【ショートショート】レモンとおじさん(2)〜はじまりの月夜に〜

暗い、暗い夜の海

一筋の光が、揺れている
その先に、浮かぶのは、月
まんまるく、黄色い光に
見惚れていると、吸い込まれるよ



一隻の、小さな船が海に出た
オールを握る、おじさんの手
ゆっくり、ゆっくり、漕ぎ始める

沢山のものと出会い、育み、慈しんできた
そうして蓄えたものたちに、ひとつずつ、さよならを告げる、そんな旅

潮が満ちて、引いてゆくように

悲しいことではない
進むことでも、戻ることでもない
ただ、そうしなくてはと、おじさんは思った

それでも時々、気まぐれな風が
淡い記憶を、切なさを、運んでくる
その度におじさんは、静かにオールを握る

おじさんは、レモンを見つけた
台所に、ころんと放り出されたレモンを
そして思い出した、色々なこと
新鮮な日々を
さわさわと揺れるように、
時が流れてゆく日々を

おじさんは、上着を羽織って、家を出た
ポケットに、葉っぱが一枚くっついた、
レモンを入れて

おじさんは、レモンが酸っぱいことを、知っている
おじさんは沢山のことを知りすぎてしまった

でも、実際にかじってみたことはない

おじさんはポケットからレモンを取り出して、固い皮を剥いだ
そして、一口、小さく齧ってみた



潮が導き、船は進む
オールの先が、月の光に
そっと触れた

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?