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大切なのは「やりきった」と言えること

先月から1年以上寝かし続けたスタエフを稼働した。先日、型について話した回で数稽古と口にして、そういえば、稽古量が遥かに減ったなと思うことがひとつある。

それが「書く量」だ。フリーランスで編集やライターをしていた時期から比べると明らかに減った。一番、「書く」量が多かったのは、ライターを続けながらカウンセラーの仕事をしていた頃だろう。

ライターをするかたわら、カウンセリングスクールに通っている間も日記のようなブログを書いていたけれど、カウンセラーとして活動するということになって、心のことを書くようになった。そこからは、よく書いたと思う。

まず、ライターとして毎月、何本かの原稿を抱えていた。それには締め切りがある。そういう原稿書きの合間に、ブログを書いた。そうそう、メルマガもとぎれとぎれではあったけどこの頃に始めた。
私にとって原稿を書くということと、ブログを書くというのは、同じ「書く」作業でも質がまるで違った。原稿は自分を直接的に表現するものではなかったが、ブログは自分を直接的に表現するもので、その違いが当時の私には大きな意識改革になった。

あの当時、編集ライターとして、私がよく担当していたののは、ダイエットや健康系の記事、あるいはエクササイズやスキンケア、ヘア、メイクなどのビューティ系の記事、そして芸能、著名人などのインタビュー記事、時々、単行本のゴーストライターやちょっとした広告のコピーライティングなど。
それらは「私はこう思う」「私はこう感じる」という「私のこと」を直接的に表現することを必要とされなかった。むしろ、出したら「必要ありません」と修正が入るような内容のものばかりだ

もちろん、厳密には「この人のこの発言がおもしろい」とか「この企画はこういう意図でこういうページネーションで展開しよう」など読む人には見えないところでの私自身の意思はある。でも「自分を知ってもらうために書く」という類のものではない。知ってもらうべきは、いつもなんらかの方法だったり、物やシステムや誰かのことだった。私のことではない。
大事なのは企画の意図にブレがないことや、インタビュー相手に読み手の意識が向かうこと、あるいはその時は言葉として発しきれていなかった相手の本意を汲み取ってそれが伝わるように記事をまとめることにエネルギーを費やす。

長いこと私にとって書くということはそういうことだった。

でも、カウンセラーとしてブログを書くということは、これとはまったく違って「自分を直接的に表現する」という意味の書くだった。これにはとても戸惑った。最も大きな戸惑いは、自分の言葉のリズムがわからないことだった。ライターとして書く時のリズムとは違う、そのリズムを把握するまで、なんだか違和感があり落ちつかなったのをおぼている。

このリズムを把握する時期が一番「書く」量が多かった。
あの頃の生活を振り返ると、原稿書きが煮詰まると、ブログを書く。ところがブログは、自分の生理的なリズムが掴めなくて時間がかかり、そこで煮詰まると再び原稿書きに戻るという感じだった。
「書く」のに煮詰まると「書く」ことで気分転換する。その合間によく本を読んでいた。今ほど動画とかSNSとはみていなくて、(FBもインスタも、そもそも「こういうSNSが出てきたよ」という原稿を書くためにアカウントを作ったのがきっかけだった)
唯一、文字から離れる時があるとしたら映画を見ることと、楽器(おことや三味線)を弾くことくらいだった気がする。
ああ、あと夜中から飲むってことはあったけど、さすがに入稿が重なると3日くらいは一歩も外にでずに引きこもって家で書いていた。

あの当時はそんな感じで、とにかく書いていたなと思う
特に人の人生を変えるような文章ではないし、誰でも書ける文章ばかりだったけれども、それでも書く量だけは、たぶん今の10倍は書いていたと思う。


今、あれだけの量を(質は別として)書けるか?と考えみたけど、答えはNOだ。
もちろん書けばいいってもんでもないけれども
だた、人生においては、そうやってスクワットするみたいに、ただもくもくとやるというようなことが必要な時期があるなと、当時のことを振り返ってつくづくと思う。

その時はそんなつもりはなくても「とにかくやった」という質量が、今の自分を支える自信になるように思うのだ。
「これがこうなって、こう向上した」とか「この点において成長した」という明確な答えがなかったとしても、だ。大切なのは「やりきった」と言えることなんだろうと思う。



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