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かぐやひめのジジイとババアの気分

夫に感じるそれと、娘に感じるそれには大きな差がある。
なんでだろう。

夫は、人生の伴侶であるが、伴侶っていうか、分身っていうか。
空気みたいに当たり前にそばにいるとかじゃなくて、もう少し存在感がある。

わたしの右手であり、左手であり、わたしは、彼の右手にもなり、左手にもなる。なんだか存在が混ざり合っているようなそんなとても近しい存在。

いろんなことをいつも話し合って、喧嘩したり、慰め合ったり、泣いたり、笑ったりしながらも、一緒に乗り越えてきたので、足音ひとつ、背格好ひとつ、呼吸の速さ、そんなものなどで、彼の機嫌や体調まで大体わかる。

ああ、寄生獣みたいな。もう混ざっちゃってるんだ。体に。
頭が二股の龍みたいな。うん。それだ。

更年期という幹線道路に車線変更中で、自分の性も失いかけているから、分離するのは頭だけ。そんな気になるくらい、近い。

娘は、いまだに、その存在が神様から借りてきた大切な何かの化身のように思うことがある。

それこそ、かぐやひめのジジイとババアの気分だ。
この子を責任を持ってなんとか素晴らしい娘に育てあげ、この子を遣わしてくれた神様に恩返しをしないと、くらいの気持ちになることがある。

夫との縁は、自分のくじ運がめちゃくちゃ良かった、ラッキーだったって言い切れる感じに比べ、娘にはよくぞ我が家に来られました。って神秘的な縁な気持ちの方が強い。

これってなんなんだろう。

不妊治療をして、それでもなかなか授からず、治療を諦めた時に、自然にポンっと妊娠した。そんな経緯があるから?それが娘の生命の重さや、尊さにつながっているのかもしれない。

授からない時間が長かった間の、子どもが自分に育てられるか不安なのに、子どもだけ欲しいって気持ちは、矛盾だらけだった。まるで、欲しいおもちゃが手に入らないのをごねてなんとか手に入れようと躍起になっているだけの見当違いの独りよがりのような気さえしていた。

子どもができてわかった。子どもが産まれてすでに親になっているわけじゃなく、月並みだけど、親になっていくんだな。と。

尊い経験の上に娘が存在しているからなのか?
言いたかったのは、そういうことなのか?

娘はそんな神々しい存在のまま、いつまでも守られるだけではなく、立派な我が家のチームの重要な一員になりつつある。自分の足で考えて、自分の気持ちで行動する姿に、自立を見ている。

ああ、そうか。今わかった。きみが姫様だったのは、自分でいろんなことがまだできない、小さな体だったからなんだね。

でも、多分いつまでたっても変わらないと思う。
死ぬまできみは我が家の可愛いお姫様だよ。

気持ちはそう思っている。
たまにしかゴロニャンしないサバサバした母でごめんて。
それは謝るよ。





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