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その花が咲いた日(短編小説)

ぼくはある日拾われた。
ぼくを拾ったのは、まさよさん。

今、カチャカチャいわせながら、キッチンで皿を洗っている人。

「今日の味付けしょっぱくなかった?」まさよさんはぼくの方は見ないで言った。
「いえ、美味しかったです」
「ほんとに?」
「まぁ少しだけ、ほんとに少し」
「そうでしょ?桔花くん、言ってね味の好み」
「はい、そのうち」
「すぐでお願いします」
まさよさんは笑いながらぼくに返した。

まさよさんはお皿を洗っていたと思ったら、いつのまにかお茶を入れて、お盆にぼくのお茶とまさよさんのお茶を淹れた湯呑み茶碗を運んで、ぼくの前にひとつ置いた。
「はい、熱いからね」
もうひとつを自分の前に置いて、お盆は床に置き、コタツに入って、ぼくと反対側にあるテレビを見ながら湯呑み茶碗に口をつけた。

まさよさんはいつも食後にお茶を入れてくれた。まさよさんは熱いお茶がすきで、ぼくは少し苦手だった。湯呑み茶碗も待てないくらい熱いし、前に無防備に飲んだら口のなかをやけどした。だからぼくはいつも少し湯呑み茶碗はそのまま置いておく。時間をおいて冷ましてからお茶を飲んだ。まさよさんは、知ってか知らずか、いつも熱いお茶を出す。まさよさんは、食事の時、必ずテレビをつける。ぼくの顔を直視することはない。テレビの話をする時も、ぼくの方は見ずに、声だけかけてくる。そして自分が飲むと「さて、部屋にはいるね、湯呑みそのままでいいからね」そう必ず言って、コタツをでる。
ぼくはそのままテレビを見つめながら、やっと冷めたころお茶をすする。今日は味がわかる。美味しい。

ぼくは精神を病んでいて、薬を飲んで、その体調をコントロールしていた。が、うまくコントロールが取れず、オーバードーズ気味で、体がフラフラだった。先生に相談にいくにも、薬が効きすぎて眠くて動けず、薬をやめると鬱的な症状で部屋から出られず、どうにもならない生活を送っていた。今はネットで買い物ができたから、物は外に出なくても買えたけど、鬱になるとそういった簡単なこともできなくて、家から食べ物や飲み物がなくなった。身体が動かなくて、風呂に入れず、トイレも億劫だった。食べることも飲むこともやめてしまうので、とにかく薬は飲まないといけなかった。飲むと頭を誰かに支配されたようにモヤがかかる。気持ちの落ち込みはなくなるので心は楽になるが今度は身体が操縦しずらい。このコントロールのつかない生活が不自由すぎて、ぼくはもう少し適した薬に変えてもらうよう相談しに、ついに重い腰をあげて、オーバードーズでフラフラな身体を押していつも薬をもらうメンタルクリニックへ行くことにした。行くことにしたものの、人通りの少ない、線路沿いの道で、あるいている途中眠すぎて、意識を失ったんだ。

そして、まさよさんがぼくを見つけた。

まさよさんは、道で端に倒れていたぼくに声をかけた。

声をかけられてぼくは目を開けると、まさよさんがいた。まさよさんはぼくの背中を支えて身体を起こしてくれていた。なんでこうしているのかと、まさよさんが話しかけてくるので、朦朧とする頭で、ひととおり事情をはなした。するとまさよさんが「じゃあ、うちにこない?」と言った。

は?ぼくは頭が混乱した。ぼくもたいがいやばいけど、この人大丈夫か?と思った。
「い、いや」

まさよさんはにやりと笑った。
「わたしも猫みたいなのがいなくなって寂しかったんだよ。君が来てくれると助かる。誰かがいないとやる気が起きなくて、わたしも壊れそうだったんだ」

ぼくは朦朧とする頭でなんとか答えた。え?どういうこと?猫が死んだの?猫の代わり?
「でも、ぼくは何もできない」

「いいよ家事は全部やるし3食出してあげる。そのかわり家にある植物の世話をしてよ」

え?そんなことある?今のぼくはひとりでいたらのたれ死ぬかもしれないけど。でも。そういうことじゃなくて。と心の中で思いながら、空を見て、今のぼくのポンコツのあたまじゃ何も返すべき言葉を見つけられないでいた。

今度はとぼけた顔をして、まさよさんが首をひねってこう言った。
「えー?じゃあ、仕方ないから昼寝もつけてあげるよ。

「え?」
え?そういうことじゃなくてー。続きはことばにならない。

「え?何が不満なの?」
まさよさんはまた考えている。

「あ?部屋かな?大丈夫ルームシェア用の家じゃないけど、部屋はちゃんと分かれてるから」

「う、うーん」
なんか、ぼくが変なのかな?頭がぐわんぐわんまわってもう思考が塞がってしまった。

「じゃあ、いこう。ほら捕まって」その声だけ聞こえて、ぼくは彼女に連れて帰られた。
うーん、と言ったことばを了解ととられた?なんかもう、強制的に拉致られてる?でも、もうどうでもいいや。ぼくは半ば眠っているような意識のなか、まさよさんに担がれて引きずられていった。

こうしてぼくは、1日1回の植物の世話だけを約束に、まさよさんのうちで奇妙な居候生活を始めることになったんだ。



ぼくがまさよさんのうちに来たばかりの頃、ぼくは一日中部屋で何もせずうつろに空を眺めている日が多かった。

でも、まさよさんは、あまり干渉してこなかった。

ぼくが部屋を出ていかなければ、食事はこたつの上にラップがしてあって、食べるように催促もされない。一日中部屋から出られなくても、そうしてくれた。ぼくが動けなくて洗濯をいくら溜めてもまさよさんは何も言わなかった。パンツだけは洗ってもらうのがどうしても恥ずかしくて、身体が動かなくて洗えないときは溜めて捨てて、ネットで大量に買った。洗える時は自分で洗って大量に部屋で干した。

ぼくは圧をかけられることはなく、ただひたすらに淡々と毎日が過ぎた。

ぼくは、過度に干渉や期待をされない生活を得て、きちんと規則正しい生活を与えられ、静かな環境に精神の落ち着きを取り戻しつつあった。

植物の世話はなんとかした。ぼくが鬱症状で数日動けないと干からびて死にそうな時もあったけど、なんとか生き延びてくれた。

ぼくはこの植物たちを、唯一の友達、唯一の運命共同体みたいに感じ始めていた。こいつらにはぼくが必要だ。そんなふうに思い始めていた。

ぼくはここにきてからなんとかやれていた。くすりをもらいにいかなくても大丈夫かもしれないと思った。ぼくは治るかもしれないとたかをくくった。

くすりを飲まない日を続けてみると、次第にまた鬱的になっていった。順調に治っていたはずの体調が悪くなって、起きるのが億劫で植物の世話をひと月サボった。

でもぼくはある日身体がスッとらくになるのを感じて起きた。起きると部屋中の植物が枯れていた。ぼくは絶句した。

まさよさんがやっとでてきたぼくに向かって無表情で頬をびんたした。
ぼくはあまりの勢いと痛みで、頬に手を当てひざまづいた。

まさよさんは間髪入れずに続けた。
「植物の世話をするって約束したじゃない!全部枯らすってどういうこと?」
まさよさんは激しく怒ったと思ったら、崩れおちるように泣き始めた。

「ご、ごめんなさい。オレ、ここに来てすごく身体がラクになったから、薬がなくても大丈夫かもとタカをくくったんだ。それで薬を飲まない生活をしてみたら、起きられなくなった」

まさよさんは、その場にしゃかみこんで、まるで子どものようにあーあー、とかえーんえーんとか言って泣き始めた。

ぼくはどうしていいかわからず、立ちつくしていると、まさよさんは、ずるずると鼻をすすっていたが、鼻水が出る方が勝ってきて、四つん這いでずるずる身体を引きずって、自分でティッシュの箱を取りに行き、ティッシュをとり、はなをかんだ。そしてまた泣き始めた。

「まさよさん、ごめんなさい」
ぼくは正座をして、丁寧に頭を下げた。
まさよさんはぼくの言葉が聞こえているのか、いないのか、そのままただ泣き続けた。

まさよさんは嗚咽を隠さず泣いた。あーあーと声をあげながら泣いた。鼻が鼻水で呼吸できなくて苦しそうだ。たまにティッシュで鼻をかみながら、肩をうなだれて、ただ声を出しながら泣いている。

声を出さないと、傷の重みに心が耐えられないのをぼくは経験したことがある。こんな風に泣いたことがある。声を出して泣くことがほんの少し心を軽くすることを知っていた。

鼻が詰まって、声を出すと、呼吸も苦しくて、呼吸困難になりそうになる。それでも声を出して泣かずにいられない。そんな苦しみをぼくは知っていた。

だからまさよさんが泣くのをそのまま見守っていた。ぼくはただただ苦しそうに泣くまさよさんを見ていた。

ずいぶん泣いて、疲れたのか、はなが詰まって呼吸もしずらそうな声でこう言った。
「今日は桔花、出前にするね」

あれ以来、まさよさんはぼくの顔を見ると泣いた。声をあげながら、呼吸がうまくできなくて苦しくなりながら。ぼくはそのたびにそばいいた。ただ何もせず見守っていた。ほぼ毎日出前を頼むようになった。

次の週末も次の週末もそれは続き、だけど泣く時間がだんだん少なくなって、ついにそれは終わりがきた。

今日は声はあげず、静かに泣きながら、まさよさんはポツポツ話し出した。

「桔花、ありがとうね」

「え?」

まさよさんはぼくの瞳を見て微笑んだ。

「わたしのなくしたものは猫じゃない。人間だよ」
「……」
ぼくは返すべき言葉がわからず聞いていた。
「アレがいなくなってから、わたしも桔花とおんなじだった。ただわたしは仕事にもいけたし、家事もできた。ご飯も食べられたし、生活できた。ただ、とにかくひとりが苦しかった。苦しい、という表現が適当なのか、わからない。油断したら沼に足を取られて動けなくなる。そんな闇がうしろにいつもあった。泣きたくて顎がうわづる感覚がいつもあった。神経がすり切れて、そのままことキレて漠然とした大きな闇に飲み込まれそうだった。わたしは向き合わなかった。その感情を無視してとにかく平静を装った。だけど、君が来て、それは完璧に平衡を手に入れた。桔花がアレの代わりになってくれたから。桔花はアレに似ていた。口数が少ない。デスクワークでほとんど部屋から出てこない生活。植物を可愛がっていて、毎日水をやってくれた。ご飯は文句も言わず黙々と食べ、食後はゆっくりお茶を飲んだ。桔花がアレの代役を見事にしてくれていたから、わたしは向き合わないまま生活することができた。だけど、花が枯れた。それを見た時、ああ、何をしているんだわたしは。と思った。桔花はアレではない。桔花はアレではない。桔花は桔花だ」

そこでまたまさよさんはうなだれて泣いた。ぼくはティッシュを渡した。ぼくは何故そうしたのかわからないけど、ほとんど無意識にそうしていた。

まさよさんは、ハッと顔をあげて、ぼくを見つめていた。ぼくがいつもと違う行動に出てびっくりしたように。
「ありがとう」
「あー、桔花ってまつ毛長いんだね」
ぼくは目が合ったまさよさんから目を逸らした。
「初めて桔花の顔、ちゃんと見たかも」
「……」
ぼくは目を逸らしたまま下を向いていた。
「桔花、今日は何かつくるね」
まさよさんは泣き止んでたちあがる。リモコンをとってテレビをつけた。
「ここに……いてね」
ぼくは腰をあげようとしていたけれど、まさよさんにそう言われて、また座り直した。
「え?……はい」
ぼくは、つけられたテレビのニュースを見ていた。

まさよさんは、静かにご飯を作った。ぼくは静かにテレビを見ていた。まさよさんが、出来たご飯を並べてくれ、二人で頂きますと言って、ご飯を食べた。

まさよさんがいつもはご飯の時に見ないぼくの顔を見て笑う。「美味しい?」と聞いてきた。「はい」とぼくは答えた。「よかった」とまさよさんが微笑んだ。本当にまさよさんのご飯はおいしかった。派手じゃないけど、飽きない毎日食べられる味だ。だけど、いつもよりしょっぱくない。ぼくはそれは言わずに黙々と食べた。それからまさよさんといつものようにテレビを見ながらご飯を食べた。

ご飯を食べ終わるとまさよさんはいつものようにお茶を入れた。だけどいつもより時間がかかった。だされたお茶は、いつものように、ぼくは冷めるまで手をつけずに待っていた。するとまさよさんが、「飲んでみて」と言った。

ぼくは湯呑み茶碗をおそるおそる触ると、熱くない。ぼくはそのままお茶を口に運ぶ。ちょうどぼくが冷ましてから飲む温度くらいだ。「あれ?」
ぼくは思わずまさよさんの顔を見た。まさよさんはフッと微笑んで、合った目を逸らし、枯れた植物に目をやって話始めた。

「君がいなかったらわたしの方こそ、この世にいなかったかも」
まさよさんはゆっくり息を吐きまた話す。
「熱いお茶飲ませてごめん。あれはアレが熱いお茶が好きだった。テレビの時顔見なくてごめん。あれはアレがよくテレビ見ながらご飯食べていた。ご飯の味付けがしょっぱくてごめん。あれはアレがしょっぱい味付けがすきだった。アレが植物が好きで毎日かかさず面倒をみていた。きみは、桔花は、アレのかわりなの。自宅で仕事をしていたから、桔花の生活時間と全く同じ生活をアレは送っていた。わたしは桔花がアレのかわりをしてくれてこと切れずにすんだ。アレは、わたしの全てだった。でもいなくなったけど、アレはいなくとも、桔花がいた。アレといた生活はできている。いいじゃないか、そう思おうとした」

「だけど植物が枯れた。アレがいなくなってしまった。そう思った。わたしの平衡は崩れた。ショックで気が抜けて呆然とした。植物が枯れてから、何日も桔花を待っているうち、怒りが募っていった。アレがいなくなった全ての怒りを桔花に向けてしまった。殴ってごめん。痛かったよね」

ぼくはまさよさんが話すのを、申し訳ない気持ちで聞いていた。「いえ、当たり前です」そういうと、まさよさんはまた下を向いて話す。

「桔花は悪くない。わたしを助けてくれたんだ。植物は枯れてよかった。ほんとのことに向き合うきっかけをくれた。ひとりじゃ乗り換えられなかった。桔花がいてくれて、何も言わずにそばにいてくれて、だから泣けた。吐き出せた。きっとそうなんだ。ひとりじゃ抱えきれなかった」

ぼくも下を向いたまま、まさよさんの声だけを聞いていた。

まさよさんは言った。
「さて、お風呂に入って寝ようか。桔花、先入りなね」

「まさよさん」ぼくは立ちあがろうとするまさよさんに反射的に声をかけた。
「明日、何か花を買いにいきませんか?」

ぼくはこの部屋からまだ出たことがなかったけど、この人を元気にしてあげたいと思った。助けてくれた恩人に、何か気持ちが温まるものを。

まさよさんは今日一番の顔で笑った。
まるで花が咲くように。

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