「わかった」という消費
私の好きな方の1人である山口周さんが先日こんなツイートをしていました。
みんな「わかる」「わかってもらう」ということを求めていますが「わかった」と思われてしまうことは消費されるということでもあります。
この文章を読んだ時、「あぁたしかになぁ」と妙に納得した経験をしました。
ただこの納得感を上手く言語化できずにモヤモヤとしていたので、この場を借りて言語化していきたいなと思います。
そもそも「わかる」「わかった」と感じる瞬間はどんなときなのでしょうか。
解けない問題の回答を閃いた瞬間だったり、人の言わんとすることを理解した瞬間だったりでしょうか。または自分のことを他人にわかってもらうことかもしれません。
ではその瞬間に消費へと変わるとは一体どういうことなのでしょうか。
消費とは、欲求を満たすために財やサービスを消耗するという意味だとすると、わかったと思う瞬間、あるいはわかったと思われる瞬間は欲求が満たされ消耗された瞬間と言い換えることができます。
確かに「わかる」ことで知的欲求が満たされ満足する感覚はあります。
そしてその先に一つ疑問が生まれます。
本当に100%全てのことを「わかった」のだろうか。
物事への理解が進むにつれてわからないことをわかった。無知の知ですね。
なにかもっと深いところに真意があるかもしれない。
どういう意図でこの表現をしたのだろうか。
そういう風に思考を深める余白がある物事はさらなる「わかる」を追求し続けることができます。
逆に容易にわかる内容ではこういった思考の深さを感じられません。
つまり、山口周さんがおっしゃっていた「わかる」「わかった」と思われることとは、それ以上に思考が入り込む余白がなく消費されて終わるという意ではないでしょうか。
最後に、山口周さんがおっしゃっていた言葉で締めたいと思います。
いかに「素敵な謎」を立ち上げられるか。コミュニケーションを取る際に「わからせる」のではなく、「わかってないことをわからせる、そこに素敵な謎があると感じさせる」ことを企図してみる。
「素敵な謎」を立ち上げられる、あるいは感じ取ることができるようになりたいですね。
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