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やさしさは、クッキーの型をぽこんぽこんと抜くように。

やさしさには形がある。

ある人のそれは△だったり、ある人のは○だったり。ほかにも☆や♡、□など様々な形がある。

受け取る側はやさしさの「型」を持っている。その型も同じく人それぞれで、△や○、☆に♡、□などの形がある。

誰かに「やさしさ」をもらった時、その型にピッタリ当てはまると、信じられないくらい、穏やかで、幸福で、あたたかい気持ちになる。


もちろん「やさしさ」である以上、どんな「やさしさ」も間違っていない。

ただ、やさしさを「渡す側」と「受け取る側」の「型」が一致しないと、そこには隙間だったり、過分な愛が生まれてしまう。


□の型を持っている人に「○の形をしたやさしさ」を渡しても、□の隅っこにまでは届かなかったり、あるいは、○の分だけ受け取られ、端切れのように無駄になってしまうこともある。

クッキーの型をぽこんぽこんと抜いていくとできる、最後に残る中途半端な生地のように、思いがけず余ってしまう。

お互いの「型」が一致しないと「やさしさ」がどれだけ大きくても、どこか物足りなさを感じてしまうし、逆に、大きすぎても受け取りきれず「やさしさ」がはみ出してしまう。


その「物足りなさ」や「はみ出し」は意識できるものではないと思う。不満に思うものでもない。ただ、なんとなく、心がちょっとだけ寂しくなってしまう。

お互いに「なんとなく、心がちょっとだけ寂しいまま」が続くと、いつしかそれは目に見える不満を生み出すことになる。

言葉の端々にトゲのようなものを作ってしまったり、抱えきれずに吐き出したりする。それを私たちは「嫌味」や「ため息」だと認識し、さらに不信感を抱くことになる。


誰も間違っていないし、何も間違っていない。お互いの持っているやさしさの型が違っただけのこと。


もちろん世界には「どんな型でも、もらえる愛は嬉しい」と思える人や「どんな型でも、無限に愛を渡せる」と思える人がいる。

それはとても素晴らしいことで、その域にたどり着くまでたぶん、いくつもの悲しい出来事に出会ってきたのだろう。

「悲しい」と感じるのは、型にピッタリはまる「愛」や「やさしさ」がなかったから、かもしれない。

過不足のある状態が続くと、いつしかそれは寂しさ悲しさにつながる。

そんな出来事をいくつも乗り越え、受け止め、自分のものにしてきた人たちは、ある変化が起きる。


やさしさの型がなくなるのだ。


クッキーの生地をぽこんぽこんと抜く優しさではなく、その人の型に合わせたやさしさを渡せるようになる。型なんか要らなくて、自分の手で「やさしさの形」を変えて受け取ることができるようになる。

それは流動的なやさしさ。オーダーメイドのやさしさ。あなただけに渡すことのできるやさしさ。さらには「あなたがくれるなら」と型に頼らなくとも受け取れるやさしさに変わっていく。


でもきっと、そこに辿り着くまで、何度も何度もクッキーの型をぽこんぽこんと抜き続けたのだと思う。そうやっていくうちにきっと「自分と同じ型」を持っている人に出会える。

少しもはみ出さず、過不足なく、満ち足りているやさしさに出会える。

そんなやさしさに出会えたのなら、どうかすぐにオーブンに入れて、こんがりと焼いてほしい。バターの香りがたっぷりと広がるはず。香ばしいやさしさは、人をとんでもなく幸福な気持ちにする。おいしいねって笑い合えたらもっと素敵。


最初から「型のないやさしさ」を持とうと思っても、上手くいかないかもしれない。そのやさしさは確かに「型」はないかもしれないが、同時に「本質」もないのでは?と思っている。

「誰にでも優しい人は、誰にも優しくない」という言葉をよく聞く。

それは「やさしさ」を適当に見繕って渡しているだけで、その人の「型」を見極めて渡しているのとは、少し違うのかもしれない。

けれども、それも、間違っているとは思わない。やさしさも愛も、何も間違っていない。だからこそ悲しくもなるし、寂しくもなるのだ。


もしもあなたが誰かに寄り添おうとしているのに、少しだけ寂しさを感じているのなら、私は「大丈夫だよ」と伝えたい。そのやさしさは型が違っているだけで、決して間違ってなんかいないし、落ち込む必要もない。

いつかきっと、やさしさで満ち足りる日がくる。

そうしたらあなたは流動的なやさしさを手に入れ、どんな型にも寄り添える、香ばしいやさしさを持った人間になれるのだから。


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