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ある女流作家の罪と罰:他人のアイデンティティをまとっていますが、何か?

『ある女流作家の罪と罰』(Can you ever forgive me?)のポスターを、よく見かけるようになった。最近ロンドンの映画館で、一般公開されるようになったのだ。この映画は、ロンドン・フィルム・フェスティバルの、目玉作品のひとつだった。

フィルム・フェスティバルの映画は、なんとなく選んで観ても、どれも驚くような面白さだったが、特別な余興(headline gala)であったこの映画は、たしかにその中でも、かなり良くできていた。

主人公を演じたメリッサ・マッカーシーは、アカデミー主演女優賞にもノミネートされた。日本では夏から、DVDとデジタル配信がされるようである。

原作はアメリカの伝記作家、リー・イスラエルの自伝。往年の大女優であるキャサリン・ヘップバーンをハリウッドに訪れた彼女は、そのメモワールを雑誌に書いて成功した。それから数冊のセレブの伝記を書いたが、エスティ・ローダーの伝記の仕事を請け負ったことで、いざこざが起きた。

彼女の作家としての評判は、地に落ちた。彼女の本は二束三文で売られ、原稿を書いても、金にならない。アル中になり、家賃も払えず、ベッドの下には飼い猫の糞が、溜まっていた。

そんなある日、ヘップバーンの手書きの手紙を見つけた彼女は、それを売って結構なお金を手に入れた。内容がもっと面白ければ、もっと高く売れる、と言われた彼女は、ほどなく、セレブの手紙を捏造するようになってゆく。

興味深い点は、ここである。つまり、

「リー・イスラエル」の名前では、売れない。
しかし彼女はじっさい、才能ある「フィクション」作家だった、


ということだ。長年セレブを取材してきた彼女には、かれらが書きそうで書かない、ファン垂涎の面白い手紙を、書くことができたのである。

そしてそのことを、誇りに思っていた。

20世紀前半のイギリスで一世を風靡した、イギリスの喜劇作家で俳優の、ノエル・カワードの手紙は、なんとかれの決定版の伝記にも、引用されている。発覚後その引用は、削除されたようだが。

この映画を見ていて、ディカプリオが実在の天才詐欺師フランク・アバグネイルを演じた、スピルバーグの『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』を、思い出した。

かれは、パイロットでも、教員でも、弁護士でも、医者でも、何にでもなりたいものに、易々となってしまう。捏造小切手も、誰もそれが見抜けないような芸術品である。ちなみに弁護士の資格は、本当に短期間の勉強で取得した。とにかく天才だったのだ。

リー・イスラエルは、家族とも疎遠で、パートナーなどいるわけもなく、親しい友人もいなかった。たまたま出所してきた昔の知り合いのゲイの男とつるんで、一緒に手紙詐欺を働いた。そして自分は無名だけれど、手紙でセレブになりきることが、得意だった。

フランク・アバグネイルも、実業家として成功していた父の失墜と、その後の両親の離婚を経験し、孤独の中で、他人のアイデンティティを、次々と自分の身体にまとわせてゆく。

二人とも、いやされない孤独(と貧乏)の中で、詐欺師になることでしか、他人のアイデンティティを次々に模倣することでしか、生存を保つことができなかった。彼らが模倣したアイデンティティは、まさに芸術品だった。

だいたい、アイデンティティなんて、役割なんて、すべてはフィクションである。だったらそれを模倣することの、どこがいけないのだろう。

と、かれらは思っていたのかもしれない。もちろんいけないに決まっているが。

アバグネイルの孤独は、FBIの捜査官が愛情の手を差し伸べたことによっていやされ、かれは刑期を経て更生した。実際には複数の捜査官だったが、映画ではトム・ハンクスひとりに集約された。かれとディカプリオの孤独なふたり、捜査官と詐欺師は、逮捕劇を演じながら、擬似父子関係をむすんでいく。

自分の書くものを買ってもらえなかったリー・イスラエルは、事件を経て、他人の伝記ではなく、自分の自伝を書くことによって、映画化もされるような傑作を書くことができた。

自分が自分として承認されないとき、かれら詐欺師は、他者のアイデンティティを模倣して、簡単に承認を勝ちえてしまう。

犯罪者としては迷惑な人々だが、かれらの心情は、ふつうの人々の思いを、極端なかたちで増幅してみせてもいるようだ。

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