見出し画像

深読(13) - 性癖と世間と人間関係

深読みしたがりによる脳内言語化エッセイです。

性癖について

「性癖」ということばを本来の意味で使っている人がどの程度いるのか分からないが、性欲と直結させた表現はかなり新しいもののようだ。「異常性癖」といった表現が指すような内容だけを指しているわけではなく、広義の「癖」「偏り」を意味しており、本文中でもこちらの意味を採用しているのでご注意いただきたい。

社会性と性癖は、対義語のように認知されている。性癖を自覚的に抑え、よそ行きの仮面をかぶることは社会性の発露と考えられ、一般的には人間が物心つく頃から備わってくる。

社会は一切の性癖を認めていないかというと、そうとも限らない。
個性や特性として包摂し、フォローが行き届いたサービスはたくさんある(高額な場合もあるが)。または精神障害の一種として公的補助がおりる場合もある。

ただ、特定の性癖に対する「世間(あるいは世論)」の内心は冷たいままかもしれない。

ちなみに、社会も世間も共同体を意味しているが、微妙にニュアンスが異なる。
社会は外向きでグローバルで建前によって塗り固められ、世間はより内向きで排他的で本音にまみれている。 新聞の「社会」面はクリーン志向で、「世間」話はたいてい下世話なものである。

「社会」的に認められる。
「世間」が許さない。
社会と世間を逆にすると、妙な違和感を覚えるのは私だけだろうか。

世間について

「世間様」という言い回しがある。だが、世間は社会の流れにはあまり逆らわない。また、時には逆に下から社会を突き上げることもある。その意味で、世間は社会の下位概念といえるかもしれない。

あくまでも体感的なものに過ぎないが、都条例でLGBTへの差別が禁止されると、同性愛をあからさまに揶揄する人は減った。それどころか、LGBTをあげつらうことはタブーとなり、いまではそれをやってしまった人が(主にネットの)世論によって炎上の憂き目に遭い、雑誌がひとつ休刊するほどの騒ぎになった。
世間様は、そのくらい手のひら返しのうまい日和見主義者である。

世間様は批評家気質でいつも批評・批判・野次・嗤いのネタを探している、人の性癖を嗤うことが禁じられれば、お次は人の性癖を嗤う者を嗤う。

世間様の構成員は、まずこれを書いている私。そしてこれを読んでいるあなた。その他大勢の、日本人だったり、〇〇(都道府県名)人だったり、〇〇(推しの名前とか諸々)派だったり、なにかしらの要素で連帯可能な人々である。
バンドのメンバー紹介風に言えば「ミー オン ヤジウマ、ユー オン ヤジウマ、エンド ユー オール、ウィーアー セケン」である。

程度の差こそあれ、大抵の人には野次馬根性が備わっている。マスコミはその前提のもとに商売しており、野次馬根性に火をつけるためなら手段を選ばぬきらいがある。その精神が過剰になれば、のちに裏目に出て、ヤラセだ捏造だと叩かれる結果となる。

人間関係について

世間も社会も振り切って、誰かの前で性癖をさらけ出すことができたとき、そこから親密な関係が築ける可能性がある。

あくまで「可能性」にすぎないということに注意していただきたい。
性癖さらけ出したら親密になれるよ!と断言することなど、口が裂けてもできない。

人間関係は、当人達以外の誰かによって保証されることはない。
ベストカップルもおしどり夫婦も友達親子も唯一無二の大親友も、野次馬の手によって適当に貼り付けられた、薄っぺらなレッテルでしかない。

私と誰かの関係は、私と誰かの関係以外のなにものでもない。
血縁や社会的手続きによってそこに親子やきょうだいや夫婦といった名称がつく場合はある。

そうでない関係性は、友達や恋人などと呼ばれるが、そこには「当人達の同意」以外に必要な手続きも、定義も、あるべき姿もない。逆に言えば、友情や恋愛関係など、本来であれば片方が冷めたら解消してよいのだ。

だが、そこで冷ややかな目を向けるのが、毎度おなじみ「世間様」である。さっきはバンドメンバーに喩えたが、もはや我々の心に棲まう妖怪か悪魔か、モンスターの類である。

まとめ

性癖は変えたくても変えられない場合がある。社会が許しても世間が許さない場合があるが、人間関係を切り拓く鍵となる可能性を秘めている。
あと「世間様」の正体は、人間の心に潜む妖怪。

次の作品への励みになります。