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常識を疑う

先日、ちょっとしたインタビューを受けた。

事前に聞いていた質問項目の中に「今の生活、今の自分になったきっかけ」というような項目があり、最初に見たときはなんとなく「2年前に仕事を思い切って辞めたことかな?」「辞める前にたくさんの人と会っていろんな価値観にふれたことかな?」と思っていた。

けれど、実際にインタビューを受けたときに自分の口から出てきたことはもっと前のことで、その答えに正直自分が驚いた。

それは、「10年以上前の教員時代に、学校に行けない・行かないという生徒たちと出会ったこと」だった。

なぜなら私は、その時の出会いと経験によってはじめて、「常識を疑う」ということの大切さを知ったからだ。

そうだ。疑うことによって、いまいるところから「一歩外の世界に出る」「違う立場の人の考えや価値観を聞く」という行動をおこすことができ、自分のいる世界は「広い世界のほんのひと部分」ということをあの時の経験から実感したのだった。

…当時、職場にいた校長は、いわゆる「不登校」の子どもに対し、「引きずってでも学校に連れてこい!」「怠けを許すな!」というスタンスの人だったので、私はしょっちゅう「自分が担任だった頃は布団をひっぺがして連れてきたぞ!お前の担任としての根性が足りないのだ!」と怒られていた。

しかし実際に家庭訪問をすると、とても怠けているようには思えないし、むしろ本人も悩んで困っていて、とても無理やり学校に来いと言える雰囲気ではなかった。

職員会議では毎回私に対して、校長サイドの先生方から「お前が悪い」「なぜ連れてこない」などと集中砲火だったし、ことあるごとに先輩から「どういう対応してるんだ」「あれはなんなんだ」と呼び出されていた。当時まだ20代の私には精神的に本当にキツい日々だった。壊れるかと思った。

それでもやっぱり、イヤイヤ連れてくるのはおかしい。あんな切ない目をしている生徒に「明日、学校に来るよね?約束して」なんて絶対言えない。引っ張って連れてくるなんてしたくない。

そんなある日、同僚の一人が、心療内科医やカウンセラー、心理士などと私をつないでくれた。私はそこで「現状のまま、無理やり学校に連れてくることは本人にとって何の解決にもならない」と、はっきり認識する。校長や生徒指導主任の常識は、職員室から一歩出ると常識ではなかった。

この経験があったからこそ、「何かおかしい」という違和感を大事にするようになったし、「自分の価値観や常識がおかしいのか?」「違う考え方や方法は存在しないのか?」と考え、行動するようになった。

常識を疑い、一歩外の世界で違う立場の人と話をする。それは自分の固まった価値観や常識を崩すこと、自分の選択肢を増やすことにつながっている。

ちなみに件の生徒たちは、何年かに一回くらいのペースで時々連絡をくれる。電話で聞く元気そうな声や、メッセージに書かれた懐かしい筆跡やその子らしい文体を見ると、とても嬉しくなる。他の生徒の近況を聞くこともある。

私が今、おかしな常識にがんじがらめにならずに、私らしく過ごすことができているのはそのおかげだと心から思う。本当にありがとう。私は大切なことを学ばせてもらったよ。私一人では絶対に気がつけなかったことを。

次はいつ誰から連絡が来るのかな。どうか皆、元気でいますように。

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