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「めんどくさい」と口について出た時は

散歩を再開した
去年の夏頃は少し歩いていたのだけど、その頃は健康によい最低ラインの8000歩歩くのも決死の覚悟で、1万歩など精神的にもめんどくさいし、体力的にも無理という感じだった

それが秋になり冬になり寒くなってめんどくさくなり散歩をほとんどしなくなった。

この「めんどくさい」という言葉は使い勝手のよい言葉だ
「考えたくない」あらゆる案件に対して適応され、その考えたくないことについて蓋をすることができる端的な言葉

何がめんどくさいの?と聞かれたくもないとさえ思ってしまうようなレベル
めんどくさいが口に出た時というのは、そんな思考停止の状態なのではないかと思う

「めんどくさい」はそんな黒魔術のような魔法の言葉だ

めんどくさいの魔法とは、一言で言えば自分への鈍感さの魔法だ
先ほど書いたように「めんどくさい」と一言呟けば、考えたくないことに向き合わずに済んでしまう・・その時は

たいていツケはあとから払うことになるわけだけど(笑)


考えたくないことを先送りにする
それは自分自身から目をそらし、自分という存在から離れるということでもある

蓋をして離れた分だけ、自分に対して鈍感になる。
鈍感になるということは自分がわからなくなるということだ

散歩を再開してつくづく思ったのは、自分の五感がものすご〜く鈍っていたということだ。

陽射し、風、温度、湿度、天気の変化、植物の成長、景色の変化、人の声、鳥のさえずり、車の音などなど、あらゆるものが変化し、流れ、循環しているという、当たり前のことを忘れていた

頭ではもちろん理解しているけれど、問題は感覚としてキャッチできているか?
そう「感覚」なのだ
感覚として捉えられるかどうか?

外の世界への感覚の麻痺は自分の内的空間の感覚の麻痺につながる
違和感を感じること
ふと降りてくるインスピレーション
ひらめきというアイディアなどなど
自分に鈍感だとキャッチできなくなる

そういう目に見えない、言葉にしにくいことをキャッチできなくなると人は不安感が増す。そしてその不安を「目に見えること」を代用して埋めようとする。

それが「人の顔色」だったり「肩書き」「お金」「誰かからの賞賛」などなど他人軸と言われることにつながっていく

「めんどくさい」と感じることがあってもいい
「めんどくさい」で一旦保留にすることが必要な時があってもいい
ただ、めんどくさいが口をついて出た時に
「今、私は自分に対して鈍感になりつつあるな」という自覚は持っていたいと思う。

散歩はそんなことを改めて確認し、自分の感覚の訓練になっている。
歩く瞑想っていうけれど、散歩は
身体の健康のためというよりも心のためにとても役立っている

1万歩に縛られるすぎることなく心地よい心と身体に整えるための習慣として続けていきたい



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