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自分が許可した物の中からしか選択できない

自分が当たり前だと思っていることって、わざわざ言葉にはしないものだなぁと思う。当たり前すぎて自分が「それ」を当たり前だと認識していないからだ。
「え?当たり前だと思っていたけど違うの?」っていうような他人の言動や出来事を通して「そうでない選択がある」ことを知る。
そうやって自分の中に選択肢が増えていく・・・と思っていたのだけれども、それすら私の当たり前だったのだということに気がついた。

「そうではない選択」を目の前で見せられても、「それを選ぶってことをあるなぁ」と思わない人もいるのだ。
誤解しないでほしいのだけれども、「それを選ぶってありだな」と思った上でそれとは別な選択をすることとは別である。

「それを選ぶってありだよな」ってつまりは「それを選んでもいい」という自分への許可である。人は自分が許可したものの中からしか選択できない。

「あれもいい」「これもいい」「こっちでもいい」「あっちでもいい」「ああなってもいいし」「こうなってもいい」そういう許可を出して初めて、「さぁて、何を選びましょうか」という決断へと至る。

自由度って自分へどれだけ許可できるか?で決まるのだ。そして、冒頭の、人の言動や出来事(それは身近なことから世界の出来事まで)を通して「そんな選択をする人がいるのか?」「そういう選択もありなんだ」を知ることによって自分に許可を出す機会を得る。

そう、私はずっとずっとその機会を得る🟰自分に許可するということであると思ってきた。無意識に。その上で、「それをしてもいいけど、やめとこ」もあったし「それもありだな。怖いけどそうしよう」もあった。その基準は自分なりにだけれども、その時々の自分に正直であることで選んできたように思う。未熟な分だけ酷い目にあったし、誰かを酷い目にも合わせたけれど、この方程式が自分の当たり前だったのだ。

でも、目の前で提示された神様からの「こういう選択もありますよ」という提示をそれは違いますと頑なに許可しない人もいるのだ。
ずっとそういう人を「我慢強いな」と思ってある意味「私もこの我慢強さを見習わなければならないのだろうか?」と自問自答してきた時期もあった。

でも、そういう自問自答のプロセスの中でつくづくとわかったことは、その我慢強さは自分に自由を与えない頑なさでしかないということだった。

そしてそういう頑なさを持っていると、自由とは「人から束縛されないこと」「強制されないこと」だと勘違いしてしまう。
そして環境を、誰かを嫌い、呪い続けることになる。
もうしくは、自分を憐れみ、その一方で尊大になっていく

いやいや、不自由にしているのは自分なんだよね
ようは自分に許可できていないから、周囲に対して「こうなってくれたら」という期待のようなものを持ちながら自分が自由になる許可を相手に求めてしまうのだ。
私は自由であることはとても大切なことだと思っているので
自分の心がひときわ「自由になりたい」「自由くれ」とわーわーと騒ぎ出した時、この闇に落ちていないか?を自分に問いかける

自分を自由にできるのは自分だけなのだ
大空を自由に飛びたかったら、自分に飛ぶことを許可して自分で飛べばいいのよね


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