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認めよう!認め合いましょう!のむずかしさ【ヤマシタのおたより#56】


多様性の社会、一人ひとりに合ったスタイル、個性を活かせる世界…

ここ数年で、ぐっと注目度を高めた概念だと思います。
私は、基本的には大賛成。

まあ、ちょっと履き違えている人もいるけれど。
「ぼく、寝坊しちゃうんで~」
「人見知りなんで~」
「忘れっぽいんで~」
を武器に強気でいるのは、どうかと思うけれど。

寝坊がどうしても直らないなら睡眠外来に通いませんか。
それか、支障がないように工夫するか。

人見知りだから挨拶しなくていい、返事しなくていいというのは暴論です。

忘れっぽいならメモを取ろう。

こんな風に思うのは、私が冷たいのでしょうか。

でもね、個性や得手不得手を言い訳にするということは、その分誰かにカバーさせているということなんですよ。

もちろん、工夫や努力、真摯な姿勢が見られたら、こっちだって張り切ってカバーしますけども。

言い訳にされるとね、うん。
なんか、違うんですよね…

できないのはいいんですよ。
問題は、そのなかで、どう動いて何を選択するかなんですよね。

たとえば。
「どうにも人と話すのが嫌なんで○○の仕事を選びました」
「会話がうまくできないけど営業になりたいんで、頭下げながらもどうにか頑張ってます」
「お医者さんに相談してます」
「人見知りなんでうまく話せないけど最低限あいさつはするように頑張ってます。まだ声が小さいんですけど…」
という方々は、素敵だと思います。

もちろん状況によりますけどね。
あくまでもここでは、「言い訳」にして正当化しちゃうパターンのやつです。

ちなみに、よく「一人でできる仕事」って言ったりしますけども。
そんなものは無いですからね。

作業は一人でもできるけれど、仕事は一人ではできません。


…違う。

こんな話をしたいんじゃないんです。
前置きが長くなってしまいました。

タイトルにもある、「認めましょう!」「認め合いましょう!」というフレーズ。
私は、これに違和感を覚えているんです。


なぜなら、認めるというのは、感情が大きくかかわるところだから。

認めよう!と言われて「はい、認めます!」「いいと思います!」って返す言葉って、嘘だと思うんですよね。

無理にそう言っているだけで、心底そう思っているかと考えると、疑問が残ります。


だって。
感情ってそんな、頭で理解してどうこうできるものではないじゃないですか。


「マカロニサラダに入っているリンゴ、美味しいって認めなさいよ」
と言われたって、嫌なもんは、嫌じゃないですか。

「同じクラスのA子ちゃんは人気者」
だとしたって、なんとなく仲良くなれないなって感じることあるじゃないですか。

「俳優のYくんとアイドルのPちゃん結婚するんだって!」
のニュースに、どうしようもなく残念な気持ちになる人もいるじゃないですか。


そのなかで発せられる「認めました!」「はい!」って、根本的な解決にはなってないよな、って思うんですよね…

じゃあどうすればいいのか。
私はこう考えます。

「わかるよ!頭では分かっていても認められないことってあるよね。なんかいやだな、なんか合わないなってこと、あるよね。
だからさ、そういうときは適度な距離感を持って、相手を傷つけないように、わざわざ否定しないようにだけ気をつけて関わっていこうよ!」

これです。

認められなくても、いいと思う。
でもだからって攻撃するのは違うよ?
人ごと否定するのは違うよ?

ということです。

マカロニサラダにリンゴが入っていても、酢豚にパイナップルが入っていても、それを好きになる必要も、認める必要もありません。
心の中で「どうかしてるぜ!!!!!!!!」と思っていても、かまいません。

だってそれ、感情だから。


でも。
おいしく食べている人にわざわざ「まずいじゃん」「私無理(笑)」と言う必要はないのです。


A子ちゃんのこと、「なんか合わないな」「私この子苦手だわ」と思っても構いません。そんなのフィーリングだし仕方ないもん。


でも。
じゃあA子ちゃんをいじめていいか、悪口を言ってもいいかというと、そうではないです。


好きな俳優とアイドルの結婚、認めなくても大丈夫です。
「なんでこいつと」と思ったって、いいです。


でも。
それをわざわざ相手に届くようにタグ付けまでしてSNSで書く必要はないのです。(タグ付けやメンションがなかったり、「結婚ショック―!」くらいだったりは、ご祝儀のうちかも)


「認めない=攻撃していい、人ごと否定していい」ではない、ということです。


ここで思い出す、わが恩師の言葉がありますのでご紹介しましょう。

あれは中学1年生の春、入学式が終わりたての初めての学級会。
担任のT先生は、笑顔でこう言いました。


「今日から一年間、同じクラスです。よろしく。
さあ、みなさん。
これからみんな仲良く…しなくて構いません!!!!」



ざわつく生徒&保護者。

「これからみんな仲良く…しなくて構いません。だって、これまで12年間、みんなは違う環境で育ってたんやから。色んな考え方があって、色んな思いがあります。でもね、このクラスはそういうこと関係なしに、集められて出来たんです。だから、全員、気が合って、仲良しになるなんて、無理!」



口をぱくぱくさせる生徒&保護者。

「ただね、それと、いじめや意地悪をするのは、別の話。どんだけ嫌やなって思う人とでも、グループ学習では協力します。気が合わへんなって人とも、遠足に行きます。そのときに、自分が嫌やなって思う人と、どう接していくのか。大人の付き合いをしていくのか。それをしっかり考えて学んでいってほしいと思っています。」


「いいですか。みんな仲良く!は、しなくていいです。でも、嫌な人、気の合わない人を攻撃したり無視したりするのは、それは違いますよ。心地よい距離感を持ってください。さあ、ここにいるみんなで協力して尊重し合って、クラスを作っていきましょう!!」



「いわば、クラスは船みたいなもんです。途中で降りられません。
荒波にもまれることもあれば、嵐に巻き込まれること、暑くて仕方ない日もあると思います。
そこで、どうやって進んでいくか、やな!!!!!!!!!(ニコッ)」

「ほんじゃあ!
今日から1年間、よろしくね!!!!!!!!!!!!(満面の笑み)」

びっくりしたし、そのとき人生で初めて目からうろこが大放出しました。

だって小学校までは「みんな仲良く」で育ってきたんですから。

小学校の卒業式からわずか1か月弱、いきなり「みんな仲良くなんてせんでいい」なんて言われたら。

目玉飛び出るわ。

そのときは、ドライやなとも思いました。
なんか、思ってたんと、違う。
中学校って、もっとみんな仲良いもんなんちゃうん?
と。

でも、この言葉はそれからの自分の人生に、いい意味での特大ブーメランとなって返ってきました。


間違いないわ、先生。ありがとう。

ちなみにこのクラス、私は大好きでした。

この先生の話は、こちらから詳しくどうぞ◎

「認める」という意味をどうとるか、にもよりますが。
そこに感情が絡む場合、それをどうこうしようというのは、無茶な話です。

傲慢ですら、あるかもしれない。

たとえ差別が入っていたとしても。
感情ですから、仕方がないのではないでしょうか。


「差別だなあ。ダメだなあ。と分かっていても、でも認められない」という苦しみもあるでしょう。
もしかすると、自分の感情と世間の風潮のギャップを埋められないことは、ものすごくしんどいことなのかもしれません。

それこそ、育ってきた環境・時代にもよると思います。

平成に生を受けた私と、戦後まもなく生まれた方では、人生の大半を占める価値観がごろっとまるまる違うのです。

そりゃ、昨今批判の的になる考え方をお持ちの方もいらっしゃるはずです。
それが自然だと思います。

ちなみに、ちょっとややこしくなるけど、正しい批判や感想は、いいと思いますよ。
あくまでも相手の存在は否定しないで、そのうえでの意見の相違なら。

(番組の感想お待ちしてます!作品の感想はハッシュタグ〇〇で!と言ったからには、マイナスの意見や感想が来ても受け止めなきゃいけないと思う。それをやれ誹謗中傷だと言うのは、違うと思います。そもそも中傷って、根拠の無いことを言いふらして傷つけることやで。誹謗とも違うからね。誹謗中傷ってまとめて言い過ぎなんよ…)


さて。どんなことでもそうですが、
■思うだけ
■思ったうえで行動に移す、あらわす

という違いは、大きいと思います。

腹が立って「なんやねんこいつ、どついたろか」と思うまではセーフです。
思っちゃったもんは仕方ない。
だけど、それで本当にどついちゃったら、あかんで。
ということ。少し極端だけど。



色んなところで、色んな事象で、認める認めないの話が出てくる今日この頃ですが。

いったん認める認めないは置いといて、シンプルに、どうやったら話にあがっている人たちが安心して暮らせるか、話にあがっていない人たちも心地よく暮らせるか、を考えたらいいのになあ、なんて思います。

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