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「みんなひどいじゃない。もっと私に優しくしなさいよ」という傲慢さを卒業できたのは孤独の時間があったから

11月から始めたYoutubeチャンネルが3月で4ヶ月目を迎えた。この
4ヶ月というのは私の中ではひとつの区切りでもあった。

そういう意味ではカード制作の時と同じように
「私はこのことを通して何を知ろうとしているのか?」
「私はこのことを通して何を自分にわかってほしのか?」
ということを考え、そのプロセスを残しておこうと思う

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とにかく30本と思った
30本は何があったとしても、どうなろうともアップしようと最初に決めた
最低でもそのくらいの経験をしないと、なんにもわからいままだろうなと思ったからだ。

ここまでの経緯はスタエフでも話しています



問題は更新頻度だった
スタート直前時には、撮影とか編集とか、他の仕事や日常のあれやこれやのやりたいこと(例、お酒飲むとか・笑)を色々考えると週に1本のペースくらいがちょっと頑張れば続けられるペースかなと思った

でも、それだと月に4本。30本というまとまった経験値をふむのに半年以上かかる
それは時間がかかりすぎるなと思った
この時間がかかりすぎるという危機感の大元には、半年後に、「はい、やった」だけの体験そのものを体験したかったで終わってしまいそうな予感があった

私は、体験には大きく分けて2つあると思っていて、ひとつは「体験そのもの」を目的としたもの。
例えば、高級ホテルのスイートルームにとまってみたいとか、どこか海外の街にいってみたいとか、1万円越えのプリン(そんなものがあるのかは知らんけど)を食べてみるとか
そういう「一度経験してみれば、満足」という類だ。

上記の例は「私にとって」という意味で、内容は人それぞれだろう。でも、人にはそれぞれ「一度体験してみたい。でも、だからといってそれだけである」というものはあるんじゃないだろうか。それはそれで楽しいことではある。でも、それだけだとつまらないとも思う。

一方、もうひとつは「体験の先のにある思索を求めてする」体験。経験というひとつの点が、過去の経験と線になり、新しい発見や制限の解除や、自分なりの生き方哲学のようなものに発展していくようなそんなもの。

まぁね、一度経験すればいいかと思っていたことが人生を大きく変えることになるというようなこともあるから、いつもいつもこの2つにきっぱりと分けられるものではないけれど、肌感としてこの2つがあるなぁと思うのだ

そして私にとって動画は後者の体験である。でも、週に1本のペースで半年かかっていたら、だれて半年後には前者の経験として終わってしまいそうな気がしたのである

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というわけで、週に2本アップで4ヶ月で30本ということにした
結果、生活リズムがめちゃくちゃになった(笑)

午前中に起きて撮影して、人にあったり、出かける必要がある用事を日中にすませ夕方戻ってきて寝てしまい、夜遅くに起きて編集をはじめ、おなかがすいいて夜中に食べたら眠くなり、うっかり寝落ちして朝方4時に起きて編集を再開。朝9時に仮眠。かと思えば、1歩も外にでずに2日間引きこもり、みたいな毎日

ライター時代がさんざんこんな生活で、そんなのを20年も続けていたので、体がその頃の感覚を覚えているっぽくて、へんなアドレナリンがどばーと出はじめた。なんというのかな、身体の方が「ああ、なんですか。ちょっとこれは頑張んないとダメなやつですね。了解でーす」という感じなのだ。ある意味、緊迫感なんだけど、テンションを上げようと仕掛けてきている感じ。とにかく異変が起きているが、ここは乗り越えなければならんというサインが身体から送られてくる。すまん、からだよ。そしてありがとうとも思う。ほんと身体は健気だ。

https://note.com/chika_ikeda/n/n81b93a3725b7?sub_rt=share_pw


とにかく、過去を遡るように心身ともにどんどんそこへとひっぱられていく。
体調は見事にその頃に引き戻され、むくむとか鼠蹊部の痛みとか、めっちゃ当時の不調がカムバック
「ああ、あの頃はこの体の状態が普通だと思っていたっけ」となつかしさすら感じたが、時は確実に流れているので懐かしがってもいられない。
生活リズムの立て直しについては今回の本題からはそれるので別途違う機会に書くことにして、とにかく体感があっという間に過去に引き戻された。
そして、その体感がきっかけとなって思索に入っていく


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そんな中、最初に頭に浮かんだのは
「ああ、私はこうやって生きてきた」だった
ライター時代のいろんな人とチームを組んでいて、一人じゃないという感覚と同時に、一人でもくもくと作業する孤独の存在。一人じゃないけど、でも、一人でもある。そのはざまで、決めなきゃいけないこと、判断しなきゃいけないことへ緊張感のようなものが常にあったなぁと思う

あの頃は、自分を知らなさすぎたから、一人ひっそりと孤独の中で自分をみるという感じが耐えきれなくて、へとへとになるまでよく飲んだ。口も嘆きも、希望も夢もよく友達と話しては泣いたり笑ったり怒ったりしていたなぁと思う

そして、ライター時代の前半は、とにかく作業してると「私っていったい何?』って思うことが多かった。調整変更、まだ調整してまた変更がとにかく多くて、「じゃ、こうします」という決断と、それに伴う各方面への連絡と説明と、そのことによって生じる話し合いという名のクレームとの間で、自分がなんだかわからないのに決めなきゃいけない恐怖が一人になると込み上げてきて耐え難くなり、行き着く先が「私って何?』だったのだ。
若かったなぁと思う
そして、何よりも傲慢だったなとも思う

怖いから状況をコントロールしたくて、あらゆる手を使っていたように思う。無意識だけど、被害者になってみたり、立場をかさにきてみたり、人を思い遣るふりをしたり、社会のルールのせいにしてみたりしてとにかく誰かや何かを悪者にすることで自分を守ろうとしてきた。時には自分を責めることで、人から責められることを避けてきた。一言でいえば「みんなひどいじゃない。もっと私に優しくしなさいよ」と世界に向かって叫んでいたわけで、まぁ、傲慢だったなと思う
それでも許されていたのは、若かったからだろう
今も変わらず、それやってたら、はなもちならないめんどくさい人である。やれやれ。

そういう時をへてなんとかやってこれたのは、この孤独の時間のおかげだ。
この孤独が常に常に問いかけてくるのは「あなたは何者で、なぜ、今、ここにいて、これをしているのですか? そしてそれで幸せですか?」ということだ

これまでずっとそうだったし、この4ヶ月もの間も変わらなかった
そして、それは時には「これまで大切だと思ってきたことは、これからも大切なものですか?っていうか、大切だということにして、ごまかしていることはないのですか?」という言葉に変わる
本質は同じ問いかけだけれども、この質問はより目の前の現実との具体的な照らし合わせとなる

正しくいきようと思っているわけではないし、完璧とは遠い人間だけれども、自分のことを嫌いにだけはなりたくない。
ダメだなぁと自分を笑い飛ばしたり、落ち込んだり、孤独のもつ寂しさを感じて悲しくなることがあったとしても、自分に対して「嫌いだ」とはいいたくない。

自分を嫌って蔑んで生きていきたくないから、「本当のところはどうなのよ?』という一人問答を経験を通して繰り返す
究極、私がやっていることのすべてはそのためなんだろうなと思う

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4ヶ月たってわかったことは、「本当のところはどうなのよ?』という一人問答をしたかったんだなということだった
残念ながら、その「本当のところ」の「本当」にまだ明確な答えがみつからない

引き続き、その問いかけを自分にしながら、100本までは続けてみようと思っている

こんだけ長く書いといて答えは見つからんのかい〜と思ったあなた
本当にごめんなさい

書くという作業もまた孤独なものだけど、ここに書くことで誰かと繋がっていると思えることが孤独を引き受ける力になるのですよね
読んでくれて本当にありがとうございます

動画を通しての発見はまた記していこうと思います
これにこりずに今の私の現在地に、お付き合いくださると嬉しいです

スピリットエナジーチャンネル
水曜、日曜の夜に3択リーディングしています


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