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金物屋さんは、みんなの憩いの場所だった

68, mon père et les clous. 『68年、ぼくの父と釘』。

パリ5区のカルチェラタン地区に、モンジェ通りRue Mongeという有名な通りがある。その16番地に数年前まで、30余年間営業していた、Bricomongeという金物屋さんがあった。

店は地域の人々が集う、共同体のたまり場のようになっていた。自分で作った食べ物を持ってきて他の客に振る舞うおばさんや、コーヒーを何杯か入れてきて持ってくるアジア系の男の人。人種も様々な人々が、釘を買いに来たふりをして、そこには集ってはおしゃべりしていく。

名物店主ビジアウイBigiaouiさんは、お客さんの日曜大工の相談に乗り、何を買ってどうやればいいかと、店で教えてやる。気まぐれな自動ドアを開けるにはコツがいるような、昔ながらの店だった。

個人商店が立ち行かなくなっていく時代のあおりを受けて、この店も畳まれることになった。そこの名物店主ビジアウイさんの息子サミュエルさんは、この店の地下で、ごちゃごちゃしたモノたちに囲まれて育った。サミュエルさんはみんなのために、その最後の数ヶ月間を、映画に撮っておこうと思った。

いろいろ撮っていくうちに、だんだん映画の筋が見えてきた。それはお父さんつまり店主の人生だ。ビジアウイさんは、おそらく1940年前後に生まれ、1968年のパリの学生運動、五月革命の闘士だった。ともに闘った仲間は、映画作家、作家、思想家、大学教授などになって、活躍している。

ビジアウイさんも、高い教育を受けたインテリだった。それがなぜ金物屋をやっているのだろう?とサミュエルさんは思ったのだ。

プロレタリアートの活動団体が解散した後、ビジアウイさんは、文明の発展とその不平等についてドキュメンタリーを撮り、国際平和賞やレーニン平和賞を受賞した映画監督、ヨリス・イヴェンスの、アシスタントをやっていた。それがなぜ金物屋をやっているの?息子は質問する。

お父さんはそういう質問に、簡単に答えるようなひとではない。ちゃんとフルタイムで仕事をしなけりゃならないからな、とかれは言う。当時の同志の友人が、店の地下でふと、運動は挫折して、おれたちは体制から外れてしまったんだよ、と打ち明けた。

時代の波にさからえず、畳まれることになったこの店はしかし、まさにビジアウイさんがそのために闘っていた、庶民の憩いの場所になっていた。人々はここへ来ては、哲学や映画や政治について、語り合った。撮られた映像が、取り壊されている最中の店の中に、即席に造作されたスクリーン(かけられた白い布)に映されるのを、お客さんたちが立って見ている。まさに彼らが映っている、彼らのための映画なのだ。

息子のサミュエルさんは数学の教師だが、レジデンスアーティストの選抜に合格し、この映画を撮りあげることができた。ドキュメンタリー映画監督のアシスタントをしていたお父さんを題材に、自分がドキュメンタリー映画を撮り、それが今街の映画館で、一般公開されている。

人々の生きる尊厳を、まったく声高なところなく、まさに金物屋という庶民の場所から淡々と映し出している、すてきな映画である。

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