるし、在日朝鮮人社会では1977年4月23日にその凄惨な実態を記事で目の当たりにしているはずである。

つまり、裴 奉奇さんのカミングアウトから1991年の金 学順さんのカミングアウトのまでの「空白の14年間」、裴 奉奇さんを接していたはずの日本社会並びに在日朝鮮人社会が重大な反人道的犯罪である日本軍性奴隷制問題を不可視化してきたというリアルを浮き彫りにするのではないか。

また、琉球大学の呉 世宗(オ セジョン)氏も同様の指摘をしている。例えば、沖縄における「慰安婦」の不可視化についてこのような一節がある。

「沖縄の人々の幾人かは、裴 奉奇と交流を持った。しかし宜野座由子が「沖縄戦のときに、朝鮮から女性たちが連れてこられ、日本軍の性奴隷とされていることを見て見ぬふりをし、四五年以降も彼女たちを無視し続けてきた沖縄の人たち。私たちは自分たちの差別体質を棚に上げたまま、日本政府に対して差別するなと言ってきたのではないだろうか。」と述べたように、「見て見ぬふり」というのが裴そして「慰安婦」に対する沖縄での主たる対応であったように思われる。…[省略]…。これらのことに照らすならば、沖縄に設置された「慰安所」の地道な調査が七〇年代より始まっていた一方で、彼女の登場の衝撃は正面から受け止められずに、語らないという仕方で裴奉奇が、引いては「慰安婦」が不可視化されていたと言いうるかもしれない。…」(引用『沖縄と朝鮮のはざまでー朝鮮人の〈可視化/不可視化〉をめぐる歴史と語り』明石書店、P248)

その後も呉氏は、淡々と沖縄における朝鮮植民地支配そして日本軍性奴隷制被害の歴史をめぐる「不可視化」の力学の実相を描き連れていっている。この中では呉氏は決してwith youした人々を矮小化していないが、少なくとも沖縄でさえ他者に対する植民地主義の歴史の不可視化の痕跡を、その研究をもって証明している。

このように日本社会における歴史の不可視化構造が、裴奉奇さんのカミングアウトを私たちの記憶のなかで忘れさられたものとして機能した事は間違いないのではないか。それは恐らく在日朝鮮人社会も例外ではない。
それは在日朝鮮人社会が、その日本社会の内部に存在する共同体であり、絶えず日本社会の情勢に影響を受けて来たし、文化的・経済的作用と浸透が、在日朝鮮人社会と日本社会の双方になされて来たからだー不可欠な状況でもあったからでもある。

現在日本において、過去日本が犯した歴史的大罪と被害者たちの「記憶」「証言」を忘却しようと躍起になっている歴史否定主義・歴史修正主義勢力に抵抗する意味を考える上で、この裴 奉奇という問いは決して避けて通ってはならないのである。

分断された「私たち」に繋がる力をその手に

何故忘れてしまったのかーーこの問いに対する理由・背景をある在日朝鮮人の先達は「冷戦構造と家父長制のなかで、その存在を不可視化してしまったのでは」と言い、またある先達は「戦後沖縄が「本土復帰」するまでGHQ占領下であったという歴史的地域性がそうさせてたのではないか」と推測として語ったことがある。
なるほど、確かにそれはそうなのかもしれないと腑に落ちるところは落ちるが、それも果たしてそうなのだろうか。「忘れてしまった」という問いに対して、それだけで説明できていないように思えるし、またそう片付けてはならない要因が他にあるように思える。

男性という優位的立場にいる者として、以上の推測をもって歴史を理解する/片付けることは、裴 奉奇さんの苦難の生を、それこそ「忘却」することになり得る。特に、この歴史の片付け行為を担当する者が男性である場合は、その片付け行為が、男が女に欲して止まない「免罪符」を受けるに等しい波及効果を生むだろう。

少なくとも、筆者を含め私たちがそのような背景・理由を並べて推測してみても、現に「裴 奉奇」という存在を頭の片隅にすらいないものとして記憶していなかったこと、忘れてしまっていたことに変わりはない。それに「私たち」から分断され、忘却された存在として扱われた裴 奉奇さんにとって、たまったものではないはずだ。これを赦しても良い道理があるはずもなく、「裴 奉奇」という名の問いは、道徳的・倫理的要請からして、そんなことでは決して赦してはくれない。

だが実のところ、この問いに対する明確な答えは、現時点の研究状況において根拠となるべき素材が少なすぎるが故に、これ以上展開が難しい。この投稿で論じてきた身として歯がゆい思いだが、このような問いは勇気ある在日朝鮮人と日本の先達たちの中で絶えず繰り返されて来た問いである。この問いは、「私」一人だけの問いでもなければ、彼/彼女らだけの問いでもない。これは私たち皆が負っている共同の問いである。

この不可避な問いー何故、裴 奉奇さんを忘れてしまったのかーをこうして投げかけるところの意味は、「分断」と「忘却」の憂目をあった裴 奉奇という不可視化された被害者のみならず、現在も存命する歴史の表舞台に立った日本軍性奴隷制被害者たちの生、そして在日朝鮮人をはじめとした全朝鮮民族、引いては人類が報われる世界を築くことに他ならない。4.23アクションは、裴 奉奇さんがカミングアウトした4月23日を記念日に、ただ裴 奉奇という被害者を追悼・記憶するだけでなく、その過程を通して、分断された裴 奉奇さんと無数の「私たち」を再び繋げる為の、そして全世界の被抑圧民族・人民と性的マイノリティたちと連帯して新たに繋がっていく為の、その思想回路を、力を模索し、それを人々に問いかける運動の一つだ。
未だ6年目でまだ小さいその問いが投げかけているその力は、その道徳的・倫理的要請から「私たち」が決して逃避せず真摯に向き合っていけば、必ずや私たち人類の手で正義の鐘を鳴らすことが出来る。ただただ筆者はそのような未来を切に望むばかりである。

長くなってしまったので投稿を終わりにしたいが、投稿中で紹介した今年の4.23アクションの一企画であった金 賢玉さんのインタビュー証言動画を下に添付しておくことにする。
本来は今年4月23日に開かれるはずだった4.23アクションイベントが、残念なことに昨今のコロナ情勢によりイベントが延期した為、動画を期間限定でYouTubeにてアップされた。
貴重なインタビュー証言であるので、皆にはこれを機にぜひ動画を鑑賞してもらいたい。

「沖縄の総聯活動家として裴奉奇さんに出会って」ー 証言編・ゆかりの地訪問編(2020年5月6日まで期間限定公開)


※最後まで読んでいただきありがとうございました。
本投稿は急いで書いたものです。その為、投稿における事実関係と論理展開において誤認ならびに飛躍があるかもしれません。見受けられた場合ぜひ指摘してくれると幸いです。慎んでお詫び申し上げます。


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