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もっとシンプルになりたいんだ

いつもの通りのまとまらない文章、支離滅裂、面倒くさいやつ。とにかく書きたいように書く

なぜ、君のことが好きだというだけではいけないのか。
なぜ、君に会いたいと素直に言ってしまうことが憚られてしまうのか。

いつだって「君」の対象はたくさんいるわけではないけれど
ぼくの周りにはいつも誰かしら、魅力的な「君」がいる。


出会ったばかりであろうと、君たちの魅力に抗うことはできない。
僕にはないものを持つ君たちは、いつだって美しく、魅力的で、素敵だ。

そんな単純明快な事実を拒もうとするのは、僕は君にとっての何者でもないのだとか、君には他にもっと魅力的な「君」とする対象がいるはずだとか、僕はその君にとっての「君」には勝てっこないだとか、君の生きてきた歴史背景に想いを馳せてはセンチメンタルな気分になってみたりとか、君はきっと僕を軽んじているのだろうだとか、、
どうしても自分の価値を下にして傷付くことを回避させなければ、自分が壊れてしまうような気がしてしまうからだ。

君たちに愛されない僕自身を、はじまりもしない前から決めつけて泣いている。

もっとシンプルになりたい。別に愛するか愛さないかというのは僕にコントロールできるところではないのだし。

だけれど、僕は、いつだって君たちのことを愛している、愛してしまうんだ。こんなにも愛おしく想い、いつだって助けになりたいと願い、抱き締めたいというのに、、同じように愛してもらえないことを理解できないことがつらい。きっと、辛くなってしまう。

欲求を満たす、というただそれだけのことに意味や価値を見出せないのは(なにごとにおいても意味などどこにもないことを前提としても、それを見出していたいと願うのは)、
ただただひたすら欲求を満たすだけの機械的な行為が、どこまでも無味乾燥で面白みが欠け、色もなく、寂しいことであると感じてしまうからだ。そういったものというのは、別の誰かや何かで代用がきいてしまうということがまた虚しい。自分である必要がないならなぜそれを自分がやるのか?またそこにも意味や価値を見出す自分が存在している。

欲求を満たすその瞬間というのは、確かに満たされたような気にはなる。
しかし、食べれば食べるほどもっと食べたいと頭でっかちに感じてしまうように(それは本当に腹を空かせているのではなく気持ちが欲しているに過ぎない状態になってしまうように)、もっともっと心地よい領域に、深い場所にたどり着きたいと、どんどん貪欲になっていってしまう。



貪欲であるということは、まだまだ足りないのだと渇望してしまうことであり、不足感を持つということは、今ある豊かさに目を向けられない貧相な心になっているということだ。まるで乞食みたいだ、食べても食べても栄養失調で、足りないような気がする。本当は食べなくたって十分豊かであることには気づけない。不足感を元に欲求を埋め合わせようとすることには、果てしなく終わりがない。

今目の前のものに満足できず、もっと欲しい、愛されたいという前に、今の自分や現況に感謝をする心を忘れてはならない。感謝は心の余裕を生む。逆に言えば、なにごとにも無感動になりがちで感謝できず愚痴ばかりため息ばかり吐いてしまうようなときは心の余裕がないときだ。

こんな事を書き連ねている時点でまったくもってシンプルではない。
シンプルではいられないからこそ、シンプルさを望む。思考が人よりも複雑かつ多方向へ広がって雑多になりやすい自覚があるし、それに苦しんできた。

信念があるとかないとかそういう話ではなく、単純に自分や現実に対して常に懐疑的な感覚を持って生きているということだ。懐疑的になってしまうことが、まるで一貫性がないような、芯のないような風に見えてしまうのだとすれば、またそれも悲しいことだと思うが。こういう人間なのだから仕方のないこと、とも思う。


振り切れてる人って、振りきれることができてしまう人って、良い悪いは置いといても、羨ましい

だから、さも自分が100%正しいかのように振る舞ったり発言したりする人たちに対して、思慮が浅くて身勝手で酷いなと思う反面、ここまで分かりやすく自分はこうだ!と言いきれてしまうどこまでも疑う余地のない一貫性のあるシンプルさに、羨ましさを覚えたりする。

(わたしは仕事柄、某コールセンターのオペレーターと客とのやり取りの履歴を見ることがあるのだが※わたしはオペレーターではない、クレーマーと呼ばれる人たちのあまりの振り切れた逸脱が気持ちいいぐらい頭おかしいな、マジで心底軽蔑するけど、すごいな、ここまでいけるって逆に羨ましい、と思うのだが、それに近いものがある)

人と人との中で生きている以上、正しいか正しくないか、の広義としての尺度ってどれだけ大勢が賛同するかに依ってくる部分が大きいと思うし、それが秩序だし、秩序が保たれることで平和だとか安全が担保されているところがあるので、大勢の正しさに依ろうというのは人としてものすごく真っ当なことだと思う。

それを、疑うことなく実装できる「賢さ」ともいえるし、疑うことを知らない「愚かさ」ともいえるが、疑心を持つにしろ持たないにしろ、一貫性を持ってそれを信じることができるそのシンプルさ、分かりやすさは僕にはないものだ。


人間そんなにシンプルなものではないんだ、もっと複雑かつ自由で可能性ある存在なんだ、とどこかで僕自身思っているのは否めない。世界というのは、自分の思った通りにそこに存在するものである。ただ、自分の見方や捉え方によっていかようにも左右されるものだ、だのに、僕ってば自分で自分の世界を生きづらいしんどいものにしているというほかにはないのだよな。おバカッ



複雑であることや、自由を手に生きていくと決めることの”社会性”からみたときの生きづらさを思うと、もはや死んでしまった方が楽に思えたりすることもある。

いいや、死にたいなどといっているのではない。別に死にたいなんて思ったことはない。こんなに生きづらく気持ちが悪く不調和でしんどいのなら、死んでしまった方が楽だ、と、逃げたくなるだけなのだろうと思う。

死にたい、ではない。一時的ではあっても必ずまたやってくることが分かっているこの終わりの見えない生きづらさ、どうしようもなさ、無力感、孤独や虚無感。

いっそのこと社会性からどこまでも逸脱して、独りであることの覚悟をしてしまった方が呼吸はしやすかろう。誰かに愛されることを望んで儚く砕けていくことも、理想的な人物像やライフスタイルや生き様を表現できない自分の悉くの劣等感も、何もかも打ち捨てて吹っ切れてただ地球の上を闊歩していたいなどと思ったりもする。

足掻いて苦しいうちはどこにも行けっこなさそうな気がする。
行けっこないなんて決めつけているのも自分だが。


母の偏見、そして僕もまた偏見を持っている。お互い様

母と妹も実にシンプルでいい。羨ましい。
シンプルな人間は偏見を持つことも厭わない。正確には厭わないのではなく、それが偏見だということを疑いすらできないほどにシンプルなのである。自分は至極真っ当で正しいことを述べていて、お前が間違っているのだということを真っ直ぐに言えてしまう。
そんな風な僕自身の解釈も、偏りがあると思われるかもしれない。
でもシンプルに真っ直ぐこの解釈にたどり着いているわけではなく、ああだこうだと紆余曲折の道筋を経てこの現段階の結論に至っている。

彼女たちはわたしが月に一度程度しか実家に帰省しないことをさも悪いこと、家族に対する思いやりのないことのように言い立てて、僕を責める。

父が自死したという事実が存在する実家に帰ることに対して、まったくの抵抗感がないわけではない。
父の自死に対する自分の様々な感情だとか、それだけではなく母のわたしに対する否定的かつ批判的な態度であるとか(これはもう幼いころから彼女の変わらぬ部分であるためどうにもならん、言って変えてもらえるような容易なもんでもない、それは彼女の態度を否定的と受け取って傷ついてきた繊細な自分のことも同じことがいえる。またそれとは別に、その否定的かつ批判的な態度があることがわたしへの愛がないということと同義とは思ってはいない)、実家に帰ったところで無益に長い時間を過ごしてしまいがちなこととか。

そういう実家に対して精神的な部分で少し距離を置きたがるような心持ちのある僕の思いを度外視しなければ、どうして責め立てるような言い分をあてつけ続けることができようか。

もちろん、僕がその思いを明け透けに表現することなどするはずもないから、人の考えなど見えない分からないから仕方がないというのはわかるが、そういう思いがあるかもしれないことに想いを馳せる余地のない精神性が甚だ僕には疑問なのだ。

彼女たちが思いを馳せようとするタイミングはいくらでもあった。だって僕は、家族に想いがあることも、キャパシティがそう広くないことも、僕のできうる範囲で帰っているのだということも、ちゃんと伝えている。その上で頻度的にむかえない理由が何かあるはずだとなぜ思えない?思いを至らせることができない?

家族のことは好きだ。大切にも思う。仲も良い。
けれども、その思いが実家に帰る頻度で、たかだか文章のやり取りに過ぎないLINEへの反応で、推し量られて評価されるのって一体何なんだろう。
そんなもので僕を、僕の態度や精神性を、決めつけないでくれ。大切なことは大切なときにきちんと話せばいい。家族なんだから、そう思って、もっと肩の力抜いてリラックスできる関係性でいたらいけないの・・・?

こんな風に思う反面で、僕は僕で彼女たちの思いを理解できないところに在って、思いを馳せることができない感情や状況が存在しているのだろう事も分かっている。でもそんなこと当たり前じゃないか。他人のことなどわかるわけもない。

分かって欲しい、そういう期待がお互いにあることは認める。関係性がある以上、期待が生まれるのは致し方ないことだ。嬉しいことでさえある。そこに愛があればこそだからだ。
でもそれを分かってもらうための努力(たとえば話を聞くとか、自分の意見や考えを伝え合うとか)をするのではなく、するにしてもそれをする前の段階から、端から決めつけて自分の価値観で推し量って不躾に言葉を投げつけて終わらそうとするその態度が、悲しくて痛くてより一層に僕を実家へ赴く足を遠ざからせているのだ。

僕は母の、あのヒステリックで強迫的な物言いや、煽るような否定的な態度がどうにも合わない。あんなの、合う人などいないにきまっているが。
本当に毎回嫌な気分がする。もちろん常にずっとそんな状態でいるわけではないのだが、自分が特に期待していたり意識を集中しているような事象に対して子どもが思ったように動かないことがあると、本当にヒステリックになりやすい。他人にそうなることは無かろうが。
兄弟の中でも問題児だったからか、長女だからか、あるいは母自身と似ているところが多いからか、僕に対する執着は特にスゴイ。
僕がこんなふうに繊細でおセンチになりやすい人間でなければ、母の言動を他の兄弟のように「やれやれまたはじまった」と受け流すことができたのだろうか。

本当は母と腹を割ってたくさん話したいことだっていくらでもある。けれども、僕の思考や生き方に対して賛同的でなかった母、今もそうある母に対して、僕がいわゆる「普通」から逸脱しやすい生き方を示したところで、母の価値観の中では認められない部分もたくさんあろう。そういうことは、もう少し僕自身に余裕ができてからやりたい。(こんなん言っている間に、ジジイのようにあっけなく死んでしまうのかもしれないが。やれるときに、やれることをただやることしかできないんだよ、どんなときもね)


いわゆる「普通」の人間だったなら、こんなどうしようもない細かいことをああだこうだと考えることもなく、帰りたいから帰る、帰れないときは帰れない、面倒な母親の言い分はシンプルに気にしないで自分のタイミングで要領よくちゃんと帰って態度を見せる、など出来たのだろうななどと思うと、やはりなぁ、シンプルで分かりやすい人間で在りたかったと思う。

僕のこの思考体系が、どこまでも話を、世界への認識を、拗らせてゆく。
拗らせた領域の分、僕は気持ちが悪い。
何もかもを捨てたくなって、吐き出したくなって、吐き出せなくて、何もできずにまた一日が終わってゆく。

もっともっとシンプルであれば、自分のこの無駄に繊細なところだとか、自分自身の複雑さに疲弊してしまうこととか、複雑ゆえに面倒が勝って結果的に上手いこと考えられなくなることとか、疲れすぎてしまうこととかすべてもっと軽やかに生きていけるだろうに、と。



ここでがちがちに凝り固まった意識の柔和

しかし悉く、自分の生活を厄介にしているのは、すべてを認識して意義付けている自分自身に他ならないのだから、改善の余地は大いにあるわけだ。シンプルな思考ができることはないかもしれないが、思考だって感情だってパターン化されたただのクセに過ぎないのだから、もう少し望ましい思考形態を身に着けることだって不可能ではないはずなんだ。

自分自身への認識然り、母への認識然り、決まりきったものではない。単に今ここに生きている自分がそう解釈しているだけに過ぎない、実体はなく、どこまでもぐらぐらと揺らぎ続けている世界。

再定義を繰り返していこうと思う。
いうなれば思い込みで出来上がっている世界。それから自分。
思い込みにとらわれ過ぎない。捉われ過ぎた結果として自死はある。
現に逃げてしまいたい、とか、虚無感を既に持っている僕自身がそれを物語っている。
現実はすべて自分が作り上げている虚構、妄想に過ぎないときちんと気がついたとき、じゃあ一体どんな虚構を描いてやろうかともっと楽しめるんじゃないのかしら、と思う。

正直、さっきから僕はスピリチュアルじみた話をしている。

しかし目に見えない存在とか宇宙がどうたらとか、引き寄せの法則~とかをそれそのまま言ってるんではない。
脳科学だとか量子力学だとかで説明のつくことから自分が納得したことが、いわゆるスピリチュアルと紐づいているということが、きっと真実なのだろう、と、僕の中で信じているという話だ。語彙力どない。ダイジョブそ?w


でもまあ何が真実なのかも、それぞれが決めていることに過ぎないので、別にふぅんと思ってもらえればいいのだが、というか、ここまで読む強者もなかなかいなかろうが、

真実かどうかはさておいても、自分の中で世界はフニャフニャで自由自在に実は好きなように変えていけるわけよ、実はね。って思えていた方が、夢があって良いし、この苦しみも実はまやかしなのかもしれんな、と思えたほうが、生きづらさもだいぶ和らいで生きていられるわけだから、いいじゃんね。あと問題なのは、その僕の中の真実をいかにして僕の現実に反映させるのかという話。

スピリチュアルに目覚めて願望実現がうんたらかんたら!とか、〇〇を▮■したらこんなに幸せになれた!などという胡散臭いサクセスストーリーを描くつもりも描けるという思いも甚だないが、そういうわくわくする方向性で呼吸して居てもいいかもしれんね、という意識はあるので、

余裕がないことも苛立つこともままあるけれど、きっとダメになってしまうことはないと思っている。説明がつくことばかりの世界ではないし、人間という生き物が生まれ出た神秘みたいなものも、たぶん科学で説明しきれない領域がまだあるでしょう、それでいいんだと思う。そういう余地というか余白というかが残っている方がいい。だって「絶対」とかの決まりきったことが何ひとつないということだから。

どこまでも自由な方向性を意識していこう。


大丈夫、シンプルにはなれずとも、楽しく幸福な人生は続いていく。
苦しみやもどかしさも含めて楽しんでゆくのだ。

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