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望みはたったひとつ、自分自身でいたいだけ

2017年頃から、自分の作った歌をライブで唄う気が起きず(シンガーソングライターとしてあるまじき姿である)、カバー曲を入れて御茶を濁していた。

そのうちの一曲が、佐野元春の『コヨーテ、海へ』だ。

当時の私は骨太なイメージを打ち出していなかったので、なぜその選曲かときょとんとされていた。とくに好きだと挙げているアーティストでもなかった。


その頃の私は、行く先々で求められるものにうんざりしていた。

どうして素直に人のアドバイスが聞けないのか、といわれてきた。音楽でも、それ以外でも。

何者でもない私を何者かにしたい、それも愛情なのだとは思う。

しかし、奥歯に物を詰めたように「それも悪くはないけど」と、そこにある私を否定してから「もっとこうしたら」と語られることを、素直に聞けない自分を責める気にもなれない。

彼らの提示する”正解”ははっきりと目に見えていた。

歌謡曲のレパートリーを増やし行儀よく唄えば、荒々しくロックンロールピアノを弾けば、あるいは音楽など形だけで美しく着飾ってニッコリと微笑めば良かったのだ。


私はそのどれにもなりたくなかった。


この曲を知ったのは実はthe pillowsのカバー(フロントマンの山中さわお氏が佐野氏の熱心なファンなのだ)からだったのだが、当初はあまりにも長く、眠たげな曲調からあまり好きになれなかった。

ある時、ぼんやりと聴き流していたときに、歌詞の意味がはっきりと入ってきたのだ。

淡々とした伴奏に乗せて、社会に対するぼんやりとした失望が描かれている。もはや自分にはどうしようもないことを、嘆くことすら諦めてしまったような気配も感じる。

いや、自分の力で変えていけることがあると思うこと、それこそが「あてのない夢」なのだ、そんなものは「捨ててしまえ」と、この歌はいいたいのだ。

変えようと足掻くことをやめて、そこに佇んでみる。良いことも悪いことも、それが現実だと、静かな目で見つめてみる。

言葉にすれば簡単でも、そうあるのは難しい。

立ち止まることは、相対的に世界の速さを知ることでもあるからだ。焦らずにはいられない。曲がったものを見れば、正したくなるのが人の性でもある。

頑張りさえすれば理解されると思って生きてきた。あれこれといわれるのは、自分が足りないせいだとも思っていた。

自分の歪みがとれれば、世界と上手に交われるはずだと思っていたが、それこそが当てのない夢だった。叶うはずなどない。

私は私でしかいられないのだから。この歪みも含めて。


以前のライブ動画を見返して、なんとも不安定で自信のない演奏に苦笑してしまった。これでは曲の良さも活かしきれていない。

自信がないからこそ、この歌にすがりたいという気持ちはよく現れていたけれど。

誰かの期待に応える自分になる、という夢を捨てるのは怖かったし、今でも怖い。

自分の心に従うことは、周囲を怒らせ、失望させることだと学ばされてきたからだ。


今でこそ私の感性をありのままに評価する人も増えてきたが、これは単に今の私と、彼らの感性がちょうど交わっているだけに過ぎない。

私や相手がこの先変化していけば、関係も変わってしまうのだろう。

いつかは彼らのことも手離して、新しい場所へ向かうことも肯定しなければならない。

それでいいのだ。

永遠などない。何が起ころうと今を生きていく、それだけだ。

執筆活動で生計を立てるという目標を持っております!!